たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

猿田彦はなぜ猿投神社に行ったのか

2021-01-04 06:31:52 | レイライン
まず、彦坐王が最後にいた場所、東谷山、五社大名神付近の古墳を調べてみましょう。

歴史の里 しだみ古墳群にあるしだみ古墳群の古墳
と言う所をみるとよくわかります。

尾張戸神社古墳の近くに、中社古墳(なかやしろこふん)

そして、南社古墳(みなみやしろこふん)
があります。

どちらも、築造時期は、4世紀中頃です。誰が埋葬されているかはわからないようですけど、

彦坐王に近い人でしょう。

ひょっとすると、朝廷別王からみて、母親違いの兄弟かもしれない。

その可能性は十分あると思われます。←PS  多分これ間違っています。

そして、朝廷別王の拠点を、大垣から熱田神宮(まだ神社ではなく湊であったと思います)に移し

近くに山のある場所を住居としようとすると、五社大名神社付近では、都合が悪かったのでは無いでしょうか。

そこで、熱田の近くにある、天白川をさかのぼった場所に目を付けた。

そこが猿投山であり、そのルートはすでに砥鹿神社に行くときに開拓していたと推測します。




猿投神社東之宮の地図です



レイラインを見てみましょうか(このアプリのおかげでたくさんのレイラインを見つけられます)


位置関係です


猿投神社付近から天白川を下ると、氷上姉子神社にたどり着きます。こちらにレイラインも載せてあります。ご覧ください。

氷上姉子神社本宮から見た夏至の日の出が、ピッタリと猿投神社本殿上を通ります。


ちなみに海岸線を5m上げてみます

天白川の位置を間違えてしました。訂正します。ご容赦~♪

朝廷別王が、三河を開拓したのはこの後からではないのでしょうか?

それと、氷上姉子神社の祭神である、宮簀媛命(みやずひめのみこと)が、

どういう人かよくわからない。






















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