於大の方(おだいのかた)は、家康の母親です享禄元年(1528年) - 慶長7年8月28日(1602年10月13日)
緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた
その後、刈谷城が、1533年に出来てるのでそのころ引越ししてるのかな?
行ってきました。市場に行く途中少し足を伸ばして知多半島。
城のお堀です。もちろん、もう城はありません
この、ひだりの小高い丘に城があったようです
その後、1541、14才で岡崎城主松平宗家8代広忠に嫁ぎ、1542年竹千代(徳川家康)を産みました。
しかし兄信元が、松平氏と手を切り、松平氏の敵・尾張の『織田氏』と同盟を結ぶ。
ですから、於大の方は離別(1544年)。
刈谷へ帰った於大の方は、形原松平氏から離縁された姉於上と共に、
「椎木屋敷」に住んでいました。
椎木屋敷は、城からすぐ近くなんですが今わかったんで昨日は訪れていません
ざんねん。
於大の方はこの後、知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁(1547年)します。
於大の方は、俊勝との間には三男三女をもうけます。
それでも、この間、家康と音信を絶えず取り続けたそうです。
で、その阿久比城跡にも行ってきましたが、図書館と公園があるだけのようです
ここも、小高い丘の上です
散策しようかと思ったんですけど、寒いんでパス・・・
家康は、桶狭間の戦いの後、おそらく船で知多半島に上陸し、於大の方に会ってるとの説があります
しかし、敵である信長側なので、早々に半島東側にある常楽寺に行ったようです
ここは、家康の母方の従兄弟にあたるところだそうです。
くわしい関係を調べてるところですが、どうもまだわからない
とにかく、ここで一息してその後岡崎の大樹寺に行ってます
その後、今川家から自立し織田家と同盟した家康は、
俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えています。
織田信長と同盟を結ぶには、この母親が関係しているのでしょうか?
一説によると、桶狭間の戦い以前にも母親のところに立ち寄っているという話もあります
本当かどうかはわかりませんが、大高城への兵糧入れがあまりにも見事なんで、すでに
信長と裏で同盟できていたかもしれないという話もあります。
大樹寺から、岡崎城に入城するときもなかなか入らず、今川の者たちが引き上げて空っぽになって、ようやく入城したのもひょっとすると同盟がばれたらあぶないと思っていたかもしれないななどと想像したりもします。
素人目には、今川の者たちが、織田軍をおそれて逃げ出すところに、なぜ家康がかんたんに
入ったのだろう、自分の故郷ということはあるものの、まだ、織田方とは敵の関係だもんね
はいっ、素人の疑問でした
その後、於大の方は、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)に、
京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬されたそうです
緒川城(愛知県知多郡東浦町緒川)で生まれた
その後、刈谷城が、1533年に出来てるのでそのころ引越ししてるのかな?
行ってきました。市場に行く途中少し足を伸ばして知多半島。
城のお堀です。もちろん、もう城はありません
この、ひだりの小高い丘に城があったようです
その後、1541、14才で岡崎城主松平宗家8代広忠に嫁ぎ、1542年竹千代(徳川家康)を産みました。
しかし兄信元が、松平氏と手を切り、松平氏の敵・尾張の『織田氏』と同盟を結ぶ。
ですから、於大の方は離別(1544年)。
刈谷へ帰った於大の方は、形原松平氏から離縁された姉於上と共に、
「椎木屋敷」に住んでいました。
椎木屋敷は、城からすぐ近くなんですが今わかったんで昨日は訪れていません
ざんねん。
於大の方はこの後、知多郡阿古居城(阿久比町)の城主・久松俊勝に再嫁(1547年)します。
於大の方は、俊勝との間には三男三女をもうけます。
それでも、この間、家康と音信を絶えず取り続けたそうです。
で、その阿久比城跡にも行ってきましたが、図書館と公園があるだけのようです
ここも、小高い丘の上です
散策しようかと思ったんですけど、寒いんでパス・・・
家康は、桶狭間の戦いの後、おそらく船で知多半島に上陸し、於大の方に会ってるとの説があります
しかし、敵である信長側なので、早々に半島東側にある常楽寺に行ったようです
ここは、家康の母方の従兄弟にあたるところだそうです。
くわしい関係を調べてるところですが、どうもまだわからない
とにかく、ここで一息してその後岡崎の大樹寺に行ってます
その後、今川家から自立し織田家と同盟した家康は、
俊勝と於大の三人の息子に松平姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えています。
織田信長と同盟を結ぶには、この母親が関係しているのでしょうか?
一説によると、桶狭間の戦い以前にも母親のところに立ち寄っているという話もあります
本当かどうかはわかりませんが、大高城への兵糧入れがあまりにも見事なんで、すでに
信長と裏で同盟できていたかもしれないという話もあります。
大樹寺から、岡崎城に入城するときもなかなか入らず、今川の者たちが引き上げて空っぽになって、ようやく入城したのもひょっとすると同盟がばれたらあぶないと思っていたかもしれないななどと想像したりもします。
素人目には、今川の者たちが、織田軍をおそれて逃げ出すところに、なぜ家康がかんたんに
入ったのだろう、自分の故郷ということはあるものの、まだ、織田方とは敵の関係だもんね
はいっ、素人の疑問でした
その後、於大の方は、関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602年)に、
京都府京都市伏見区の山城伏見城で死去。遺骨は江戸小石川の傳通院に埋葬されたそうです