ZENZAIMU(全財務公式ブログ)

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秋めく東京

2018-09-18 17:50:21 | 主張

中央本部溝口です。

東京ではまだ日中の最高気温が30度近かったりと、なかなか夏の名残が残っているようですが、とはいえ風は秋めいてきていて、日差しは強くとも風が涼しく、1年で一番過ごしやすい時期を迎えつつあります。

今年はサンマが大漁ということで、一尾100円ぐらいでスーパーに並んでいるのを見て、思わず買ってしまった。

魚は焼くと、あぶらが飛んで掃除がたいへんだったり、部屋が魚臭くなったりと、自堕落な中年独身には、やや手が出にくい食材である。

自堕落な中年独身は、この厄介な食材を前に、どうにか後片付けの手間を増やさないよう対策を試みた。

フライパンに、フライパン用のアルミホイルを敷いて、その上に、下味を付けた問題児(サンマ)を寝かせ、フライパンカバーをセットして準備完了。

あとは点火し、皮が焼けるいい匂いがしてきてしばらくしたら火を止める。

素晴らしい。油は飛び散ることもなく、匂いも換気扇で対処できるレベルに収まった。

いざ実食。。。美味い。。脂の旨味がたまらん。。これが旬のサンマか。。

冷凍庫で数分冷やしたキリン秋味を、銅のグラスに注ぐ。ビールの温度、銅の熱伝導率、完璧な条件下でビールは泡立たない。「ビールは泡立てるもの」というセオリーはここでは無視。自分が美味いと思う飲み方が一番美味い。

脳天を直撃する炭酸とビールのアロマ・フレーバーを堪能する。申し上げるまでもなく、脂ののったサンマとの相性は抜群である。

この完璧なマリアージュに出会ってしまったが最後、ここぞとばかりに毎晩サンマを焼いている。昨日は秋鮭も焼いた(これもまたウマい!)。

思わず「マリアージュ」というワードを使ってしまったが、何を隠そう最近フランスかぶれがいっそう進行している。

学生時代から仏文学が好きで、好きな作家を挙げれば、枚挙にいとまがない。アナトール・フランス、カミュ、バルザック、スタンダール、、、列挙し尽くしたところで、たかだか4氏、前言の「枚挙にいとまがない」は撤回したい。

昨年は一時期、赤ワインにハマった。当時の猛烈なマイ・ブームぶりに言及する際には「4半期で100本くらい飲んだ」と豪語しているが、盛りグセによる記憶改ざんのバイアスを加味すれば、実際はその半分ぐらいであったと推察すべきであろう。ハマったきっかけはリーデル社のヴェリタス・シリーズ(ワイン・グラス)との出会いでした。今までは比較的安価なヴィノム・シリーズに甘んじていましたが、たまたまヴェリタスが安くなっていたので買ってみた。ヴィノムもヴェリタスも同じマシン・メイド、手作業でなく機械で作ったシリーズですが、なにせヴェリタスの方が細くて軽い。手に持ったときの感動たるや。それでいて日常生活に必要な強度を確保している(1年半ほぼ毎日使っているが、まだ1つも割ってない)。安いワインは多かれ少なかれ、アルコール入りぶどうジュースに過ぎないと、あえて言いきらせてもらう(だからとってサイゼリアのワインの存在意義を否定するものではない)が、ほどよく熟成を経たボルドーは、これがほんとにブドウ生まれなのかと思ってしまうぐらい、まるで別物に変身を遂げるのに、これまた感動した。そんなこんなでヴェリタスで飲むボルドー、ブルゴーニュにやみつきになり、毎晩ぐるぐるグラス回してはデキャンタ―ジュによる香りの開花に酔いしれ、中毒のように毎晩飲んでいました。(夏になって、室温の関係で保管が難しくなってきて、やっとのことで足を洗えましたが。冷静になってみるとワインはお酒の中でもかなり高価な部類なので、今では衝動買いしてしまわないようワインの酒屋にはいかないようにしています。)

ワインについて語り出したら止まらなくなってしまった。一度深呼吸して落ち着こう。きっともうここまで読み進められた方はいないことであろう。

話の本筋は最近病状の進行が著しいフランスかぶれである。

なんなら、「マリアージュ」、「デキャンタ―ジュ」を自然に駆使してるあたりからして、すでに感度鋭敏な読み手の癇に障っている可能性すらありますが、目下、日常生活の中で、ラインのやりとりとかで「旅行行ってくるわ」的なメッセージへの返しでつい「ボン・ボヤージュ」と送りそうになったり、「待ち合わせ」のことを「ランデブー」と言ってみたり、病状は深刻さを増している。

生粋の日本男児としてはお恥ずかしい限りであるが、幸い現代の我が国ニッポンにおいては今、フランスでは革命により絶滅したはずの貴族が、にわかに増殖しつつある。

 「独身貴族」が市民権を得つつある我が国ニッポンは、ある意味で、多様な生き方、多様性を包み込むことができる寛容な社会ということができると思うし、とても生きやすい社会に生まれ育ち、天寿を全うすることができるのはたいへんありがたいことだと思う一方で、まだまだ「ネトウヨ」「LGBT」「SNS炎上」など社会には「不協和」「不寛容」「敵意」が満ち満ちている。こんな社会だからこそ、個々人が他者を「理解」するための想像力を働かせることで、社会全体を「共感」が包み込むことが大事だと思うんですが、あいにくマスコミは無邪気に国民と政治の分断を助長し、行政はどうにか分断された信頼関係をつなぎとめようと膨大な労力(コスト)を注いでいる。社会全体の生産性を考えたとき、これで良いんだろうかと少し疑問に思う。

オチが見つからず、脱線に脱線を重ね、さまよった挙句、オチを見つけられなかったので、これにて本稿は強制終了。オーヴォアー!

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