暘州通信

日本の山車

03675 岡山神社祭

2009年01月07日 | 日本の山車
03675 岡山神社祭
岡山県岡山市石関町2-33
□祭神
大吉備津彦命
倭迹々日百襲姫命
妹姫命
日本武尊
大山咋命
倉稲魂命
武安霊命 旧岡山藩主池田光政

□祭は十月上旬-中旬。
山車(だんじり)が十臺曳かれる。

□山車(だんじり)
・野田屋町一丁目
・野田屋町二丁目
・岩田町
・天神町
・富田町
・上西川
・駅前町本町
・駅前町
・浜本町西川原
・相北三丁目

□汎論
創祀は貞観年間といい、当初は後に岡山城が築かれることになる岡山の地に鎮座していたが、天正元年(一五七三)に、宇喜多直家が当地に岡山城を築くとき現在地に遷した。本田は宇喜多秀家が建築し、このあと情趣となった小早川秀秋が拝殿以下を造営した。江戸時代には藩主の池田氏が鎮守として篤く崇敬した。
江戸時代までは「酒折宮」と言ったが、明治十五年(一八八二)に岡山神社と改称され
岡山市の総鎮守となった。
本殿、拝殿など主要な建物は戦災で失われたが、「随神門」は、災難を免れた。岡山市指定重要文化財となっている。
祭神は吉備津神社とおなじ、土地神のオオキビツヒコ(大吉備津彦命)。奈良県の箸墓に葬られるヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹々日百襲姫命)が祀られているのは興味深い。
秋祭には、「備前岡山獅子舞太鼓唄」が披露される。親子三匹の獅子舞で、神前の浄めや悪魔払いを意味する。囃子には「備前太鼓唄」という即興的な唄が付く。


□外部関連サイト

仙台市内散策
2008/12/15(月) 午後 8:57
... 大崎八幡宮  仙台城址「青葉城」・護国神社 伊達正宗の霊廟「瑞鳳殿」 「瑞鳳殿」 資料館 二代藩主 伊達忠宗公の霊廟「感仙殿」 大崎八幡宮 仙台城址 護国神社 護国神社 獅子おみくじ 獅子舞をしながらおみくじを渡してくれます 正宗騎馬像 来仙し ...
http://blogs.yahoo.co.jp/motoyan0508/20769411.html

西代神社神楽
2008/8/16(土) 午前 7:44
... 二代の西代藩主、本多忠統は西代大明神(西代神社の社名は明治に変わった)を崇拝し、土地・御輿・石造物などを寄進し、領民の郷土芸能である西代神楽を奨励したが ... 9舞1曲の10種類で構成され、獅子舞(悪魔祓いと招幸)と放下芸(曲芸的)に別けられます。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/kouyakaidou/14796180.html

岩岡神社061015
2008/4/18(金) 午後 8:51
... 元禄六年(一六九三)に本殿幣殿拝殿を建立し、姫路の廣峯神社より分霊を勧請した。岩岡町と神出町の西部を氏子とし、明石藩主松平直明と農業の神(素盞鳴命)を祭神としている。 ... また、獅子舞がその妙技を披露する頃には、祭りも最高潮になり ...
http://blogs.yahoo.co.jp/watay_wat/54501514.html

さいたま市西区、秋葉神社(関東総社)
2007/6/8(金) 午前 7:40
... 1739年(元文4年)紀州藩主、徳川宗真が鷹狩の途中に立寄った縁で ... 火除け、火伏せの、秋葉神社の関東総社と称しています。   また祭礼には、五穀豊穣と悪http://blogs.yahoo.co.jp/wamioda56/33668948.html

疫退散を願って、「秋葉ささら獅子舞」が奉納されています。   これは ...

麒麟獅子舞とか
2005/7/24(日) 午後 3:07
... 「獅子舞」(正月とかに出てくるやつ)の方が珍しいものだと思ってました・・・)  その始まりは、江戸時代に鳥取藩主池田光仲公が徳川家康を祭った日光東照宮の御神霊を ... (私が親しんだのは「宇部神社」のものより、諸寄「為世永神社」の方でした)
http://blogs.yahoo.co.jp/peacegentle/7405685.html

29778 出雲大國柱

2009年01月07日 | 日本の山車
29778 出雲大國柱
島根県

大國柱は一軒の家の主柱である。これから転じて一家の主人を大国柱にたとえる。
出雲大社の名は全国に知れた縁結びの神としてもよく知られる。
杵築大社

出雲大社が正史に見えるのは、紀元前で、垂仁天皇二十三年に出雲神宮を造営したとあるのがはじめで、続いて斉明五年(六五九)に出雲国造二十二代、出雲臣であった叡屋に厳神之宮を修造する令が出されている。
清和天皇、天安三年(八五九)に出雲杵築神に正三位を叙するとある。
つまり出雲大社の祭神は杵築神であり、社名も杵築大社としている。
近衛天皇久安元(一一四五)には、杵築大社の造営覆勘使が派遣され正殿式遷宮が行われている。
 明治天皇、明治四年(一八七一)五月十四日、官幣大社となり、神領として新たに境内地約五万坪が下賜されている。
杵築大社が出雲大社とあらたまったのはおそらくこのときであろう。
 杵築は九州北部に同名の地がある。おそらく北九州を起源とし、創祀には海神族である安曇氏の関わりが濃厚である。出雲氏系民族が大国さんこと、大貴己が日本全国に展開して行ったその本拠と推定される。
 出雲大社の本殿主柱を大国柱と呼ぶ。

