2004年の佐世保小6少女による同級生殺害事件を描いたノンフィクション『謝るなら、いつでもおいで』の著者・川名壮志氏と池上彰氏の対談。本については読んでいないので何も書けませんが、対談の中で「少年による殺人事件は減っている」という部分を読んで、そうだったのかと思いました。
警察庁の統計によれば、殺人で検挙された刑法犯少年(14歳~19歳)の人数が一番多かったのは、1951年の443人。なんと、毎日、少年が1人以上、殺人で検挙されていることになります。1950年から1970年までの20年間は、ずっと3ケタで推移(むろん、この時代は、大人の犯罪も同じように多かったのですが)。それが、現在、2013年のデータで52人にまで減ってきているのです。
それなのに、世の中に「少年による凶悪犯罪が増えている」感覚があるのはなぜか。池上さんは、マスメディアの存在が大きいと言います。「だんだん殺人事件が減ってくると、逆に珍しいからニュース価値が上がる。それに加えて、民放のニュース番組やワイドショーが出てきたことが大きい。」「少年事件は大人の事件より衝撃的だから、さらに大きな扱いになります。ある場所でAという少年事件が起こると、別のところでBという全く違う少年事件が起こったとき、またAの事件の話が蒸し返される。だから、少年事件が頻繁に起こっているような印象を受ける。」
これを「体感治安が悪化している」という言い方をするのだそうです。さらに、池上さんは言います。「少年犯罪は厳罰化の方向にあります。「体感治安の悪化」といった実態が伴わない理由で厳罰化に進むのは問題があると私は思っています。」
池上さんは言及していませんが、今やネットでも、過熱するマスメディアに煽られてか、加害少年に対する厳罰を求める声が圧倒的です。確かに、未成年とはいえ18歳ともなるとやっていいことと悪いことの分別はあってしかるべきですから、そういう心情も理解できます。ただ、被害者と縁もゆかりもない「第三者」が「死刑にしろ」とか「家族を晒し者にしろ」とか言うべき話ではないと思う。そこはそれこそ「分別」の問題でしょう。現代の法治国家で犯罪を裁くのは、あくまで裁判所です。私たちは中世に生きているわけではないのだから。
ところで、『謝るなら、いつでもおいで』という本ですが、タイトルの言葉は、被害者の兄が加害者の少女に向けて言った言葉、なのだそうです。その「気高さ」に感服します。読まなくちゃ。
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