六ヶ所村の核燃料再処理工場で、今月初めから高レベル放射性廃棄物である「ガラス固化体」の製造が始まりました。ガラス固化体とは、使用済み核燃料からプルトニウムとウランを取り出して残った廃液を、溶かしたガラスと混ぜて固めたものです。つまり、原子力エネルギーを取り出したあとの、最終的な「核のゴミ」。使用済みの核燃料を「再処理」して再び燃料として使うのが核燃料サイクルですが、完全にはリサイクルできないわけで、どうしても使い切れない「ゴミ」は出る。
ガラス固化体は、ステンレス製の容器に注入されます。容器は1本の大きさが直径約40cm、高さ1m30cmで、重さは約500kg。それが最大で年間1,000本程度発生するという。実は、これまでフランスに再処理を委託して発生したガラス固化体が返還されてきていて、既に約1,300本が一時貯蔵されています。英国からも今後1,000本ぐらい返還される予定だそうで、いずれ、数千本のガラス固化体が六ヶ所村に一時貯蔵されることになります。
青森県が認めているのは、あくまでも「一時貯蔵」です。とりあえず六ヶ所村で預かりましょう、ということ。いつまで預かるのかというと、「最終処分場」ができるまでです。
ところが、その最終処分場をどこにするか、まったく目処が立っていない。六ヶ所村の核施設に反対を唱える人たちは、「出口を先に決めるのが先決だろう」と言いますが、もっともな話です。原子力発電には「核のゴミ」が出ることは最初から分かり切っていたことで、ゴミの処分をどうするかを決めずに「とりあえず」事業は進める、という方法では、理解を求めろという方が無理があります。
どこの自治体だって、どこの住民だって、自分たちの町が「ゴミ捨て場」になるのはいやです。しかも、この場合はただのゴミではない、放射性物質を大量に含むゴミという厄介なしろものです。「最終処分」は、地下300m以上の地中深くのところに「捨てる」のだそうですが、「捨てる」というより、人間の生活環境から「隔離する」と言った方が正確かもしれません。なにしろ、放射性物質のレベルが、人間にとって危険度がなくなるまで、数万年はかかるのですから…。
そういう「最終処分」をする場所を選定・調査し、施設の建設をし、すべて埋め終わるまで、なんと100年ほどはかかるという。もし今最終処分地が決定したとしても、少なくとも100年間は六ヶ所村に「一時貯蔵」されるということになります。「一時」にしてもあまりにも長すぎる。
原子力エネルギーがなければ、実際、現在の日本社会が必要とするエネルギーをまかなえないということも事実なのでしょう。ただ、その進め方が少し性急すぎやしないでしょうか。悪く言えば、行き当たりばったり、あるいは、その場しのぎ。最終処分場決定をめぐる動きにしても、昨年の高知県東洋町の騒動をきっかけに、早急に決めるためにそのスケジュールを短縮しちゃえという乱暴な意見も出ている有様。
原子力行政には、「スジ」が通らないことが多すぎるような気がします。どうしても進める必要があるというなら、きちんと「スジ」を通すことは不可欠でしょう。いつも、何かにつけ、「既成事実」で片付けようとしているようにも思えます。「後付け」の説明やら言い訳やらで。そのツケを負うのはいったい誰なのでしょうか?
ガラス固化体は、ステンレス製の容器に注入されます。容器は1本の大きさが直径約40cm、高さ1m30cmで、重さは約500kg。それが最大で年間1,000本程度発生するという。実は、これまでフランスに再処理を委託して発生したガラス固化体が返還されてきていて、既に約1,300本が一時貯蔵されています。英国からも今後1,000本ぐらい返還される予定だそうで、いずれ、数千本のガラス固化体が六ヶ所村に一時貯蔵されることになります。
青森県が認めているのは、あくまでも「一時貯蔵」です。とりあえず六ヶ所村で預かりましょう、ということ。いつまで預かるのかというと、「最終処分場」ができるまでです。
ところが、その最終処分場をどこにするか、まったく目処が立っていない。六ヶ所村の核施設に反対を唱える人たちは、「出口を先に決めるのが先決だろう」と言いますが、もっともな話です。原子力発電には「核のゴミ」が出ることは最初から分かり切っていたことで、ゴミの処分をどうするかを決めずに「とりあえず」事業は進める、という方法では、理解を求めろという方が無理があります。
どこの自治体だって、どこの住民だって、自分たちの町が「ゴミ捨て場」になるのはいやです。しかも、この場合はただのゴミではない、放射性物質を大量に含むゴミという厄介なしろものです。「最終処分」は、地下300m以上の地中深くのところに「捨てる」のだそうですが、「捨てる」というより、人間の生活環境から「隔離する」と言った方が正確かもしれません。なにしろ、放射性物質のレベルが、人間にとって危険度がなくなるまで、数万年はかかるのですから…。
そういう「最終処分」をする場所を選定・調査し、施設の建設をし、すべて埋め終わるまで、なんと100年ほどはかかるという。もし今最終処分地が決定したとしても、少なくとも100年間は六ヶ所村に「一時貯蔵」されるということになります。「一時」にしてもあまりにも長すぎる。
原子力エネルギーがなければ、実際、現在の日本社会が必要とするエネルギーをまかなえないということも事実なのでしょう。ただ、その進め方が少し性急すぎやしないでしょうか。悪く言えば、行き当たりばったり、あるいは、その場しのぎ。最終処分場決定をめぐる動きにしても、昨年の高知県東洋町の騒動をきっかけに、早急に決めるためにそのスケジュールを短縮しちゃえという乱暴な意見も出ている有様。
原子力行政には、「スジ」が通らないことが多すぎるような気がします。どうしても進める必要があるというなら、きちんと「スジ」を通すことは不可欠でしょう。いつも、何かにつけ、「既成事実」で片付けようとしているようにも思えます。「後付け」の説明やら言い訳やらで。そのツケを負うのはいったい誰なのでしょうか?
今日の原油の、異常な高騰を考えると、原子力発電なしというのは、日本は考えられない選択肢のように思います。
しかし、あれはフィクションであることを承知していますが、高村薫さんの「新リア王」を読んで、青森県の原子力の問題は、建前と本音があることを知りました。
本質の解決が出来ることを、1日も早く望みます。
「新リア王」、まだ読んでないんですよねー。
「晴子情歌」も。読みたくなってきました。
建前とホンネというのは、確かに言えるのかもしれませんね。結局はしかし「カネ」の問題という気もします。経済的に豊かであれば、何も原子力施設に頼る必要はないのですから…。