□関連外部サイト

◇出雲大社
http://www.highlight.jp/izumooyashiro/22.html

◇☆初詣で賑わう出雲大社☆
2009/1/4(日) 午後 5:40
... 縁結びで有名な神社だから? 大きい神社だから? 大国主神が祀ってあるから? 元々出雲大社ってなんだろ~?? 正月のネタ話に一丁調べてみるか~ ネットで色々調べ ... その停戦条件が合意され 造営された宮殿が出雲大社の起源と成ったのです。 大和朝廷の都で ...
http://blogs.yahoo.co.jp/dalmatiantarou/46357230.html

◇大聖歓喜大自在天-凛とした 己丑 元朝Change has come
2009/1/1(木) 午後 5:09
... 春日大社 二拝 二拍手 一拝 平城京の 守護の為に ... 神護景雲2年(768) 今の地に社殿を造営 興福寺と同様 藤原氏が勢力を伸ばすにつれ社殿の造営が行われ  平安後期には 現在のような規模を整え ... 神様  第十二番社 夫婦大國社 夫婦円満 良縁 福運守護 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/gogogen2005/37988365.html

◇兵主大社。季節はずれ編。
2008/12/12(金) 午後 10:55
... ちなみに本命(?)は、『八千矛神(やちほこのかみ/大国主神)』です。 で、ウィキペディアの 『兵主大社』 によると。 社伝「兵主大明神縁起」によれば、景行天皇58年 ... 再び遷座して現在地に社殿を造営し鎮座したと伝え、以降、播磨別の子孫が神職を ...
http://blogs.yahoo.co.jp/salala214/5275301.html

◇出雲大社
2007/3/27(火) 午前 6:12
... 日本神話によれば大国主神が天津神に国譲りを行う際その代償として 天孫が住むのと同じくらい大きな宮殿を建ててほしいと求め造営されたのが出雲大社の始まりである 古代より杵築大社と呼ばれていたが明治に入ってに出雲大社と改称した 延喜式神名帳に ...
http://blogs.yahoo.co.jp/sakananomomo/30452839.html

◇大國魂神社-1
2006/1/19(木) 午前 6:00
... 慶長11年(1606)…六所宮の造営を開始(徳川家康の命による)・正保3年(1646 ... 出雲の杵築の大社に鎮座されました神である事は、世に知られるところである。即ち、出雲の大国主神と御同神なのである。 当社の起源は、人皇第十二代景行天皇41年(111)5月5日大 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/qazxswedcvfr2004jp/23768612.html


00943 天乃神奈斐神社祭

2009年01月07日 | 日本の山車
00943 天乃神奈斐神社祭
鳥取県東伯郡琴浦町大字赤碕1506番
天乃神奈斐神社(あめのかんなぎじんじゃ)
□祭神

□祭は十月中旬。
多数の山車が出る。

□汎論
天乃神奈斐神社の創祀は古く、平安時代の元慶年間とも云われるが詳しいことはわからない。地元では「あめのかんなぎじんじゃ」とよぶ。祭礼には二十六の集落のうち十八地区ほどが台車の上に毎年流行の事物をとりいれた見立て山車が作って曳く。江戸時代に北前船がもたらした祭といわれる。山車は、祭りの前日までにつくり、祭当日は山車の四隅には、いりこ干しと塩を供える。いりこ干しを「おかしら」という。
天乃神奈斐神社(通称:仲乃宮)まで曳いて「ホーランエンヤ」を唄い、お祓いを受けその各地域に戻って曳く。
 山車は現在は流行物となっているが、かっては七福神などで、集落ごとに、弁天さん、毘沙門天、大黒さん、戎さんなど決まっていたといわれる。いまも西町は大國さんを曳く。大國さんは、大黒さんだともいう。
 東伯町八橋(やばせ)にも同様の祭がある。
 ミサキ(岬)はミササギ(御陵)でもあり、古代祭祀の霊地とも考えられる。赤崎の地もかってはそのような地だったかもしれない。地域には珍しいテツホシダが群生する。

□関連外部サイト

◇今夜は、秩父夜祭だーーーーーーー
2008/12/3(水) 午後 7:16
... に神社と武甲山の間にある御旅所で神事を執り行うというのが最大の特徴である。秩父神社は地理的に見ても神奈備山である武甲山からみて北面に位置し、秩父神社の本殿は真北を向い ... 諏訪神社の前を通過する際に各町会の山車は正妻の女神を怒らせないように ...
http://blogs.yahoo.co.jp/kurinokihinoki/26925663.html

◇なぜ「矛」なのか
2006/6/30(金) 午後 7:32
... 三輪山や神奈備山など緩やかな稜線の山には神が下りたりご神体であったり、神社の境内に白砂で三角錐が作ってあったりする。これが可動式になったのが山車(だし)。ヤマグルマと書いてダシと読ませるのは当て字で、本来屋
http://blogs.yahoo.co.jp/katanogahara/37007408.html


01894 泉井上神社祭

2009年01月06日 | 日本の山車
01894 泉井上神社祭
大阪府和泉市府中町六-二-三八
泉井上神社
□祭神
ジングウコウゴウ 神功皇后
チュウアイテンノウ 仲哀天皇
オウジンテンノウ 応神天皇
□祭は一〇月上旬。
だんじりを曳く。
□山車(だんじり)
・東泉寺(東、旧東之町)

・南之町(南、通称南出)
昭和二三年の建造。
工匠は絹井嘉一郎。
彫刻は木下舜次郎。松田正幸、金光南陽。

・市辺町(北、旧市邊)

・馬場之町(中央。馬場出)

