年金受給者の日々へ 悪戦苦闘の記録から

自分のXデーに向かってまっすぐに走る日々
   年金受給前の悪戦苦闘の日々より

曇のち晴

2019-01-13 19:53:51 | Weblog
 叔父から電話がある。叔母がリハビリ病院に変ったので連れて行って欲しいとのことである。少し交通の不便なところにつきタクシー利用しかできないそうだ。

 私は自分自身の病院行脚のみならず、他の人が入院する病院に行く機会が近年やたら多いように思う。でもいろんな病院に行くことで差別化することができるヒントが見つかった。

 気持ちの良い病院とそうでない病院の差は一体どこから来るんだろうか、の設問を出すと・・・5年前に家人が入院した所と同じようなリハビリ病院であり、同じPT・OT・STさんを100人以上も抱える大きなリハ病院でありながら、明るいか暗いか、気持ちいいかそうでないかの決定的な違いは、スタッフさんの挨拶ができるかどうか・・によるものだと感じた次第。ここのリハ病院に限らないけれどどの病院であろうとも来客にきちんと挨拶ができるところは感じが良い。できない所はスタッフの顔も暗いと映る。建物の外観ではなく気持ちが良いワルイの交差点には「働く人」の表情が表れる。今日の午前中〇〇病院にお邪魔しての感想。


 冬の日、久万カントリーチャペルに続くメタセコイヤの木々は真っ裸である。余計な飾り物を脱ぎ捨て一直線に天に向かって伸びる樹幹は、どっしりとしていてそこから横に伸びる枝は、いくら細く映ろうとも安定感がある。無駄に横道にそれるような枝ではなく、また天に媚びるような枝ではないところが好ましい。

 今日のチャペルでの説教の後のお茶の会のこと。「信仰」と云うことはどういうことなのか?の話合い。各人、と云っても5人だけだが、発表をする。そして自分は質問を牧師に投げかけてみる。牧師にとって、信仰をする、と云うことはどんなことなんだろうかと・・・すると、牧師は、「人生そのものです」と答えてくれた。私にとってはその答えの内容ではなく、私が愚問を発して、すぐに人生そのものです・・と応えてくれた合間の時間のことが非常に感銘を受けた。瞬時考えることではなくすぐに切り返すように言葉を発した時間があまりに短いこととは、常日頃から牧師は自分自身に問いかけていた設問であったんだろうと。。だから考える時痕を眺めて、すぐに言葉にできたんだろうと感銘を受けた。答えを自分自身で紡ぎだす作業は、多くの身にまとわりついた異物を取り払う、自分が自分に出す設問を自分が自分に答えるために、例えば鍛冶屋が鉄を鍛えるのに火床に鞴から風を送り続けて高温にして鉄を焼くプロセスを想う。


 午後4時半の石鎚も一刻ぼう~っと眺める時間もあり。
こんな時に思い浮かべるのは、山頭火ではなく尾崎放哉の句 「咳をしても一人」「いれものがない両手で受ける」孤独の極みを思い浮かべる。

 自分の身体と心にいつの間にかまとった飾り物であったり、無意識に付いてしまった異物の余計なものをどのように削ぎ取るのか。それらを剥がしていく作業の中には、まず欲望と希望の二つの引き出しを準備することから始めようと思っているが・・・・。

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