たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

糸魚川からの足どり

2021-01-10 10:59:27 | 神社
大国主神、事代主神、朝廷別王のその後の足どりがわからない。

建御名方神は、糸魚川に行っていたのかどうかもわからない。


諏訪大社の御柱祭りの前年に行われてきた式年薙鎌打神事が、小倉明神で行われていることを考えると行っていたとするのが妥当か。

その後、諏訪にとどまったことは間違いないですけどね。←何をいまさら・・・


レイラインの測量集団は、恵那山を越えて木曽川経由で尾張に帰っているでしょう。

この先は、まったく資料が無いので、いつもの通り妄想をします・・・へへ

朝廷別王は、神坂神社から熱田神宮のレイラインがあるので、おそらく一緒に尾張に向かったと思います。

大国主も一緒だったのではないかと思うのです。

愛知県犬山市にある東之宮古墳には、副葬品のなかにひすい製勾玉3点があります。

これは、その時に持って帰ったものかもしれませんね。

事代主神はどうしたのか?

話は少し飛びますけど、出雲にある「美保神社」の祭神は、三穂津姫命と事代主神です。

三穂津姫命のことを調べてみましょうか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ミホツヒメの「ツ」は「の」の意味で、ミホの女神という意味。

高御産巣日神の御子。


『日本書紀』によると、出雲国譲りの後、高御産巣日神が大物主神に、

もし国神を妻とするならば、あなたが心を許していないと思う。

だから私の娘の三穂津姫をあなたの妻とし、八十万神をひきつれて、皇孫のために護り祀れと云った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

そもそも、国譲りは出雲では行われていないので、(伊勢での出来事でしょう)またまた、日本書紀の嘘だと思います。

どう考えてみても、美穂神社の二つの社は、夫婦と見たほうがしっくりくるでしょう。


さらに考えると・・・

この、「三穂津姫命」と言う人は、越の奴奈川姫(ぬなかわひめ)と大国主の間に出来た

子の「御穂須々美(みほすすみ)命」じゃないのでしょうか。

でも、年代を考えると、少しおかしい・・・



大国主は、越の奴奈川姫に求婚することになっていますけど、ここがすでに嘘じゃないかな?


奴奈川姫にはすでに、「御穂須々美命」という娘がいて、「事代主神」がその娘に求婚して、

二人は一緒になった。

その後、二人は、みんなと一緒に出雲に行き美保神社で暮らした。こう考えると、時間的にも

ピッタリ来ます。




大国主と朝廷別王は、尾張に帰った後、また越に戻ってきます。

尾張、美濃から船を作る技術者を引き連れて。

そして、航海に必要な技術を持つ者も一緒に来たでしょう。

その中に、レイラインの測量技術者がいるかもしれません。

どうして越に戻ってきた?

越で大型船を建造して、出雲を目指して出かけたのでは?

一般に言われていることと、逆ですよね。でも、今までの流れで行くとそうなります。

この時すでに、大国主は奈良を取り囲むように国を作ることを計画していたのかもしれません。



通説通り、大国主が出雲から越にやって来たなら、越にそれなりの神社があるはずですけど見当たらない。

出雲に、美穂神社があり、そこに、三穂津姫命と事代主神が祀られていることも、

越から出雲に行ったと考えるとすんなりいきます。

越から出雲に行く途中の中継地点は何処か?それなりの場所を探してみました。


こちらリンクできるでしょうか?

まだ、分からない湊の場所もたくさんあります。違ってるところもあるでしょう。

湊と湊の間の距離は、この時代20kmくらいだそうです。

大垣から伊勢までの間も、それぐらいの距離でした。

でも、今回はもう少し距離が長いかもしれません。船が大きくなってるせいでしょうか?

以上、妄想を終わります。。。










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少彦名命(すくなひこなのみこと)

2021-01-10 09:43:06 | 神社
『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、

『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされています。

何か理由があるのでしょうか。

おいらが思うには、古事記が正しくて、日本書紀が何かを隠そうとしてる。そう見えます。


その他としては、

少名彦命と天日鷲命の両者は同一神とされている。 阿波国を開拓。


説明としては、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宇宙に突如として現れた神様、アメノミナカヌシ。

それに続く様にタカミムスビ、カミムスビが現れる。

これを造化三神と呼ぶ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
少彦名を、朝廷別王として考えると、神産巣日神(かみむすびのかみ)は、彦坐王。

高皇産霊神(たかみむすびのかみ)は、崇神天皇。

そして、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、開化天皇となりますけど、どうしよう?(笑)


別の話では、

カミムスビ神が「私の手指の間から漏れこぼれ落ちた子です」といい、

わが子のスクナヒコナ命にオオクニヌシ命と義兄弟になって一緒に国づくりをするように

命じたといいます。

これが実話なら、伊勢津彦(=大国主=さほひこ)が、伊勢を追い出されて砥鹿神社に着いたとき

まだ、彦坐王は存命で五社大名神社で、再会したかもしれません。

でもね、カミムスビ神が「私の手指の間から漏れこぼれ落ちた子です」と言うあたり、茶目っ気を

感じませんか?




さらに、別の話では、少彦名は、海の向こうの常世の国からガガイモの実の船でやって来た小人神。

御伽草子の一寸法師などのルーツとも言われています。

明るくユーモラスでいたずら者、豊かな知識と技術をもつ知恵者。

前に、朝廷別王は、おちゃめな性格と書きましたけど、やはりそのようですね。




最後には、淡島で粟(あわ)の茎にのぼり、その弾力を利用してはじき飛ばされるようにして常世の国に渡ったという説。

あるいは熊野の御崎(みさき)から海を渡り、常世の国に帰った説などあります。

この話が、少彦名の茶目っ気から生まれた物語ならば、彼の死後、景行天皇が、その物語に付き合ったのかもしれません。

景行28年、御崎の「静之窟」内に少彦名命を勧請したそうです。

景行天皇は、倭姫の兄、ということは、彼にとって朝廷別王は、叔父になります。



御崎の「静之窟」の場所は、潮御崎神社のすぐ近くです






夏至の日の出が、磐座から見えるようです

本州の最南端ですね。まだ行ったことがありません。行きたいなぁ。




以下参考にさせてもらいました

高塚の森

こちらも

さらに

少彦名命の祀られている神社です

宿那彦神像石神社   石川県七尾市黒崎町ユ59
加夫刀比古神社    鳳珠郡穴水町甲ハ80 
少彦名社       羽咋郡志賀町深谷ハ13甲
笠間神社       白山市笠間町1-1
大湊神社       福井県坂井市三国町安島23-15-11
眞子神社       鳥取県西伯郡大山町東坪143

なぜこんなに少ないのだ!と言う意見も出て来るようですが、少彦名=朝廷別王=サタヒコ=猿田彦

と考えれば、すごく多い!と感じるのではないでしょうか。
        
       ↑
( ps  少彦名命の祀られている神社は、もっとたくさんありました。 )
 



その他興味深いところは
古麻志比古神社     珠洲市若山町経念12-32         彦坐王
長瀬神社        鳥取県東伯郡湯梨浜町     天鈿女命アマノウズメノミコト

もう一つ、彼の茶目っ気から連想するのが、田県神社のご神体。
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