3.11東日本大震災から、早いもので6年以上が経った。
「軽蔑」(2011年) 、「さよなら歌舞伎町」(2015年)などを発表した廣木隆一監督が、自身の故郷である福島を舞台にした処女小説を原作としている。
震災後の被災地に生きる人々の、苦悩を描いた作品である。
作品全体に、やや重苦しい雰囲気が漂っている。
被災者である登場人物の心象風景だ。
これがこの作品の大きなテーマだ。
震災の記憶から逃れようとしても逃れられず、自分が生き残ったことの意味を問い続ける。
風景も人間も、この作品の中では虚脱感が漂い、日本という国の抱えた矛盾を映し出していく。
結構まともな作品である。
役場に勤めていた金沢みゆき(瀧内公美)は、母を津波で亡くし、仮設住宅で父と暮らしている。
農業を営んでいた父(光石研)は、補償金をつぎ込んでパチンコ浸りの日々だ。
同僚の勇人(柄本時生)も家族はバラバラだ。
勇人は東京から来た女子大生に、震災当時の記憶を聴かれるが、言葉に詰まり何も言えない。
原発で汚染水対策を担当する隣人は、嫌がらせを受け、絶望した母は自殺を図る。
みゆきもまた将来の希望が開けないでいる。
恋人ともうまく付きあえなくなって別れた彼女は、毎週末になると高速バスで上京し、渋谷のデリヘルで風俗嬢として働いている。
しかし、彼女とて生きている実感を得られないでいる・・・。
生きることが決して不器用なのではない。
心の空洞が、どうしても塞がらないのだ。
どの被災者も、震災6年後の現実にあえいでいる。
怠惰かもしれないし、狭量かも知れないし、身勝手かもしれない。
しかし、誇張や虚飾のない等身大の人間たちだ。
市役所職員のみゆきが、何故デリヘル嬢を始めたかは映画では一切語られていない。
人はそれぞれ、違った心の痛みを抱えている。
フィクションはフィクションなりの、リアルな現実をともなっている。
無人の街、壊れた原発、積み上げられた除染廃棄物といった、荒涼とした福島の光景は、現在の福島のあるがままの姿なのだ。
やりきれない虚脱感が、この街に、いやこの国に満ちているのだ。
政治は何をしているのだろう。
そんなことを考えさせられる。
いまの日本の縮図である。
作品に悪人は登場してこない。
金のためではなく、デリヘル嬢として働く役を瀧内公美が好演している。
ほかに、震災で全てを失った男のやり場のない男を演じる光石研もなかなかだし、被災者の心情を映し出して廣木監督の気配りのきいた演出に好感が持てる。
福島と東京を往復する高速バスの、窓の外に飛び去る高圧線の鉄塔や田園の緑が何を物語るか。
被災者の心情を映し出して心に残るが、登場する幾つかのエピソードがそれぞれ交わることはなく、物足りなさも残った。
廣木隆一監督の映画「彼女の人生は間違いじゃない」は、かなり思い切ったタイトルだ。
登場人物を覆う虚無の深さや、胸の痛む想いに落ち込んでしまいそうだ。
これが、現代の日本の姿に見えてくる「福島」の暗喩なのだと言い聞かせてみる。
いまだに先が見えないからだろうか。
日本人なら、福島を忘れてはいけない。
そう思いつつ観る、ちょっと悲しい映画だ。
[JULIENの評価・・・★★★★☆](★五つが最高点)
最新の画像[もっと見る]
-
川端康成 美しい日本~鎌倉文学館35周年特別展~ 4年前
-
映画「男と女 人生最良の日々」―愛と哀しみの果てに― 4年前
-
文学散歩「中 島 敦 展」―魅せられた旅人の短い生涯― 5年前
-
映画「帰れない二人」―改革開放の中で時は移り現代中国の変革とともに逞しく生きる女性を見つめて― 5年前
-
映画「火口のふたり」―男と女の性愛の日々は死とエロスに迫る終末の予感を漂わせて― 5年前
-
映画「新聞記者」―民主主義を踏みにじる官邸の横暴と忖度に走る官僚たちを報道メディアはどう見つめたか― 5年前
-
映画「よ こ が お」―社会から理不尽に追い詰められた人間の心の深層に分け入ると― 5年前
-
映画「ア ラ ジ ン」―痛快無比!ディズニーワールド実写娯楽映画の真骨頂だ― 5年前
-
文学散歩「江藤淳企画展」―初夏の神奈川近代文学館にてー 5年前
-
映画「マイ・ブックショップ」―文学の香り漂う中で女はあくなき権力への勇気ある抵抗を込めて― 5年前
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます