古いカセットテープを整理していて、ふと見つけた「伊勢正三ベスト」。
伊勢正三。かぐや姫のメンバー。解散後、元・「猫」の大久保一久とフォークデュオ「風」を結成。あの名曲「22才の別れ」は、彼がかぐや姫時代に作った曲ですが、1975年、「風」のデビューシングルとしてリリースされ、チャート1位を獲得しています。「なごり雪」も同じく彼のかぐや姫時代の曲で、イルカが同じ年にカバーして大ヒット。
「風」のアルバムでは、「あの唄はもう唄わないのですか」、「北国列車」、「君と歩いた青春」、「暦の上では」など、忘れがたい歌がたくさんありますが、今回、「ささやかなこの人生」という曲を何年かぶりに聴いて、なぜか「じゃわめいて」しまいました…。
花びらが 散ったあとの
桜がとても 冷たくされるように
誰にも 心の片隅に
見せたくはないものが あるよね
だけど 人を愛したら
誰でも 心のとびらを閉め忘れては
傷つき そして傷つけて
ひきかえすことの出来ない人生に 気がつく
やさしかった恋人達よ
ふり返るのは やめよう
時の流れを 背中で感じて
夕焼けに 涙すればいい
この歌を聴いていたのは、高校生か大学生の頃か。その頃はこんなに「じゃわめく」ことはなかった。じゃわめいて、自分で驚いて、何度もテープを巻き戻して聴きました(CDと違って、カセットテープって「巻き戻す」時間がかかる。でもその待ってる「間」もいいもんだな…と思う)。何度聴いても、なぜか同じようにじーんとくる。なぜなのかはよくわからないけど、この感覚、悪くないと思う。
歌詞を書き出してみると、アップテンポの曲なのに、歌詞自体は極めて湿っぽいことに改めて気づく。「じゃわめいた」のは、そんなミスマッチのせいかもしれません…。
誰かを愛したその日には
たとえばちっぽけな絵葉書にも 心が動き
愛をなくしたその日には
街角の唄にも ふと足を止めたりする
風よ 季節の訪れを
告げたら 淋しい人の心に吹け
そして めぐる季節よ
その愛を拾って 終わりのない物語をつくれ
やさしかった恋人達よ
ささやかなこの人生を
喜びとか 悲しみとかの言葉で
決めて欲しくはない
自分の人生が「ささやか」だなんて若い頃は思っていなかった。けど、年を取ってくると、やっぱり「ささやか」でしかないことにだんだん気が付いていくんです。いろんなことをあきらめて、いろんなものをどこかに置いてきて、「終わりのない物語」なんで決してないことがわかってくる。「ちっぽけな絵葉書」に心が動いたり、「街角の唄」に足を止めたりすることも少なくなってくる。
でも、この歌詞が、今、心にしみるのはなぜだろう? 「ふり返るのはやめよう」と思ったり(あるいは言ったり)、「心の片隅に 見せたくはないもの」があったり、そういうことは確かに過去にたくさんあったことだけど、もしかしたら今も同じかもしれないと思う。「時の流れを背中で感じて」いながらも、いまだに「夕焼けに涙」したいと思っている自分もいる。実際にはできないけれど。
特に思い出がある歌ではありません。この曲を聴くとある光景がよみがえってくる…というわけでもない。でも、20数年を経て、この歌に感動しているというところをみると、この歌は、自分にとっては、「今」聴くために存在していた歌なのでしょうね。
そういう歌って、何度も聴くのが、なんだかもったいなかったりもするのです。
伊勢正三。かぐや姫のメンバー。解散後、元・「猫」の大久保一久とフォークデュオ「風」を結成。あの名曲「22才の別れ」は、彼がかぐや姫時代に作った曲ですが、1975年、「風」のデビューシングルとしてリリースされ、チャート1位を獲得しています。「なごり雪」も同じく彼のかぐや姫時代の曲で、イルカが同じ年にカバーして大ヒット。
「風」のアルバムでは、「あの唄はもう唄わないのですか」、「北国列車」、「君と歩いた青春」、「暦の上では」など、忘れがたい歌がたくさんありますが、今回、「ささやかなこの人生」という曲を何年かぶりに聴いて、なぜか「じゃわめいて」しまいました…。
花びらが 散ったあとの
桜がとても 冷たくされるように
誰にも 心の片隅に
見せたくはないものが あるよね
だけど 人を愛したら
誰でも 心のとびらを閉め忘れては
傷つき そして傷つけて
ひきかえすことの出来ない人生に 気がつく
やさしかった恋人達よ
ふり返るのは やめよう
時の流れを 背中で感じて
夕焼けに 涙すればいい
この歌を聴いていたのは、高校生か大学生の頃か。その頃はこんなに「じゃわめく」ことはなかった。じゃわめいて、自分で驚いて、何度もテープを巻き戻して聴きました(CDと違って、カセットテープって「巻き戻す」時間がかかる。でもその待ってる「間」もいいもんだな…と思う)。何度聴いても、なぜか同じようにじーんとくる。なぜなのかはよくわからないけど、この感覚、悪くないと思う。
歌詞を書き出してみると、アップテンポの曲なのに、歌詞自体は極めて湿っぽいことに改めて気づく。「じゃわめいた」のは、そんなミスマッチのせいかもしれません…。
誰かを愛したその日には
たとえばちっぽけな絵葉書にも 心が動き
愛をなくしたその日には
街角の唄にも ふと足を止めたりする
風よ 季節の訪れを
告げたら 淋しい人の心に吹け
そして めぐる季節よ
その愛を拾って 終わりのない物語をつくれ
やさしかった恋人達よ
ささやかなこの人生を
喜びとか 悲しみとかの言葉で
決めて欲しくはない
自分の人生が「ささやか」だなんて若い頃は思っていなかった。けど、年を取ってくると、やっぱり「ささやか」でしかないことにだんだん気が付いていくんです。いろんなことをあきらめて、いろんなものをどこかに置いてきて、「終わりのない物語」なんで決してないことがわかってくる。「ちっぽけな絵葉書」に心が動いたり、「街角の唄」に足を止めたりすることも少なくなってくる。
でも、この歌詞が、今、心にしみるのはなぜだろう? 「ふり返るのはやめよう」と思ったり(あるいは言ったり)、「心の片隅に 見せたくはないもの」があったり、そういうことは確かに過去にたくさんあったことだけど、もしかしたら今も同じかもしれないと思う。「時の流れを背中で感じて」いながらも、いまだに「夕焼けに涙」したいと思っている自分もいる。実際にはできないけれど。
特に思い出がある歌ではありません。この曲を聴くとある光景がよみがえってくる…というわけでもない。でも、20数年を経て、この歌に感動しているというところをみると、この歌は、自分にとっては、「今」聴くために存在していた歌なのでしょうね。
そういう歌って、何度も聴くのが、なんだかもったいなかったりもするのです。
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