日本の春たけなわなれど・・・。
満開の桜が、花散らしの雨と風に泣いている。
生誕150年を迎える、近代俳句の祖といわれる、俳人で歌人の正岡子規特別展が神奈川近代文学館で開催されている。
春の文学散歩である。
正岡子規は、近代日本の黎明期に新しい文学の改革を目ざし、そのわずか35年の生涯において、俳句、短歌はもちろん書画まで、多岐にわたるジャンルで新時代の表現を追求した、稀有な才能の人である。
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
この句を知らない人はいないだろう。
正岡子規(本名・常規)は、結核性の脊椎カリエスに苦しみながら、風景や心情を平明な言葉で伝える俳句や短歌を多く残した。
ときに病に苦しむ自らを客観的に見つめ、ユーモアさえ交えて・・・。
一時は政治家を志し、小説にも挑戦したが、そちらの方はかなわなかったようだ。
病床での子規の口述筆記は、口語体の平明な文章を生むきっかけともなり、俳句の大衆化の流れを作ったといわれる。
特別展は、第1部「明治の青年・子規」、第2部「子規庵からー新しい言葉の創造」、第3部「病牀六尺の宇宙」から成り、10代から最晩年にいたる草稿や書簡など330点の資料が展示されている。
今回、これまで正岡子規の全集に未収録だった書簡一通が見つかり、貴重な資料として展示されている。
故郷、松山に住む叔父の大原恒徳に宛てたもので、病苦との闘いを強いられ続けた日常や人柄の伝わる資料で、明治29年12月1日付、巻紙に毛筆で書かれている。
書簡では、東京の子規宅を大原が訪ねた際に、胃痛のためもてなすことのできなかったことをわび、さらに絣(着物)代を渡し忘れたことに触れ、後で送金する旨のことが書かれている。
子規は病床にあっても、天性の明るさを失わない性格だった。
当時、忌み嫌われていた結核という不治の病にもかかわらず、子規のもとには多くの人々が集い、誰もが元気をもらっていったという。
子規の左脚は曲がったまま伸びなかったので、根岸の指物師に作らせた座机は、立膝を入れる部分が切り抜かれている。
その現物も、彼の生前を偲ばせる。
そして、1902年(明治35年)8月19日に病状悪化で永眠する、その直前の8月18日に揮毫された「絶筆三句」は印象深い。
死を目前にして、なおゆとりさえ見せ、言葉にもユーモアが感じられるではないか。
「をととひのへちまの水も取らざりき」
「糸瓜咲て痰のつまりし佛かな」
「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」 (絶筆三句)
正岡子規34歳、いかにも若すぎる晩年であった。
本展関連行事としては、4月15日(土)俳人・長谷川櫂氏「新しい子規」、5月20日(土)文芸評論家・三枝昂之氏「正岡子規ー文学という夢」などの講演、他にも朗読会、講座、ギャラリートーク(毎週金曜日)など多彩な催しが目白押しだ。
正岡子規の文学と生涯を振り返るとともに、親友夏目漱石をはじめとする多くの文学者たちとの交流も紹介されており、とにかく短い生涯ではあったが最期まで生きることを楽しんだ、人間子規の魅力に十分触れることのできる機会だ。
この特別展、4月25日(火)には一部展示替えが行われる予定で、5月21日(日)まで開催中だ。
次回はフランス、ボスニア・ヘルツェゴビナ合作映画「サラエヴォの銃声」を取り上げます。
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ユーモラスではありますが、あまり想像したくはなかった・・・。
もう想像するだけで、深刻この上なく・・・。
死の床にあっての辞世の一句とは、それだけに痛ましいかぎりです。
子規は「病牀六尺」の中でもこう言っています。
「病気の境涯に処しては、病気を楽むといふことにならなければ生きて居ても何の面白味もない」
病気を楽しんで面白く生きるとは、しかしまた何という子規の表現でしょうか。