雨が降り、風が吹き、紅葉はいま駆け足だ。
朝夕、冷え込むようになった来た。
日々、秋は深まりの色をみせている。
花や木を愛し、語りかける。
心もおもむくままに、描く。
独自の絵の手法で・・・。
マルタン・プロヴォスト監督による、フランス・ベルギー・ドイツ合作映画である。
フランス映画界の祭典といわれるセザール賞で、並みいる話題作を退け、実在したある女性画家の生涯を描いたこの作品は、最優秀作品賞など、最多7部門を独占した。
セラフィーヌ・ルイは、フランスに実在した素朴派の画家で、彼女の描く鮮やかで幻想的な絵は、観るものの心を強く惹きつける、不思議な力を持っていた。
切ないほどに無垢な心に、危ういほどの激しさを宿し、“描くことが生きること”であった彼女の、美しく純粋な人生が、豊かな自然の中に溶け込むような詩情とともに綴られる。
1912年、フランス・パリ郊外・・・。
幼い頃から貧しく、家政婦として働いていたセラフィーヌ(ヨランド・モロー)は、人を寄せ付けず、部屋にこもって、黙々と絵を描く孤独な生活を送っていた。
絵具を買うこともままならず、草や木から色を作り出して、通っていた教会のろうそくの油をくすねて、オイルの代用にしていた。
そんなある日、画商ヴィルヘルム・ウーデ(ウルリッヒ・トゥクール)は、サンサスで一枚の静物画に出合い、衝撃を受ける。
その作者は、なんとウーデ家で働く家政婦セラフィーヌだった。
ウーデに認められ、援助を約束されたセラフィーヌは、個展を開くことを夢に絵を描き続けるが、第一次世界大戦が激化し、敵国の人となったウーデは、フランスを離れてしまう。
戦後、二人は再会し、セラフィーヌは数々の傑作を描き出していく。
ついに、彼女の夢が実現しようとした矢先に、1929年の世界大恐慌が二人にも影響を及ぼし、ウーデの援助も不可能となる。
絵を描くこと、それはセラフィーヌが生きることを意味する。
憑かれるように、絵に没頭する彼女であったが、ウーデの経済的な破綻を理解できず、自分は神からも見捨てられたと、彼女と現実とのバランスは崩れていった。
そうして、セラフィーヌは次第に神経を冒されていった――。
女が、画家になることの難しさとともに、階級社会の底辺に生きていたセラフィーヌは、一人の人間、一人の画家として、貧しくとも懸命に生きた。
映画は、無垢で自由な人間を描いて、静かだが、ヒロインの存在感もさることながら、鮮烈だ。
セラフィーヌを演じている、ヨランド・モローの演技が胸を打つ。
彼女は、初めてセラフィーヌの写真を見せられたとき、「これは私だ」と語ったといわれる。
彼女に見えるのは、神と自然の眼差しで、まるでセラフィーヌに彼女が乗り移ったような演技に、思わずため息が漏れる。
映画が進むにつれ、ヒロインは映像に詩的で感情的な重みを与えることに成功している。
彼女の演技は実に控えめで自然だから、なおのことそこには、逆に強烈で洗練された重みをまとうことになるのだ。
信心深さとほど遠いウーデが、セラフィーヌのことを聖女と呼んでいるのだが、それほど見方によって、ある種の神聖さに達しているように感じられるのだ。
ときに、彼女の創作活動を見ていても、宗教的、神秘的で、聖女の祈りのようでもある。
マルタン・プロヴォスト監督の作品「セラフィーヌの庭」は、森の夜明けから始まって、夜の闇は見る間に薄れ、木漏れ日がさし、渓流が眩しく光っているシーンから始まる。
そして、古い石畳の道を、女が早朝ミサの行なわれている聖堂へと入っていく・・・。
と思うと、突然シーンが変わり、女(セラフィーヌ)が黙々と床を磨いている。
そこで、ヒロインがその家の家政婦であることがわかる。
この作品に見る、二十世紀初頭の空気感はまことに心地よいもので、過ぎていった日々のしみじみとした情景が、あまりにも静謐すぎて、戸惑いを覚えるほどである。
スクリーンの映像が、ひとつひとつ詩情にあふれた、美しい絵画のようだ。
地味な作品だが、心に残る、味わい深い一品だ。