花の季節だというのに、衝撃的な話が伝わってきた。
あの原発事故から、早いもので一年有余・・・。
福島で、5歳の子供が下痢を訴え、次に口内炎などの症状が現れ、それから鼻血が出るようになり、身体に紫斑が出始めたそうだ。
広島での被曝体験があり、以来、放射能が人体に及ぼす悪影響の研究を続けてきた医師の警告だ。
これは、間違いなく被曝の初期症状だというのだ。
そして、広島、長崎の被爆者と同じ順序で症状が進行しているそうだ。
福島第一原発の事故によって、大量に放出された放射性物質が、人体を蝕み始めたのではないかというのだ。
怖れていたことが、早くも始まったということか。
あまりにも、残酷過ぎる話である。
これから後、何が、どんなことが起きてくるというのだろうか・・・。
・・・福島原発事故で失われたものは、あまりにも大きい。
いまも、16万人が故郷を追われている。
その反省も検証も、まだなされていない。
何をしているのだ。
大きな不安の中で、根本的な安全対策も基準も出来ていないのに、政府は原発再稼働へ前のめりになっている。
原発再稼働がないと、電力は本当に不足するのか。
いや、そんなことはないとの声も、あちらこちらから聞こえてくる。
政府や電力会社は、電力需給について、突き詰めた細密なデータを提示していない。
そして、原発の全停止は、国民の‘集団自殺’だなどと言って扇動している。
何を血迷ったことを、言っているのか。
国民が節電に務めるだけで、つまりちょっと工夫するだけで、いまの日本の真夏をも楽に乗り切ることができるというのに・・・。
政府や関西電力が何を言おうと、中部電力にしても中国電力にしても、十分な余剰電力を有しているので、いざという時にはいつでも本気で電力の融通は可能なのだ。
電力が足りない足りないとはいっているが、どうやら眠っている火力発電や、いざという時のために公にされていない、余剰電力もそこそこあるそうではないか。
一体どうなのだ。
政府や電力会社が、嘘をついているとしか思えない。
努力すべき対策は、本気になればいくらだってあるのに、それもしないで、電力不足をことさらアピールして不安を駆りたてる。
そんな姑息な手段で、国民を恫喝するのも、いい加減にしてもらいたいものだ。
雨の日だった。
停止中の、大飯原発の再稼働に反対する2000人近い人々が、首相官邸前でシュプレヒコールを叫んでいた。
女子学生、サラリーマン、子供を持つお父さんたちだ。
この人たちは、みんな抗議行動などはじめてなのに、よくぞやってくれました。
いまの国民の代弁者たちだ。
世界に名だたる地震国に54基もの原発を作り、日本は世界第三位にのし上がった。
はじめは原発利権から動き、それが誤った原子力絶対主義をまかり通すことになった。
それ自体、狂気なのだ。
それなのに、この国は、周期的に必ず巨大地震や大津波が押し寄せてくることを知りながら、誤った「政治」が、原発を絶対「安全」だと偽って、強引に最初のレールを敷いたのだった。
政治家ならぬ政治屋にとって、この巨大公共事業のうまみは相当なものだからだ。
原発立地の地元には、膨大な金を落として、住民を懐柔するシステムを作ってきた。
だから、原発なくしては、地域住民は生活が成り立たないところまで来てしまった。
今だから言えるかもしれないが、取り返しのつかない、大変なことをしてくれたものだ。
官僚は、政治と電力会社を結びつけ、橋渡しをしてきた。
両者ともに、原発マネーにどっぷりとつかってきたのだ。
もはや散々言い古されたが、原発に安全だなどということは、絶対にない。絶対にないのだ。
永田町には、原発推進派の議員が、それでもうじゃうじゃといる。
原発推進派によって、利益を得るごく一部の人間たちのために、消費者も、世界一高いといわれる電気料金を、支払わされているのではないか。
いま、そうした普通の人たちが動き出したのは、原発が、いかに怖ろしいかを知ったからだ。
近く、あるいは将来、いつ大きな地震が来るかわからない。
こんど原発事故が繰り返されたら、もう、この国にはきっと住むことができなくなる。
地震という災害は、人間の手で止めることはできない。
だが、原発事故は人災なのだから、防ぐことができる。
原発再稼働を、安易に容認してはならない。
原発事故によって、想像以上に、放射能汚染地域は日本中のいたるところに拡がっている。
こうしている今も、じわじわち拡がりつつある。
大気中に放出された、放射性セシウムの総量は、最大約四京ベクレル(京は兆の1万倍)というから、これだけで旧ソ連のチェルノブイリ原発事故での放出量の約2割だ。
