徒然草

つれづれなるままに、日々の見聞など、あれこれと書き綴って・・・。

映画「キャタピラー」―忘れるな、これが戦争なのだ!―

2010-08-16 18:57:24 | 映画
異色の反戦映画である。
戦争とは、人間が人間に、犯され、切り刻まれ、焼かれることだ。
この映画は、そう主張する。
忘れるな、これが戦争なのだと・・・。
さすがに、若松孝二監督ならではの究極の反戦映画だ。

戦争に、正義などない。ない。
いま、人々は、太平洋戦争をはじめとする「戦争」の意味や本質を忘れつつある。
戦争体験の世代はもちろん、戦争を知らない世代も、そのことを知るべきではないか。
この作品は、太平洋戦争末期、四肢を失った傷痍軍人と銃後の妻の、残酷で痛烈な物語だ。
これは、若松監督の怒りだ。

巨大なキノコ雲の、あるいは振り注ぐ焼夷弾の、あるいは大量虐殺の、その下に潰される前、灯りのともった小さな家々に、多くの人間がいた・・・。
そこへ、勲章をぶら下げ、軍神となって傷痍軍人が帰還した。

手も足も、四肢を戦争で失い、頭と胴体だけの姿で・・・。
家庭は、最後の戦場となった。
妻のシゲ子(寺島しのぶ)は、夫の久蔵(大西信満)の介護をしなければならなかった。
口もきけず、耳も聞こえず、身動きのできない体だった。

男の口に粥を流し込み、糞尿の世話をし、男の下半身にまたがり、銃後の妻の日々は過ぎていく。
食べて、寝て、食べて、寝て・・・。
季節だけは、確実に過ぎていく。
秋から冬、そして冬から春へ――

この作品で、主演の寺島しのぶはベルリン国際映画祭で、日本人として田中絹代以来何と35年ぶりに最優秀女優賞(銀熊賞)に輝いた。
彼女の体当たりの演技が、きわめて高い評価を得た。
寺島しのぶは、若松監督のオファーを受けて、この作品の製作にあたって、「マネージャーも、衣裳も、メイクもいない。化粧もしないで、素顔で演技をしてほしい」といわれ、その要請にきっちりと応えたのだった。
二人は、年齢も性格も全く違うはずだが、表現しようとするものに対する姿勢に変りはない。

寺島しのぶは、映画がつまらないのは、監督と俳優の責任だということをよくわきまえている。
まさかの授賞式には、不在のヒロインに代わって、若松監督が舞台に立って、彼女のメッセージを代読したのだった。
日本に、日常感の溢れる女優は大勢いるが、彼女のように、劇的空間で演技力を発揮できる女優は少ないように思われる。

二人の夫婦に焦点を絞った脚本(黒沢久子、出口出)も、よく推敲されている。
女性の情念の描き方もそうだけれど、妻と夫との支配関係の変化も面白く描かれている気がするのだ。
さらに、シゲ子が、卵を久蔵の口に無理やり押し付けるシーンで、その後ハッとなって久蔵を抱きしめるところは、女の中の強い母性を感じさせる場面だ。

「キャタピラー」の、本当の意味を知っていますか。
本当の意味は、もうひとつの意味だということを・・・。
そして、戦争とは何なのか。
国家のために、人が人を殺すということは、何なのか。
それが、この映画の叫びだ。
全体に若松イズムが横溢していて、戦争の悲惨を通じて、人間を深く洞察しようとする作品だ。
しかし、この若松イズムは、ややもすると独善先行の嫌いがあり、一歩間違えるととんだ茶番劇になりかねない、大きな危険をもあわせ孕んでいる。
だが、冒険と挑戦なくして、いい作品も生まれないものだ。
この若松孝二監督作品「キャタピラーは、必見の一作ともいえるだろう。

映画のエンドロールで歌われる、元ちとせの主題歌が、悲しく、訴えかけるように、切々と胸の底に響く。
     戸をたたくのはあたしあたし
     平和な世界に どうかしてちょうだい
     炎が子どもを焼かないように
     あまいあめだまがしゃぶれるように
     炎が子どもを焼かないように
     あまいあめだまがしゃぶれるように (「死んだ女の子」の一節より)
 ―― 戦争の20世紀を経て、しかし、いまもなお、世界は同じ過ちを繰り返し続けている・・・。
愚かな人類の犯した、同じ愚かな過ちをである。

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2 コメント

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以前ご紹介のあった (茶柱)
2010-08-17 01:53:11
作品ですね。「芋虫」原作の。

内容的に「ジョニーは戦場に行った」を想起させます。戦争に正義はない。同感です。
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何の・・・ (Julien)
2010-08-19 07:38:33
正義もない戦争を、この時期になるといやでも思い出してしまいますね。
とはいえ、この作品、家庭が舞台で戦場のシーンがないのが特徴です。
そういう演出なのです。
全国公開になってから、若松監督も主演女優も、テレビやら公開劇場などでひっぱりだこのようですね。
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