自由律俳句の俳人、尾崎放哉(ほうさい)の代表作に、「咳(せき)をしても一人」というのがあります。仕事も家族も捨て、放浪生活を送っていた放哉は、結核に冒される。寺の片隅で静まりかえった夜、咳が出る。その後やってくる言いしれぬ寂寥感…といったような解釈だと思うのですが、放浪生活を送っていない私たちにも、そういう心境になることはよくあります。
昨夜、平田オリザの作・演出による芝居「隣にいても一人─青森編─」を見て、ふとこの句を思い出しました。
「平田オリザ流不条理劇」と銘打たれていますが、「不条理」なのは、「朝目覚めると何故か夫婦になっていた」という設定だけで、そこをクリアさえすればそれほどの奇妙さは感じられません。むしろ、全編がモロ津軽弁なので、超・日常的ですらある。
舞台には、畳が敷かれた4畳半の部屋に本棚と、中央にはちゃぶ台がひとつ。家の造りは、細長い材木を組み合わせただけのシンプルな設定で、上手は寝室、下手は玄関に通じる廊下を表す。登場人物は、「朝目覚めたら夫婦になっていた」昇平とすみえ、そして昇平の兄とその妻であるすみえの姉。つまり、義理の弟と妹同士が夫婦になっていたという設定です。しかも兄夫婦は離婚の危機にあるというややこしさ。
最後の場面を除くとこの4人が全員顔を合わせる場面はほとんどなく、夫婦になっていた二人、姉妹、弟「夫婦」と兄、兄夫婦と弟の三人といったいくつかの場面の組み合わせで舞台は淡々と進んでいきます。
それにしても、津軽弁が濃い。津軽に住んでもう相当年月が経って、自分でも津軽弁「的に」話している(たぶん)にもかかわらず、南部育ちの私にとっては、いまだに津軽弁は「よそもの」の言葉だなと、こういう舞台を見るとつくづく思います。日常的によく聞く言い回しが頻繁に出てきて、日常的にもちょっと「違和感」を感じているので、舞台の上で使われると、その違和感がいっそう強く感じられます。もちろん、好きな言い回しもあって、過去のしょうもない体験談を語る姉に向かって、妹が「どんだっきゃ~」と合いの手を入れるところなんかは、面白いなと思う。
このシリーズ、「青年団プロジェクト公演」として、全国4つの地域(三重、広島、青森、熊本)で、現地の役者を選んで、それぞれの方言で演じられるのだそうです。ま、方言による演劇というのは別に珍しいことではないし、高校演劇でも、自分たちがいつも話している語り口で演ずる作品が増えているような気がします。しかし、結局、方言による芝居というのは、その方言を理解できる地元の人にしか受け入れられないのでは…と思う。三重弁や熊本弁による同じ芝居を、私は特に見たいとは思わない。
それより、平田オリザ氏が狙うのは、地方にこの芝居を根付かせたいということのようです。そのために、彼が率いる青年団の役者やスタッフが青森に長期滞在して地元の演劇人と一緒に作り上げていくという手法をとっています。まさに「アーティスト・イン・レジデンス」。今回の青森編では、「渡辺源四郎商店」という劇団のメンバーがキャストの多くを占めています。彼らにとっては、学ぶところが多かったのかもしれないですね。よくわかりませんが、平田氏の著書にちょくちょく出てくる弘前劇場が今回は関わっていないのはなぜだろう?とふと思いました。
私が見たのは、青森編「Aチーム」による舞台でしたが、実は、同じ演出で「Bチーム」の舞台も時間を変えて上演されています。さらには同じ脚本で、「渡辺源四郎商店」による自主企画公演として「Cチーム」もある。Bチームには高校生二人も参加しているとのことで、こちらの舞台も見てみたいなと思いました。
さて、1時間ほどで、「いきなり」閉じられることになるこの芝居。唐突ではあるけれど、違和感はまったくない。そこから「先」は、観客側の問題なのです。そういう投げかけられ方、とてもいい。で、私が感じたのは、「咳をしてもひとり」…。
この芝居には、BGMはおろか、効果音が一切使われていません。語られるセリフのみでぐいぐい引っ張っていく「強さ」がありました。「日常」には、もちろん、いろんな「雑音」が存在します。テレビの音、外を走る車の音、換気扇のうなる音、カラスや犬の鳴き声。あえてそういう日常の音をカットすること自体で、「不条理」の世界を見せてくれているのかもしれませんね。