・和気

・小田

・肥子
現在はない。

□汎論
泉井上神社の創祀はあきらかでないが、和泉国五大社である大鳥、穴師、聖、積川、日根の五社を勧請した和泉五社総社があり、和泉の国府址が近くにある。三韓征伐の遠征より帰還した神功皇后が氏原木滞在した地とも伝わる。いうまでもなく住吉大社の創祀以前である。歴史の帳に包まれているが、
案ずるに和泉の地は古代の出雲であったと推定する。古代には由緒ある重要な地であったことは確かである。
昭和九年に大阪府の学務部が発行した『郷社現行特殊慣行神事』に、「天正十三年(一五八五)神輿並びに地車六臺が整列した」との記述がある。
現在知られる泉州で山車(だんじり)が曳き始めれれた記録では最も古いものである。


□関連サイト

山車に大歓声! 岸和田だんじり祭始まる
2008/9/14(日) 午前 8:26
法被姿の男たちが引くだんじり(山車)が豪快に街を駆け抜ける-。大阪府岸和田市の「岸和田だんじり祭」が13日始まり、大勢の見物客から歓声が起こった。 ... 14日には岸和田市内の神社に入る「宮入り」が行われる。  京都市東山区 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/yyy_20077190/35771722.html


吉浦八幡神社奉納の布団だんじり
2008/6/12(木) 午前 10:30
この年は一番いろんな箇所へ祭り、というか山車を見に行ったんじゃないかな 広島県呉市の吉浦八幡神社秋祭りに登場する布団だんじり。
http://blogs.yahoo.co.jp/fallagain10/43474963.html



神社を出るだんじり、祭り神事
2007/9/23(日) 午前 10:04
... 偶然にも!お出かけ先の土地の祭りのだんじり(山車)が、神社から出発する瞬間に遭遇。 神社でありがたい神事のお祓いを受けた後、神社境内から、血気盛んな若者達に曳かれた 伝統ある「だんじり」が町へ向かって出発です。さあ、祭りの始まりです! 沿道 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/toukaiteio200708/3297790.html



00583 弓削神社例祭

2009年01月06日 | 日本の山車
00583 弓削神社例祭
大阪府八尾市弓削

□汎論
弓削の道鏡出生地と伝え、伝承地に小祠がある。道鏡の略伝は、法相宗の義淵の弟子となり、東大寺の勧進でも名高い良弁から梵語を学んだと言われ、さらに大和の葛城山に密教の宿曜秘法を習得したとも言う。お水取りで知られる東大寺二月堂のまえに良弁の手植えの杉があったが、近年枯れた。
天平宝字五年(七六一)、保良宮において孝謙天皇(後の称徳天皇)の病気を治して以後重用された。天平宝字七年(七六三)に少僧都、天平神護元年(七六五)に太政大臣禅師、翌年には法王となっている。
道鏡は、弟の浄人を引き立て、また多くの一族を任用したが、このことは藤原氏の反感をかう一因ともなった。
やがて、大宰府の習宜阿曾麻呂は、豊前の宇佐神宮より皇位を道鏡に譲れとの神託があったと偽計をたてるにいたり、
ついに和気清麻呂が勅使として、その神託が虚偽であることを上申し道鏡が皇位に就くことはなかった。
宝亀元年(七七〇)称徳天皇の薨去後の宝亀元年八月、道鏡はふたたび天皇即位を企んだとして、下野薬師寺の別当を命ぜられて認知に向かいし、赴任地の下野国で没した。
栃木県下野市の龍興寺境内に道鏡の墓と伝えられる塚がある。
道鏡が失脚した後この地を訪れで藤子姫と夫婦になり過ごしたといい、弓削神社がある。孝謙天皇に寵愛されたとの風説は『日本霊異記』や『古事談』などにも見られるが、多くは後に生まれた説話似すぎないといわれる。
 八尾市の弓削神社の地は古来たびたび大和川の決壊がおきたところで、生駒山西側を枚岡か大東市におよぶ大水害を引き起こし、鴻池家土蔵にはその水位の後が今も残されている。
近年弓削神社の祭には小型の蒲団太鼓が出るようになった。


□関連サイト

白峯神宮
2008/10/31(金) 午前 11:11
堀川今出川東入るに白峯神宮がある。この神社は、堀川に架かる橋が流されると、舟の橋を架けて渡ら ... その地で果てた崇徳上皇を慰霊する為に、明治元年(1868)に、讃岐の白峯稜より御霊を迎え ... 奈良時代に僧道鏡と恵美押勝の争いに巻き込まれ ... http://blogs.yahoo.co.jp/yuhobito/46377390.html


厄神大権現・濱川神社
2007/12/13(木) 午後 5:14
... とりあえず、寒川神社から賜ったお守りを肌身離さず持っ ... 天平勝宝元年(749)に創建された孝謙天皇の勅願所、加古川厄除八幡宮のお話です。後神護景雲3年(769)皇位を奪おうとする僧道鏡を失墜させるために和気清麻呂は、宇佐八幡宮へ向かいました。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/pokochino6324/28417660.html


妙見宮・下宮の狛猪
2007/4/11(水) 午前 0:26
... この神社の起源は 妙見宮のHP の年譜によると・・・ 称徳天皇の神護景雲3年(西暦769年)、太政大臣法王弓削氏道鏡が皇位につくのが相応しいというお告げが出た。それに疑問をもった朝廷が ... 当社は奈良時代の宝亀元年(西暦770年)、和気清麻呂が ...
http://blogs.yahoo.co.jp/c_xantia_01/47642191.html


