カクレマショウ

やっぴBLOG

リベラル・アーツとエリート教育

2007-02-10 | ■教育
いわゆる「エリート教育」をもっと進めるべきだ、という声はあちこちで聞かれます。「エリート」という人材を体系的に創出する教育の仕組みこそが日本を再生させるのだ、と。だから学校にも「格差」があって当然だし、優秀な教員とそうでない教員もきちんと区別するべきだ…。

それはそれで一つの方策かもしれません。いつの時代でも、「エリート」が国や社会を引っ張ってきたのは確かですから。しかし、これまでと同じような考え方のもとでは、いくら仕組みを変えたとしても真の「エリート」が育つとは到底思えません。

これまでと同じような、というのは、ある特定の分野だけに偏った知識や学力に秀でた人間を育てる教育の在り方です。今の教育は、「試験に出ること」だけをいかに効率的に学ぶのかということに偏っています。医師でも法曹界でもいいのですが、そこに至るには、幾重もの「受験」という壁を突破する必要があります。優秀な子どもたちを集めて優秀な医者や法律家を育てるのに、これまでと同じような「受験勉強」だけをさせるのでは、医者や法律家としての知識や技術は優秀な人材が増えても、真のエリートにはとても及ばない。

真のエリートとは何か。第一の条件は「人間性」でしょう。公共のために仕事をしているという謙虚さ、命に関わる仕事をしているという真剣さ、人の喜びを自分の喜びとして感じることができる感情の豊かさ、そういったことは、「受験勉強」だけで培うことはできません。

今、医学部の学生たちの中に、「なんで医者になりたいのかわからない」というとんでもない学生が増えていると聞きます。また、負担が重い産科、小児科、脳神経外科などは避けられ、生死に関わることの少ない眼科などの志望者が増えているのだそうです(日経新聞、2007年2月8日付け)。青森県では、教育委員会が医学部などの難関大学への入学者を増やそうという事業を実施していますが、これも一種のエリート養成教育でしょう。集まった高校生にはぜひ、「どんな医師になりたいのか」を聞いておきたいものです。

そんな「歪んだエリート教育」の解決策として、日経新聞の記事では、「リベラル・アーツ」が一つの答えとして挙げられています。古代ギリシアにルーツを持つ「教養科目」。映画「アレキサンダー」で少年時代のアレキサンダーが師として招かれたアリストテレスから学んでいたのも、基本的にはリベラル・アーツです。なぜ「リベラル」"Liberal"かというと、「自由人の学問」だからです。古代ギリシアは、奴隷社会。奴隷がいろんな仕事をしてくれるからこそ、「自由人」(=非奴隷)は働きもせず、哲学や天文学、幾何学を学び、議論に明け暮れ、政治に参加し、演劇やら文学を享受することができたのです。自由人が自由人たるのは、リベラル・アーツを身に付けていたがため、とも言えるでしょう。

現在の大学のルーツは中世ヨーロッパの大学(ラテン語でuniversitas=ウニベルシタス)にありあります。もともと教会や修道院の付属の研究機関として設立され、12世紀から13世紀にかけて教授と学生の自治組織という形をとりました。それはいわば一種の「ギルド」(組合)でした。
中世の大学では、古代以来のリベラル・アーツが7つの科目からなる「自由七科」として公式科目とされました。

・下級三学 = 文法、修辞学、弁証法(論理学)
・上級四科 = 算術、幾何、天文、音楽

自由七科を学んだ学生は、希望に応じて、神学、医学、法学、哲学といった各専門科目へと進んでいきます。医学ならサレルノ大学(イタリア)、神学ならパリ大学、オクスフォード大学、プラハ大学、法学ならボローニャ大学(イタリア)といったように、それぞれに特徴ある大学がありました。なお、これらの科目の中で最上位に位置づけられていたのはもちろん神学です。キリスト教の教理、信仰、キリスト教的倫理観を学ぶ学問です。

話がちょっとそれましたが、こういった歴史を持つ「リベラル・アーツ」をそのまま今の日本でも、というわけにもいかないでしょう。ただ、いろんな体験活動を含めて、「社会人としての幅広い教養」を大学で身につけることは意味のあることです。そうした教養の上に、エリートに必要な「豊かな人間性」も養われていくのではないでしょうか。

少なくとも、何のために医者になりたいのかよくわからないまま医者になった医者とか、古典を読んだことのない弁護士とか、そんな「エリート」は見たくないですね。


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