先々月、気象庁気象研究所が、まとめた試算を公表した数字に驚いている。
原発安全神話たるものは、根拠がなく、もろくもとうに崩れ去った。
何が安全なものか。
それなのに「原発で輝かしい未来を!」などと騙され、不当にも容認されてきてしまった。
利益優先、安全軽視の人災だ。
原発がなければ、電力不足になるというが、これもおかしい。
人類は、原子力を完全に制御する技術を持っていない。
放射性廃棄物は、処理されることもなく、どんどんたまり続けているではないか。
なすすべもないということは、怖ろしいことである。
核が、人類と共存できるわけがないのだ。
それでも、原発を稼働したいのか。
原発は廃止すべきで、廃炉の心配はもとより、再稼働はやめるべきだ。
ストレステストだって、あてにならない。
さもないと、人類は、重大な過ちを犯したまま滅亡へ向かうことになる。
安全だというなら、誰が安全と確認したのか。
原子力安全委員会は、ストレステストの一次評価の結果を了承したといっても、大飯原発が安全だなどとはひとことも言っていない。
政府御用達の専門家のみならず、反原発専門家の意見は聞いたのか。
反原発科学者の意見は聞いたのか。
くどいようだが、原発の安全性の評価については、あの斑目委員長ですら「不十分」の見解を示しているではないか。
はっきり言えば、原子力安全委員会の専門家さえもが、大飯原発の再稼働の安全性評価について「不十分」と判断しているにもかかわらず、たんなる素人の政治家ごときが、再稼働の安全性について、何故「十分」だなどと言いきれるのだろうか。
その昔、電気のない時代があった。
太陽と水があれば、極端に言えば、電気なしで人類は生きてきた。
それを、思い起こすことだ。
豊饒と飽食と贅沢が、人間に誤った驕りをもたらしたのだ。
全ての原発が停まったら、たちまち電力不足におちいり、産業活動に重大な支障をきたすからと再稼働を求める声があるが、原発なしでも国民の命や生活を守り続けることはできるはずである。
再稼働について、拙速な世論無視の結論を出すべきではない。
いままで電気をみだりに使い過ぎているのだから、もっともっと節電を心がければよいのだ。
日中の無駄な電気(駅のホーム、スーパーなど)、夜間の照明(過剰なネオンサイン、深夜のコンビニなど)は検討されていい。
大体、自販機がこんなに多い国も、日本ぐらいではないのか。
日本は世界に冠たる地震国だ。
こんな国に、原発は不要だ。
政府と電力会社は、何としても原発を再稼働したいらしい。
そもそも最初から、「再稼働ありき」がシナリオだからだ。
とんでもない話である。
・・・日本の大地も海洋も、セシウムによって汚染されてしまった。
大地で育つものも、海洋で育つものも、また汚れてくる。
残念ながら、本当に残念ながら、私たちがセシウムから完全に解放されることは、かなえられぬ夢の話だ。
これから、100年たとうが200年たとうが、もはやそんな単位の話ではない。
今後、多かれ少なかれ、日本の国民はセシウムに汚染されたものを摂取し続けるのだ。
基準を決めて、それ以下だから安全だとかなんてないのだ。
そんなことは、ありえないのだ。
悲しいかな、危険は、いつまでも付きまとってくると考えなければならない。
それでも、原発再稼働なのか。
政府発表の詭弁やまやかしに、決して騙されてはならない。
そして、人間の命の大切さを、真剣に見つめ直さなければいけない。
迷走に次ぐ迷走を続ける野田内閣だが、去年発足以来、「脱原発依存」の方針を決めているはずなのに、いまだその方針を進めているようには思えない。
日本も、もっとしっかり「脱原発」へかじを取るべきだ。
二度と、大きな過ちを繰り返さぬためにも・・・。
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原子力安全・保安院の調査でも明らかにされましたが、地震で動く断層の上には、そもそも原子炉はあってはならないはずですよね。
霜葉様。
お久しぶりでございます。コメントをありがとうございます。
「愛」も「命」もないがしろにする原発を推進するなど、狂気としか思えません。
電気、電気といいますが、足りなかったら極限まで節電したらどうですか。
計画停電でも、人は耐えられるはずです。
明りがなくても人間は生きられますが、命はひとつです。賢明な選択を望みたいものです。
これまでの贅沢な驕りを捨てて、何事もみんなが揃って節電に勤めることは、そんなに難しいことではありませんから、乗り切る努力こそ大切だと思います。