道鏡
2007/3/27(火) 午後 7:47
... 770年(宝亀元年)称徳天皇は没します。  称徳天皇の寵愛だけで、その地位に就いていた道鏡は、  下野国の下野薬師寺別当に左遷されます。 ... 孝謙天皇を祭神とする孝謙天皇神社もあります。  道鏡が、優秀な僧侶であった事は間違いないと ...
http://blogs.yahoo.co.jp/tennenkozi/8206361.html


皇統を救ったお宮さん。(宇佐神宮 編 その1)
2006/9/26(火) 午前 0:07
神社ファン以外の方で、普通の 『神社』 と 『神宮』 の違いって、皆さん判りますか? ただ単に『神宮』というと ... 形の宇佐鳥居 時は天平勝宝元年(西暦749年)・・・ 奈良 ... 弓削道鏡 というお坊さんが 呼ばれます。この道鏡、随分と法力があったのか ... http://blogs.yahoo.co.jp/keinoheart/20257502.html



35541 松林飯山

2009年01月06日 | 日本の山車
35541 松林飯山

天保十年(一八三九)二月ー慶応三年(一八六七)一月。
筑前早良郡金武村羽根戸村(現福岡市西区)に生まれた。幼名を駒次郎、字を伯鴻といい、のちに廉之助とあらためた。飯山は号で、飯盛山の麓に生まれたことにちなむ。
父は杏鉄(きょうてつ)といい医師であったが、絵が好きで南画を得意とした。五教館教授、片山歓治氏の推挙で藩の御典医についている。
飯山は秋月藩家老から養子に望まれたが父はこれを嫌い、妻の郷里七釜の沖の蛎浦の中村家に隠棲した。
十四歳のとき、参勤交替に従って江戸に上がり、安積艮斉(あさかこんさい)の塾に学んだ。
飯山は伊丹郷町に橋本香坡をたずねているがこのころのことであろうか。香坡は不在であったが、待つうち、香坡は谷口與鹿とともにすっかり酩酊して明倫堂に帰ってきた。「余は酔香坡なり」と自己紹介したあと、深更にいたるまで話し合っているが、飯山はすっかり香坡に心酔した。
安政四年(一八五七)十九歳のとき幕府の昌平校に入り、ここで学才を認められて詩文係に任命された。
二十一歳のとき五教館の教授を拝命し故郷の大村(長崎県)に帰った。北海道松前藩、奥州仙台藩、関東、越前、近畿、中国、九州諸藩の藩士らが大村に学んでいる。土佐の岩崎弥太郎もその一人である。
文久三年(一八六三)十月、二十六歳のとき五教館の祭主についた。
渡邉昇、楠本正隆らとともに大村藩が倒幕へと向かう、大村藩勤王三十七士の中心人物
となった。
慶応三年正月、大村城中で恒例の謡初式が行われたが、自宅前まで帰ったところを長井兵庫ら佐幕派の浪士に襲われて死去した。享年わずか二十八歳であった。このあと大村藩の勤皇派の動きが活発になるが。慶応四年は明治元年と改元された。明治維新はを迎えたのは飯山の死去一年後のことである。
松林飯山の著述に「飯山文存」がある。



□関連サイト

篤姫、江戸城無血開城
2008/12/3(水) 午前 10:26
... 万が一のとき天皇の身をどうするかについての覚書(慶応三年十一月二十七日付)があり、西郷さんは天皇を玉と表現しているのですが ... 『篤姫』の時代考証を担当した鹿児島大学の原口泉教授は地元の英雄を貶めるこの演出に一言申さなければならないのでは ...
http://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/56917238.html


◇林八千雄、江戸城明け渡しと、彰義隊   其の27
2008/11/17(月) 午前 3:11
... 薩摩・長州に対して倒幕の勅許が下ったのが慶応三年(1867年)十月十四日である。 慶応四年一月討幕軍が幕軍に大勝したのが「鳥羽伏見の戦」であった。 官軍は”錦の御旗”を先頭に江戸へ ... 開成所の教授であった八千雄に対して謹慎処分が 下されたのである。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/sekenkokenari_1617/19464791.html


◇群青忌 野村秋介追悼十五年
2008/10/22(水) 午前 7:35
... そして追悼講演は、小林節慶應義塾大学教授がされた。 小林先生が国際会議に行くと、夜会で欧米先進国とは大東亜戦争のことで言い争いになる ... いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真なる意味が何であったかは ...
http://blogs.yahoo.co.jp/ishinsya/35022583.html


◇陽明学の教授
2008/4/8(火) 午後 5:50
... 字・有終、通称・徳蔵、寛政九年~慶応元年七月十五日、昌平黌で古賀精里に師事し津藩の有造館で教授、洋学に関心があり種痘を採用する)の門に学び ... その長男の忠次郎(名・久明、天保三年~明治四年十月二十七日)も重右衛門に入門した。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/vlne_r75wl/31966893.html


◇しながわ宿場まつりへの道:第4回<役柄発表!>
2005/9/12(月) 午前 0:49
... 待ってない?)しながわ宿場まつり、神楽教授の役柄の発表です。 概ねの予想では「龍馬役のオファーが ... 龍馬さんと慎太郎は慶応三年十一月十五日、京都の近江屋で何者かによって襲撃を受け 龍馬さんは即死、慎太郎は二日後に亡くなります。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/kagura7572/11207287.html



