年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

戦禍の足音

2017-08-15 00:00:00 | Weblog
 一方で殺戮が起きようとしていると話しかけると、そうね、怖いね・・などと返ってくる。もう一方で話しかけると、そんなことにはならんよ~考え過ぎ~などと評してくれる知人もいたりする。北ミサイルのこと。


 今日は終戦記念日であり敗戦記念日である。先日来夜のTVでは戦争にまつわる番組が流れているが、自分は見ていない。

 人それぞれに終戦のことについて考える。8月15日が終戦の日だと、それは玉音放送があったから・・の理由だろうが、前日の14日には白旗挙げている。広島・長崎と続けて原爆落されると勝ち組からすれば息の根を止めたかのようでもある。

 昭和20年9月2日がポツダム宣言に調印した日であり、昭和27年までは9月2日を敗戦記念日と呼んでいた。海外の終戦の日はアメリカ、イギリス、ロシアなどは9月2日。中国は9月3日、韓国と北朝鮮は8月15日を終戦としている。各国によって異なる。

 このようにそれぞれが違うことで、いつも自分が想像する景色がある。少し小高い丘や山に登って俯瞰し見下ろす各家のこと。そして家の部屋のこと。


 それぞれの家があり家庭があり、そして家族の部屋がある。隣りの部屋では何をやっているのか気配でわかるようでも、実際は解らない。ましてや他人の家ともなるとなおさらのこと。おんなじようでみんな違う、やっていることがおんなじようでみんな違う・・・そのような景色。地球という塊りの中に国家がそれぞれあって、隣の壁、ふすま1枚隔てたところでのいざこざのこと。
 俯瞰して見れば、なんじゃこりゃ・・・のようで・・それぞれの部屋ではみんな好き勝手にやっておるなぁ・・のこと。

 終戦記念日・・のことで思い出すのは・・・これだけはダンシャリから守ろうとした本。

 ちょうど1年前の8月に101歳で亡くなったむのたけじさんのこと。朝日新聞の中国・東南アジア特派員であったが、敗戦の45年8月に、「負け戦を勝ち戦とだまして報道してきた責任を取る」と退社し、秋田に戻り、反戦の立場で農民詩人として週刊新聞『たいまつ』を書き綴った。
そこで終戦のことを考える。

詞集Ⅰ;127 考えるとは何か、を考えましたか。簡易な国語辞典だって,情意にわたる「思う」と、知的な働きである「考える」とを区別しています。「考える」の原意は「問いただす」であり、その内容は「あれやこれやと思いめぐらす。あらたなものをくふうする。考案する」であると説明しています。私たちは目的なしに漠然と考えることはできません。考えて目的をつかむのではなく、目的があるから考えるのです。・・・

 殺戮というたたかうことから逃げる、戦禍から逃げること
詞集Ⅱ;699 逃げることだってむずかしい。逃げ方もいろいろある。逃げないふりして逃げる。逃げるとみせて逃げる。逃げるのか逃げないのか敵の判断を迷わせておいて逃げる・・・・・少なくとも三種の形態がある。それを戦局の序盤、中盤、終盤のどこでやるか。三種の形態を三種の時期に組み合わせれば九通りの逃げ方がある。攻めるのはむずかしく、逃げるのもむずかしい。逃げる能力でも敵に優る側が最後に勝つ。

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