たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

伊勢津彦 伊勢に向かうその9,斎宮の場所

2020-11-04 06:16:24 | 神社
まず、斎宮とは何かと言うことですけど、ウィキペディアより引用すると

「古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所」

ということです。

斎王は誰かと言うと,明和町のホームページより引用します


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初代が、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)父: 崇神天皇 母: 遠津年魚眼妙媛

                   垂仁天皇の異母姉妹
                
                垂仁天皇とともに皇位継承者の候補にあげられた豊城入彦の同母妹。

                 宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀る。

                 崇神58年ごろ、老衰により退下。

次に、倭姫命(やまとひめ)父: 垂仁天皇 母: 丹波道主王の女、日葉酢媛命。

             垂仁天皇皇女。

             豊鍬入姫命より、御杖代の役目を引き継ぎ、

             天照大神の鎮座される地を求めて各地を巡幸し、伊勢に至った斎王。

             ヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、
       
             東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡した。

そして、五百野皇女(いおの)父: 景行天皇  母: 三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛
  
               ヤマトタケルノミコトの姉。別名、久須姫(くすひめ)

                明和斎宮へ来た最初の斎王といわれる。

伊和志真皇女(いわしま)  『斎宮記』、『二所太神宮例文』に名前のみ記されているが、

              実在した斎王かどうかは確認できない。



稚足姫皇女(わかたらしひめ)父: 雄略天皇 母: 葛城圓大臣の女、韓姫  

              雄略天皇の皇女。

              別名:栲幡皇女(たくはたのひめみこ)
      
              清寧天皇の同母兄妹。

              湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺。

              無罪とわかる。


清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代、斎王の記録なし

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斎宮跡の場所です






道を一本間違えてしまいました・・・

斎宮跡の場所を通り越してうろうろしていたようです。



さて、当時の海岸線はどこなのだろう?

以前、熱田神宮の海岸線を調べたとき、現在の海面より4m前後高くした地理とよく似ているなぁと

いうことを思い出しました。

少々荒っぽいですけど、5m海面を上げてみます




祓川(はらいがわ)という、櫛田川の分流が近くを通ります。

ウィキペディアより引用します

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この川は平安時代以前は櫛田川の河道の本道だったが、1082年(永保2年)7月の大洪水や地震により、

現在の櫛田可動堰付近より下流にあった水田や村落が押し流されて現在の櫛田川の河道が

形成されてしまい、それまで本川だった祓川は派川となったという

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ですから、伊勢津彦そして、倭姫命の時代は、祓川から上流に行ったと推測されます。

その河口付近に湊があってもおかしくはないですね。

その場所が、斎宮になったとおいらは考えます。

斎宮跡から西に向かい、祓川に行くとそこには「漕代」と言う地名があります。




そこから、船を漕いで出発したのでしょうか?

(PS 船を漕いで川を遡ることはしませんね・・・。「漕代」と言う地名は、伊勢津彦が、

伊勢を去る時の場所のように思えます)



斎宮から、飯野高宮神山神社まで4.5kmほど。




途中、伊勢庭神社と言う所がありますね。まだここには行っていませんけど、推測するには

高速道路のサービスエリアのような所でしょうか?

倭姫命のトイレ休憩の場所・・・←おいっ!



祓川の意味を調べると、祓川(はらえがわ) 神仏に参拝するとき、身を清めるために禊みそぎする川。」

そして、櫛田川の名前の由来は、

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古来、倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて諸国を巡行の際、

この地で櫛を落とされたことからこの名がついたとされる。

これにならい歴代の斎王は、群行の際、櫛をこの川に捨て、神に仕える決心をしたという。

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以上のことから、斎宮から飯野高宮神山神社に神事のために

斎王が通ったと考えていいのじゃないでしょうか。






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伊勢津彦 伊勢に向かうその8飯野高宮神山神社(いいのたかみやこうやまじんじゃ)

2020-11-04 06:06:37 | 神社
彦座王、伊勢津彦とその部隊は櫛田川を上った飯野高宮神山神社付近に陣を築いたと思います




三重県松阪市山添町4






標高30m



倭姫命世記によると、垂仁天皇22年に倭姫命が「飯野ノ高宮」で4年間天照大神をお祀りしたそうです


踏切があるのです!