28556 入魂式と昇魂式

2009年01月05日 | 日本の山車
28556 入魂式と昇魂式

 南大阪方面の山車、いわゆるだんじりに広く行われる式典に、入魂式と昇魂式がある。
たとえば、岸和田のだんじりは曳くとき地響きを立て、曳き綱をとった若い男女が疾走する。驀進といってもよい。そして角地では思わず息を呑む「やりまわし」が行われる。
それは、時に事故につながり惨事ともなる。この激しい扱いで山車はいちじるしく消耗する。
そこで、ある年月を曳かれた山車は更新され、新しく作り直される。使い終わった山車(だんじり)は、関係者らの手で丁重に昇魂式が執行され、新しく建造された山車には入魂式を行ってあたらしい命が吹き込まれる。
 年末になると奈良の古寺では、僧侶たちが一年簡にたなったのほこりを落とす「御身ぬぐい」を行って清める。東大寺の大仏などはとても大きいから大変な作業である。
ここまでは例年の光景でありさしたる疑問もわかないのだが、わからないのはこの御身ぬぐいのあいだ、仏から魂が抜かれる。お清めがすめばまた魂を入れtる。
 関西では移転のとき、仏壇を移動するときは、お手次ぎや導師に仏壇の魂を抜いてもらい、安置場所が決まるとまた茶まし意を戻してもらうということが行われる。
長野県の一部にもこの伝習がある。
 山車(だんじり)にもどるが、新しく建造された山車には神官が招かれお祓いをして魂を入れる。長い年月を曳かれた山車がその生命を終えるとき魂が抜かれ昇天する。
 魂は入れられてから抜かれるまで山車に存在するのであろう。魂とは鎮守の御分霊ということになるのだろうか? 
 あたらしく山車を建造した地区で山車に魂を入れる入魂式は書く注意に広がりつつある。
 仏作って魂入れずという言葉がある。
 如来という存在に達し得ない人間がほとけの魂をいれたり、抜いたりする思想には馴染めないものがある。


□関連サイト

◇和気町だんじり
2007/1/3(水) 午後 0:31
... 山車の写真を撮っておきながら ... 泉州上陸後、堺市上神谷のだんじり祭り(まだ 片蔵 と 泉田中 しかアップしてませんが。。。)を見て、翌日の10月1日は、 泉大津市板原町の新調入魂式 を見るというスケジュールにしていました。淡路島で布団だんじりを見 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/syasu2219chosaja/26402559.html



◇積川入魂式
2006/5/21(日) 午前 3:53
だんじり関係の記事、しばらくはこの“入魂式”ってやつで続くかと思います。 ご存知のように(あんまりこんな認識は持ってほしくないけど…)だんじりとは、 街中を走り回る“山車(だし)”のようなもので、“地車(だんじり)”と 書き表します。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/tsujinaka373/36541787.html


01104 喜志のだんじり

2009年01月05日 | 日本の山車
01104 喜志のだんじり
大阪府富田林市喜志


□山車(だんじり)
・若松一
彫刻

源平盛衰記にとる。

・新堂
平成十二年に導入。
工匠は下川安治郎、下川一榮、下川安治郎、赤金由松。
昭和九年に泉大津市宮本町が建造したものだという。

・宮
幕末文久三年の建造
工匠は地元の大工。

・尺度
平成十年の導入。
昭和五年に泉大津市元町が建造したものだと伝える。

・喜志
明治末期の導入
工匠は新兵衛。清八。
明治二十三年に奈良県広陵町で建造されたと伝えられる。

・川面
平成三年の建造。
工匠は彫忠。

・毛人谷
平成一二年導入
工匠は羽曳野の大工だという。彫又ほかの手が入っている。
昭和二三年ごろ羽曳野市主水町が建造。
健在に誉田八幡宮境内にあった巨木を用いたという。

・平町
平成十四年の建造。
工匠は彫忠。

・桜井
彫刻の題
天の岩戸
司馬温公の瓶割り
牛若丸鞍馬山修行の場

□汎論
大和川の支流である石川と羽曳野丘陵のあいだにひろがる一帯は、古くは喜志村であった。いまは宮町、桜井町、喜志町、喜志新家町、平町、川面町、木戸山町に分かれている。祭の氏子には一部羽曳野市が加わっている。
大阪、浪花漫才の起源とも言われる「俄」の伝承があり、「にわかだんじり」があるのがめずらしい。


□関連サイト
◇河州喜志村覚書帳
http://2nd.geocities.jp/kisioboegaki/



02064 積川神社祭

2009年01月05日 | 日本の山車
02064 積川神社祭
大阪府岸和田市積川町350番地
積川神社(つがわじんじゃ)
□祭神
イクイノカミ 生井神
サクイノカミ 栄井神
ツナガイノカミ 綱長井神
アスハノカミ 阿須波神
ハヒキノカミ 波比岐神
境内社
天神社
八坂社
白髪社
戎社
□祭は十月上旬
山車(地車)六臺を曳く

□山車(地車)
・積川(積川西)

天の岩戸、神功皇后の応神天皇を安産、素盞鳴尊の八岐大蛇退治。
小桜責め、逆櫓の争い、常盤母子の都落ち。
勧進帳安宅の関、弁慶の義経懲打の場、石橋山合戦。
富士の巻狩り、頼朝本陣褒賞の場、仁田四郎忠常の猪退治、狩場風景。
丹波大江山、酒呑童子の酒盛りの場、源頼光の木渡り、酒呑童子退治。
源頼政の鵺(ぬえ)退治、宇治川の先陣争い、鎮西八郎為朝の剛弓。
安芸の宮島の弁財天、巴御前、八幡太郎義家の奥州征伐。
灘波戦記。
・積川東(橋室)

