まず、斎宮とは何かと言うことですけど、ウィキペディアより引用すると
「古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所」
ということです。
斎王は誰かと言うと,明和町のホームページより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初代が、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)父: 崇神天皇 母: 遠津年魚眼妙媛
垂仁天皇の異母姉妹
垂仁天皇とともに皇位継承者の候補にあげられた豊城入彦の同母妹。
宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀る。
崇神58年ごろ、老衰により退下。
次に、倭姫命(やまとひめ)父: 垂仁天皇 母: 丹波道主王の女、日葉酢媛命。
垂仁天皇皇女。
豊鍬入姫命より、御杖代の役目を引き継ぎ、
天照大神の鎮座される地を求めて各地を巡幸し、伊勢に至った斎王。
ヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、
東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡した。
そして、五百野皇女(いおの)父: 景行天皇 母: 三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛
ヤマトタケルノミコトの姉。別名、久須姫(くすひめ)
明和斎宮へ来た最初の斎王といわれる。
伊和志真皇女(いわしま) 『斎宮記』、『二所太神宮例文』に名前のみ記されているが、
実在した斎王かどうかは確認できない。
稚足姫皇女(わかたらしひめ)父: 雄略天皇 母: 葛城圓大臣の女、韓姫
雄略天皇の皇女。
別名:栲幡皇女(たくはたのひめみこ)
清寧天皇の同母兄妹。
湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺。
無罪とわかる。
清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代、斎王の記録なし
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
斎宮跡の場所です
道を一本間違えてしまいました・・・
斎宮跡の場所を通り越してうろうろしていたようです。
さて、当時の海岸線はどこなのだろう?
以前、熱田神宮の海岸線を調べたとき、現在の海面より4m前後高くした地理とよく似ているなぁと
いうことを思い出しました。
少々荒っぽいですけど、5m海面を上げてみます
祓川(はらいがわ)という、櫛田川の分流が近くを通ります。
ウィキペディアより引用します
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この川は平安時代以前は櫛田川の河道の本道だったが、1082年(永保2年)7月の大洪水や地震により、
現在の櫛田可動堰付近より下流にあった水田や村落が押し流されて現在の櫛田川の河道が
形成されてしまい、それまで本川だった祓川は派川となったという
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ですから、伊勢津彦そして、倭姫命の時代は、祓川から上流に行ったと推測されます。
その河口付近に湊があってもおかしくはないですね。
その場所が、斎宮になったとおいらは考えます。
斎宮跡から西に向かい、祓川に行くとそこには「漕代」と言う地名があります。
そこから、船を漕いで出発したのでしょうか?
(PS 船を漕いで川を遡ることはしませんね・・・。「漕代」と言う地名は、伊勢津彦が、
伊勢を去る時の場所のように思えます)
斎宮から、飯野高宮神山神社まで4.5kmほど。
途中、伊勢庭神社と言う所がありますね。まだここには行っていませんけど、推測するには
高速道路のサービスエリアのような所でしょうか?
倭姫命のトイレ休憩の場所・・・←おいっ!
祓川の意味を調べると、祓川(はらえがわ) 神仏に参拝するとき、身を清めるために禊みそぎする川。」
そして、櫛田川の名前の由来は、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古来、倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて諸国を巡行の際、
この地で櫛を落とされたことからこの名がついたとされる。
これにならい歴代の斎王は、群行の際、櫛をこの川に捨て、神に仕える決心をしたという。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上のことから、斎宮から飯野高宮神山神社に神事のために
斎王が通ったと考えていいのじゃないでしょうか。
「古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所」
ということです。
斎王は誰かと言うと,明和町のホームページより引用します
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初代が、豊鍬入姫命(とよすきいりひめ)父: 崇神天皇 母: 遠津年魚眼妙媛
垂仁天皇の異母姉妹
垂仁天皇とともに皇位継承者の候補にあげられた豊城入彦の同母妹。
宮中に祀られていた天照大神を大和笠縫邑で祀る。
崇神58年ごろ、老衰により退下。
次に、倭姫命(やまとひめ)父: 垂仁天皇 母: 丹波道主王の女、日葉酢媛命。
垂仁天皇皇女。
豊鍬入姫命より、御杖代の役目を引き継ぎ、
天照大神の鎮座される地を求めて各地を巡幸し、伊勢に至った斎王。
ヤマトタケルノミコトの叔母にあたり、
東征に赴く途中、伊勢神宮を訪ねたヤマトタケルに草薙剣を手渡した。
そして、五百野皇女(いおの)父: 景行天皇 母: 三尾氏磐城別の妹、水歯郎媛
ヤマトタケルノミコトの姉。別名、久須姫(くすひめ)
明和斎宮へ来た最初の斎王といわれる。
伊和志真皇女(いわしま) 『斎宮記』、『二所太神宮例文』に名前のみ記されているが、
実在した斎王かどうかは確認できない。
稚足姫皇女(わかたらしひめ)父: 雄略天皇 母: 葛城圓大臣の女、韓姫
雄略天皇の皇女。
別名:栲幡皇女(たくはたのひめみこ)
清寧天皇の同母兄妹。
湯人の廬城部連武彦との関係を疑われ、身の潔白を証明するため自殺。
無罪とわかる。
清寧・顕宗・仁賢・武烈天皇の時代、斎王の記録なし
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斎宮跡の場所です
道を一本間違えてしまいました・・・
斎宮跡の場所を通り越してうろうろしていたようです。
さて、当時の海岸線はどこなのだろう?
以前、熱田神宮の海岸線を調べたとき、現在の海面より4m前後高くした地理とよく似ているなぁと
いうことを思い出しました。
少々荒っぽいですけど、5m海面を上げてみます
祓川(はらいがわ)という、櫛田川の分流が近くを通ります。
ウィキペディアより引用します
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この川は平安時代以前は櫛田川の河道の本道だったが、1082年(永保2年)7月の大洪水や地震により、
現在の櫛田可動堰付近より下流にあった水田や村落が押し流されて現在の櫛田川の河道が
形成されてしまい、それまで本川だった祓川は派川となったという
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ですから、伊勢津彦そして、倭姫命の時代は、祓川から上流に行ったと推測されます。
その河口付近に湊があってもおかしくはないですね。
その場所が、斎宮になったとおいらは考えます。
斎宮跡から西に向かい、祓川に行くとそこには「漕代」と言う地名があります。
そこから、船を漕いで出発したのでしょうか?
(PS 船を漕いで川を遡ることはしませんね・・・。「漕代」と言う地名は、伊勢津彦が、
伊勢を去る時の場所のように思えます)
斎宮から、飯野高宮神山神社まで4.5kmほど。
途中、伊勢庭神社と言う所がありますね。まだここには行っていませんけど、推測するには
高速道路のサービスエリアのような所でしょうか?
倭姫命のトイレ休憩の場所・・・←おいっ!
祓川の意味を調べると、祓川(はらえがわ) 神仏に参拝するとき、身を清めるために禊みそぎする川。」
そして、櫛田川の名前の由来は、
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古来、倭姫命が天照大神の鎮座地を求めて諸国を巡行の際、
この地で櫛を落とされたことからこの名がついたとされる。
これにならい歴代の斎王は、群行の際、櫛をこの川に捨て、神に仕える決心をしたという。
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以上のことから、斎宮から飯野高宮神山神社に神事のために
斎王が通ったと考えていいのじゃないでしょうか。