御祭神
猿田彦命,天鈿女命



この記事を書いたのが、2年前。現在、それを訂正しています。

そして、ここの祭神が、猿田彦命,天鈿女命になっていることに、あらためて感動します。

少し脱線しましょうか。


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猿田彦命は、朝廷別王であり、彦座王の子供です。

母である、川上摩須郎女(かわかみますのいらつめ)と彦座王との最後の子供です。

彼が、まだ母親のおなかにいるか生まれたばかりかの時に、伊勢津彦と彦座王は、岐阜から

伊勢に出発したのでしょう。

その後、どれだけの期間、彦座王は、伊勢にいたのかは分かりません。

ですけど、10数年後に伊勢津彦は天日別命に伊勢を追い出され、砥鹿神社にたどり着きます。

そこに、まだ若い朝廷別王が合流します。

その後、伊勢津彦と朝廷別王は行動を共にします。

砥鹿神社から、諏訪に行きさらに、糸魚川の翡翠の産地にも行きます。

その後の行動は、現在調べているところなのでここには書きません。



朝廷別王が34歳ごろ、倭姫(朝廷別王の姉の娘)が、岐阜そして尾張にやってきました。

そこで、彼は倭姫と共に、木曽川、大江川を下り、多度の宇賀神社経由で伊勢まで行き、

この、神山神社に滞在したのでしょう。

その時に彼の持っているレイラインの技術を用いて、内宮と、斎宮、外宮の場所を決めた

と推測します。

これって、どこかで聞いた物語と同じですよね。。。

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帰るときに気が付いたのですけど、ここにも山神様がいらっしゃいます



しかも、10柱




なぜこの場所に陣を築いたのか?

櫛田川をさかのぼっていくと




グーグル地図張れないので画像を貼り付けます



丹生水銀鉱に行くには櫛田川をさかのぼったと思われます。



途中、紀師神社があります。





中継地点でしょうか?





こうして、彦座王、伊勢津彦は、丹生水銀鉱にたどりついたと思われます。








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伊勢津彦 伊勢に向かうその7神館神社、加良比乃神社、そして川併(かわい)神社

2020-11-04 05:10:49 | 神社
今回は、何処が伊勢津彦の滞在先なのか、なかなかわかりませんでした

まずは

神館神社(かんたちじんじゃ)
三重県津市半田1733





標高3.9m  少し低いですね。





倭姫命が大和・伊勢を巡幸した時、ここに休憩所として館が建てられたとのこと






次に行ったのは

加良比乃神社



標高6.8m

倭姫命が、4年間滞在したと言われます

ここには、たどり着けませんでした・・・見えているけども行けない・・・






川併(かわい)神社


標高20m

ここは、駐車スペースが無く周りをウロウロしただけ・・・

標高的には、一押しですけど川からの距離がありすぎるので違うと思っていたのです



対岸にも、川併神社がありますね。時代が新しくなり受け継いで別れたのではないでしょうか




今回は、特定できないなと思いつつ川を渡った所、あることに気が付きました。

河原からは近いんじゃないか?

あとで、グーグルの地図の写真で調べると



近いです

実際には250mほどでした

ということは、本命はここ川併神社と思われます。






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伊勢津彦 伊勢に向かうその6 酒井神社

2020-11-04 05:07:03 | 神社



この3カ所で、最初に行ったのは、横道下神社

三重県鈴鹿市徳田町2107

標高 4m



大正6年にこの地に近くから移転してきているようです。


次に向かったのは、服織神社(はたおりじんじゃ、はとりじんじゃ)

三重県鈴鹿市御薗町2019

標高20.7m



村の一番奥と言う感じの場所。車止められないので画像はありません。


最後に行ったのは、酒井神社

三重県鈴鹿市郡山町1759

標高 26.3m



天智天皇治下10年(871)創祀とのこと

時代が新しいですね・・・

赤郷2号墳 まで850mほどなので、ここが本命かと思っていたのですけど・・・

とにかく行ってみましょう。


駐車場のすぐ前に鳥居があります




その横にも鳥居があり



りっぱな本殿ですね



そこから、小道がありましたので行ってみます




すると、





なんと、さきほど行った服織神社は、元はここにあったのです。




さらに、


どういう神様でしょうか?  山神様もいらっしゃいます

ひょっとすると、ここに祀られている神様は、今ある本殿よりも前からあるのじゃないのか?

伊勢津彦の時代の神様ではないだろうか?

そう思えてきました。

とても心地の良い場所です。



鎮守の森と言うのは、このような所のことを言うのかなと思いつつ、しばしこの場所でのんびりしました。



倭姫命の足跡があります

布気皇館太神社(ふけこうたつだいじんじゃ)

三重県亀山市布気町1663

垂仁天皇18年の創始




忍山神社(おしやまじんじゃ)

三重県亀山市野村町4-4-65


どちらも、倭姫命が立ち寄ったと言われますけど、旧地があるらしく場所は不明です。



















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