天の岩戸、鷺池平九郎うわばみ退治、素盞鳴尊の八岐大蛇退治。
安宅の関の場。
富士の巻狩り。
源平盛衰記。
朝比奈三郎、富士川の合戦、今井兼平。
大坂夏の陣。
・包近町
楠公記
戦勝祈願、桜井の駅、後醍醐天皇、後醍醐天皇笠置落ち。
雲に梅鉢。
波に浦島太郎。
多聞丸誕生、多聞丸弓修業、多聞丸が林軍太を懲らしめる場。
畑六郎左衛門、高安三太郎兵衛の楠木加勢、高田傳二郎の勇戦。
・山直中町

天の岩戸、生田の森、箙(えびら)の梅は梶原源太景季、石川五右衛門香炉を盗む場、神武天皇東征。
兜あらため、忠臣蔵の刃傷松の廊下、村上喜剣内蔵助を足蹴にする場。
大江山、源頼光の木渡り、北陸街道、安宅の関の場。
富士の巻狩り、頼朝本陣、仁田四郎忠常の猪退治、富士の巻狩り。
巴御前、八幡太郎義家の安倍貞任を討つ場。
忠臣蔵。両国橋引揚げの場」、右は赤穂義士吉良邸討入り」、左は「清水一学の奮戦」。加藤清正の九州征伐、秀吉本陣佐久間の乱入、巴御前の奮戦。
大坂夏の陣。
・稲葉町東

鎌倉の鶴ケ岡八幡宮、新田義貞稲村ヶ崎、本能寺の変。
牛若丸と弁慶の五条橋の出会い、正行の吉野如意輪堂落首、石川五右衛門の伏見城の香炉を盗む場。
太平記。楠公子櫻井の駅の別れの場、湊川の合戦、四條畷の合戦。
太閤記。尾州桶狭間の戦い、江州姉川の戦い、遠州三方ヶ原の戦い。
忠臣蔵。両国橋の引揚げ、服部彦七の温情、吉良邸討入りの大石内蔵助と義士の雄姿、清水一学の吉良邸奮戦。
木曽義仲粟津の合戦、巴御前の勇姿、今井四郎の勇戦。
大坂夏の陣。
・稲葉町西
雲に菅原神社、梅鉢の紋。開運の御来光。
神話伝説。神武天皇東征、神功皇后の三韓制覇、天の岩戸、因幡の白兎。
関ヶ原合戦。
波、龍。
丹波大江山の酒呑童子征伐、勧進帳安宅の関の場。
太平記。楠公親子桜井の駅の別離、千早城籠城、楠公の藁人形の計略。
源平合戦。義経八艘跳び、鬼神に勝る巴御前、木曽義仲の最期。
忠臣蔵。両国橋の引揚げ服部彦七の温情、吉良邸に討入る大石内蔵助と義士、清水一学の奮戦。
桶狭間の合戦より今川義元の最期、加藤清正と新納武蔵守の血戦、秀吉の本陣に乱入する佐久間。
築城用材調達、尾張清洲城の修築、日吉丸の誕生。
関ヶ原の戦い、弁慶の堀川の夜討ち。
富士の巻狩り。

□汎論
積川神社は、和泉五社中の四の宮である。延喜式に記載される古社で、祭神はすべて土地神であり、あとから加えられた他の神は、境内社に祀られる。
積川の名称は近接して前に牛滝川、後ろに深山川の二つの川が重なることにちなむという。は熊野街道に面しており、本殿は三間社流造檜皮葺で、慶長七年に、豊臣秀頼が片桐且元を普請奉行として大修理を加え、現在もそのまま、桃山様式を曳く華麗な建築と、勾欄の彫刻の見事さは美の極致とされ、大正三年四月に特別保護国宝建造物に指定されている。社宝に重文指定の神像、淀君奉納の神輿、楠正儀寄進の石燈籠、古鏡、寛治四年に、白河上皇の熊野へ詣でるときに揮毫した社号額などがある。


□関連サイト

◇弁慶睨む名地車~土生町地車~
2008/12/17(水) 午前 0:04
... 土呂幕ですが、【賤ヶ岳の合戦】七本槍の武功より「加藤孫六 浅井吉兵衛討取り」です。 ... 見送り下ですが、ここの縁葛には、珍しい【富士の巻狩り】です。正面「仁田四郎猪退治」右「狩場風景」左「頼朝本陣」ですね。あと、連子は、正面・左は不明ですが ...
http://blogs.yahoo.co.jp/n09261963kk/47806138.html


◇だんじり 彫り物(正面)
2008/9/16(火) 午前 0:18
... 土呂幕   *正面 「川中島の合戦」     ↓拡大です^m^v ★松良 ... 縁葛  <富士の巻狩り>*正面 「頼朝本陣」   *右 「仁田四郎忠常 猪退治」     *左 「富士の巻狩り」大連子 *正面 「秀吉本陣佐久間の乱入」 *右 「敦盛呼び戻す ...
http://blogs.yahoo.co.jp/bijinya1623/16903971.html


◇神須屋町地車昇魂式
2007/12/15(土) 午後 11:19
... 左「安宅の関 弁慶義経徴打」。縁葛:【富士の巻狩り】正面「頼朝本陣」、右「富士の巻狩り」、            左「仁田四郎忠常 猪退治」。小連子:正面「吉良上野介討取り」、右「清水一学の奮戦」 ... 見送り廻り≫見送り:「賤ヶ岳の合戦」。
http://blogs.yahoo.co.jp/ayumi_bombaye_1011/38674828.html