昨夜、平田オリザの作・演出による芝居「隣にいても一人─青森編─」を見て、ふとこの句を思い出しました。
「平田オリザ流不条理劇」と銘打たれていますが、「不条理」なのは、「朝目覚めると何故か夫婦になっていた」という設定だけで、そこをクリアさえすればそれほどの奇妙さは感じられません。むしろ、全編がモロ津軽弁なので、超・日常的ですらある。
舞台には、畳が敷かれた4畳半の部屋に本棚と、中央にはちゃぶ台がひとつ。家の造りは、細長い材木を組み合わせただけのシンプルな設定で、上手は寝室、下手は玄関に通じる廊下を表す。登場人物は、「朝目覚めたら夫婦になっていた」昇平とすみえ、そして昇平の兄とその妻であるすみえの姉。つまり、義理の弟と妹同士が夫婦になっていたという設定です。しかも兄夫婦は離婚の危機にあるというややこしさ。
最後の場面を除くとこの4人が全員顔を合わせる場面はほとんどなく、夫婦になっていた二人、姉妹、弟「夫婦」と兄、兄夫婦と弟の三人といったいくつかの場面の組み合わせで舞台は淡々と進んでいきます。
それにしても、津軽弁が濃い。津軽に住んでもう相当年月が経って、自分でも津軽弁「的に」話している(たぶん)にもかかわらず、南部育ちの私にとっては、いまだに津軽弁は「よそもの」の言葉だなと、こういう舞台を見るとつくづく思います。日常的によく聞く言い回しが頻繁に出てきて、日常的にもちょっと「違和感」を感じているので、舞台の上で使われると、その違和感がいっそう強く感じられます。もちろん、好きな言い回しもあって、過去のしょうもない体験談を語る姉に向かって、妹が「どんだっきゃ~」と合いの手を入れるところなんかは、面白いなと思う。
このシリーズ、「青年団プロジェクト公演」として、全国4つの地域(三重、広島、青森、熊本)で、現地の役者を選んで、それぞれの方言で演じられるのだそうです。ま、方言による演劇というのは別に珍しいことではないし、高校演劇でも、自分たちがいつも話している語り口で演ずる作品が増えているような気がします。しかし、結局、方言による芝居というのは、その方言を理解できる地元の人にしか受け入れられないのでは…と思う。三重弁や熊本弁による同じ芝居を、私は特に見たいとは思わない。
それより、平田オリザ氏が狙うのは、地方にこの芝居を根付かせたいということのようです。そのために、彼が率いる青年団の役者やスタッフが青森に長期滞在して地元の演劇人と一緒に作り上げていくという手法をとっています。まさに「アーティスト・イン・レジデンス」。今回の青森編では、「渡辺源四郎商店」という劇団のメンバーがキャストの多くを占めています。彼らにとっては、学ぶところが多かったのかもしれないですね。よくわかりませんが、平田氏の著書にちょくちょく出てくる弘前劇場が今回は関わっていないのはなぜだろう?とふと思いました。
私が見たのは、青森編「Aチーム」による舞台でしたが、実は、同じ演出で「Bチーム」の舞台も時間を変えて上演されています。さらには同じ脚本で、「渡辺源四郎商店」による自主企画公演として「Cチーム」もある。Bチームには高校生二人も参加しているとのことで、こちらの舞台も見てみたいなと思いました。
さて、1時間ほどで、「いきなり」閉じられることになるこの芝居。唐突ではあるけれど、違和感はまったくない。そこから「先」は、観客側の問題なのです。そういう投げかけられ方、とてもいい。で、私が感じたのは、「咳をしてもひとり」…。
この芝居には、BGMはおろか、効果音が一切使われていません。語られるセリフのみでぐいぐい引っ張っていく「強さ」がありました。「日常」には、もちろん、いろんな「雑音」が存在します。テレビの音、外を走る車の音、換気扇のうなる音、カラスや犬の鳴き声。あえてそういう日常の音をカットすること自体で、「不条理」の世界を見せてくれているのかもしれませんね。
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