暘州通信

日本の山車

30000 山車と史学

2009年01月02日 | Weblog
30000 山車と史学

過去の歴史を紐解いてゆくと、そこはもう謎の世界である。ときおりそのはざまに動かしがたい事実が発掘される。そこで史論は一歩前進する。
だが歴史的事実と事実をつなぐそのあいだはやはり闇で、このあいだをつないだ説が樹てられる。長い年月をかけてこれらの諸説は通説として確立してゆく。
しかし、しばしば歴史的発見があって、通説が実証されることがあり、ときに覆る。だから学者は臆病になる。歴史をさかのぼるというのは、ある意味で推理の連続である。だから推理は学問の世界から異端視される。
例をあげよう。
高松塚の建造期はいつか? 六世紀半ばから七世紀はじめと推定されている。数十年の開きがある。かなり明瞭な遺物が発見されているのに、被葬者が特定された話を聞かない。邪馬台国の所在地はどこか? 九州か? 大和か? 多くの疑問を解明する。諸説が立てられたがいまだにあきらかとなっていない。
ピラミッドはなぜエジプトとメキシコに隔離して存在するのか? 推理すれば、そのあいだは連続していたと考えるのが自然である。両地店を結ぶ海底から発見される可能性がある。荒唐無稽と批判を浴びそうだが、史学にはもっと推理を働かせる柔軟さが必要だと思う。
飛鳥の石舞台はむきだしの古墳である。これは、表土が洗い流されたからと説明されている。そうかもしれない。
だが、同じ地方にあって多数の古墳が表土イ覆われているのに石舞台だけが洗い流されるというのは不自然ではないだろうか。筆者は広義のドルメン(支石墓)と推定している。酒船石もこれまでに諸説が立てられているが、決着を見ていない。筆者は砂から丹や鉄などを採取するモデルだったのではと推理している。
日本各地に立派な山車が多くあるが、奇妙に共通するのは過去の資料がないことである。山車を考えるということは、山車を推理する。ということになる。今後、山車学がたてられることがあれば、山車推理学になりそうである。間違いを恐れると画口授としての研究が阻害される。

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