◇馬場 地車新調記念誌2
2007/7/10(火) 午前 6:44
... 出迎へ「見送り虹梁」夜討「縁葛」仁田四郎 猪退治「連子」景清 三保谷錣引き「後松良」曳き り鐘 〔後右平〕「枡合」上段 大国主尊 因幡の素兎「見送り虹梁」曽我物語「縁葛」富士の巻狩り「連子」屋島の合戦「後松良」武蔵坊弁慶 〔後右平〕「枡合」下段 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/danjirimaturi373/50631802.html


◇板原村館長のだんじり“日干し”
2007/4/29(日) 午後 11:33
... 縁 葛:~富士の巻狩り~             正面「報償の場」、平右「勢子等の活躍」、平左「仁田四郎忠常猪退治」         大連子:~源平合戦~         小連子:~忠臣蔵~             正面「両国橋引揚げ ...
http://blogs.yahoo.co.jp/gkrgd678/31911721.html



00229 上之郷地区祭

2009年01月05日 | 日本の山車
00229 上之郷地区祭
泉佐野市上之郷
意賀美神社(おがみじんじゃ)
□祭神
龍神 ?

□祭

□山車(だんじり)
建造は明治初期と推定。
工匠は不明。
彫刻は彫又。

脇坂甚内が赤井景遠を襲う場面
難波戦記の見送りをかける

□汎論
延喜式に記載のある古社。武塔山麓にあり、武塔ノ天神ともいう。
祭神が不明である。龍神を祀ったともあり、雨乞いにゆかりがあるかもしれない。江戸時代初期に各地を行脚した美濃の僧円空も請われて多くの龍神を彫刻している。
岐阜県垂井町の南宮社にも雨乞いの伝承と、置山での龍神からくりが伝承されている。
江戸の三囲社も雨乞いで名高いが、当社の祭も、雨乞いと山車曳行が結びついたものと考えられる。

□関連サイト
◇泉佐野のだんじり
http://www.au-techno.com/danjiri/kamimura.htm


◇意賀美神社
http://www.norichan.jp/jinja/shigoto2/ogamiizumisano.htm


◇ターコイズ(別名トルコ石)/ホワイトハウライト
2008/9/4(木) 午前 4:02
... 古代エジプト初期の王墓や、インカ帝国の財宝の中から装飾品に加工されたターコイズが多く発掘されています。 ... すでに6000年前から、彫刻などを施した装飾品として愛好されてきました。 ... 紋様を描き、雨乞いの儀式に用いたといわれています。 ...
http://blogs.yahoo.co.jp/lovly_kaiyin/815806.html


◇諏訪大社上社・本宮
2007/5/10(木) 午後 4:07
... 青竹にこの水をいただいて雨乞いの祭りをすれば必ず雨が降るといわれている。    狛犬    勅使殿(ちょく ... 細部にまで見事な彫刻が施された社殿は立川流を代表する傑作といわ ... 四脚門は江戸時代初期の建築になります。  見学する者にとっ ...http://blogs.yahoo.co.jp/today_kids/32568697.html



02110 板原村のだんじり

2009年01月05日 | 日本の山車
02110 板原村のだんじり
大阪府泉大津市板原町
泉穴師神社(旧板原菅原神社)
□祭は
□山車(だんじり)

平成十八年に。更新新調された。

□汎論
神社の創祀は、旧板原村の産土神として、板原菅原神社は、牛滝川右岸に祀られた。明治四十一年十一月に和泉國の二之宮である、泉穴師神社に合祀された。山車(だんじり)は、おそらく創祀時ころから曳かれたと推定され。現在の山車は三代目にあたるということである。
穴師神社の祖神である穴師は古代の「アノウ氏」であり、滋賀県大津市の穴穂、京都府亀岡市の穴太寺、奈良県五條市の梅林で知られる賀名生などは一族と推定される。
穴師神社のすぐ西に我孫子(あびこ)があり、これもアノウ氏の有力一族である。
大阪市住吉区には大聖観音寺(通称、吾彦観音寺、我孫子観音、あびこ観音)がある。

□関連サイト
板原村のだんじり会館
http://blogs.yahoo.co.jp/gkrgd678/MYBLOG/profile.html


山車に大歓声! 岸和田だんじり祭始まる
2008/9/14(日) 午前 8:26
法被姿の男たちが引くだんじり(山車)が豪快に街を駆け抜ける-。大阪府岸和田市の「岸和田だんじり祭」が13日始まり、大勢の見物客から歓声が起こった。 ... 14日には岸和田市内の神社に入る「宮入り」が行われる。  京都市東山区 ...

http://blogs.yahoo.co.jp/yyy_20077190/35771722.html


吉浦八幡神社奉納の布団だんじり
2008/6/12(木) 午前 10:30
この年は一番いろんな箇所へ祭り、というか山車を見に行ったんじゃないかな 広島県呉市の吉浦八幡神社秋祭りに登場する布団だんじり。

http://blogs.yahoo.co.jp/fallagain10/43474963.html


船形だんじり 伊賀市種生神社
2007/11/1(木) 午後 7:09
... 旅所約200m間を、獅子舞を先頭に神輿、子供神輿、神主さん、世話役さん、  そして山車と続きます。  山車は一往復、その他の行列は相撲甚句を詠いながら三往復します。 ... 伊賀の山村に何の縁で舟形の山車があるのでしょうね。

http://blogs.yahoo.co.jp/azexnabari/50350486.html


神社を出るだんじり、祭り神事
2007/9/23(日) 午前 10:04
... 偶然にも!お出かけ先の土地の祭りのだんじり(山車)が、神社から出発する瞬間に遭遇。 神社でありがたい神事のお祓いを受けた後、神社境内から、血気盛んな若者達に曳かれた 伝統ある「だんじり」が町へ向かって出発です。さあ、祭りの始まりです! 沿道 ...

http://blogs.yahoo.co.jp/toukaiteio200708/3297790.html


勇壮な岸和田だんじり祭!
2007/9/8(土) 午前 0:33
... 岸和田藩主と領民が、岸和田城内三の丸稲荷神社に五穀豊穣を祈願した稲荷祭が起源。現在では各町のだんじりがそれぞれの氏神社に宮入りし、安全を祈願する。全国的にも知名度が ... また、木出し・石出しからダシ(山車)から「だしずり」。後醍醐天皇の孫に当たる ...

http://blogs.yahoo.co.jp/yoshimizushrine/49295516.html



29772 江戸の山車

2009年01月04日 | 日本の山車
29772 江戸の山車

江戸時代、天下祭ともいわれ、江戸城西の丸御殿まで曳き入れて時の将軍の上覧に供した山車も、大政奉還を経て明治維新を迎えた。山王社は日枝神社に改称、長らく江戸の市民に親しまれた粋の華でもあった山車は姿を消し、山車祭は御神輿の祭にと姿を変えた。
惹かれなくなった山車は、栃木、熊谷、青梅、八王子へと譲渡され、惜しまれつつ江戸の町を離れていった。佐倉には江戸の山車に用いられた大幕が保存されるが、大粒の波しぶきは、銀製である。
 今に至っても江戸の町を曳かれた山車が復興することを願う人は多い。
 先の戦争で、東京市外は東京大空襲により焦土と化した。江戸の町を後にしていった山車がもし残されていても間違いなく罹災し、今見ることはできないであろう。
山車のたどった変遷、歴史を考えると複雑な思いは胸を去らない。



29772 江戸の山車

2009年01月04日 | 日本の山車
29772 江戸の山車

江戸時代、天下祭ともいわれ、江戸城西の丸御殿まで曳き入れて時の将軍の上覧に供した山車も、大政奉還を経て明治維新を迎えた。山王社は日枝神社に改称、長らく江戸の市民に親しまれた粋の華でもあった山車は姿を消し、山車祭は御神輿の祭にと姿を変えた。
惹かれなくなった山車は、栃木、熊谷、青梅、八王子へと譲渡され、惜しまれつつ江戸の町を離れていった。佐倉には江戸の山車に用いられた大幕が保存されるが、大粒の波しぶきは、銀製である。
 今に至っても江戸の町を曳かれた山車が復興することを願う人は多い。
 先の戦争で、東京市外は東京大空襲により焦土と化した。江戸の町を後にしていった山車がもし残されていても間違いなく罹災し、今見ることはできないであろう。
山車のたどった変遷、歴史を考えると複雑な思いは胸を去らない。



35226 山車は出造り

2009年01月04日 | Weblog
35226 山車は出造り

 山車を建造するとき、地元に工匠がいればいいが、そうでないときは、名工といわれた熟練者に依頼して建造することになる。交通機関の発達した現代ならいざ知らず、かっては工匠が現地に出向いて、土地のかたがたの世話になりながら一年、二年、三年、ときには五年以上もかけて建造した。
 山車組の世話人の座敷をあてがい、酒肴でもてなす。慰労のため伎楼に招待する。山車の建造費もさることながら、完成までの接待費の負担はものであった。
 さりとて工匠らは遠慮も格別のお礼も言わない。遊郭には組の通いを持って通う。
 その出費に悲鳴をげたという話もあながち嘘ではない。招きをうけた工匠らはひたすら入念な仕事に精を出したのである。


30000 山車と史学

2009年01月02日 | Weblog
30000 山車と史学

過去の歴史を紐解いてゆくと、そこはもう謎の世界である。ときおりそのはざまに動かしがたい事実が発掘される。そこで史論は一歩前進する。
だが歴史的事実と事実をつなぐそのあいだはやはり闇で、このあいだをつないだ説が樹てられる。長い年月をかけてこれらの諸説は通説として確立してゆく。
しかし、しばしば歴史的発見があって、通説が実証されることがあり、ときに覆る。だから学者は臆病になる。歴史をさかのぼるというのは、ある意味で推理の連続である。だから推理は学問の世界から異端視される。
例をあげよう。
高松塚の建造期はいつか? 六世紀半ばから七世紀はじめと推定されている。数十年の開きがある。かなり明瞭な遺物が発見されているのに、被葬者が特定された話を聞かない。邪馬台国の所在地はどこか? 九州か? 大和か? 多くの疑問を解明する。諸説が立てられたがいまだにあきらかとなっていない。
ピラミッドはなぜエジプトとメキシコに隔離して存在するのか? 推理すれば、そのあいだは連続していたと考えるのが自然である。両地店を結ぶ海底から発見される可能性がある。荒唐無稽と批判を浴びそうだが、史学にはもっと推理を働かせる柔軟さが必要だと思う。
飛鳥の石舞台はむきだしの古墳である。これは、表土が洗い流されたからと説明されている。そうかもしれない。
だが、同じ地方にあって多数の古墳が表土イ覆われているのに石舞台だけが洗い流されるというのは不自然ではないだろうか。筆者は広義のドルメン(支石墓)と推定している。酒船石もこれまでに諸説が立てられているが、決着を見ていない。筆者は砂から丹や鉄などを採取するモデルだったのではと推理している。
日本各地に立派な山車が多くあるが、奇妙に共通するのは過去の資料がないことである。山車を考えるということは、山車を推理する。ということになる。今後、山車学がたてられることがあれば、山車推理学になりそうである。間違いを恐れると画口授としての研究が阻害される。