大学時代の「清高荘」の隣人斉藤くんが言っていた。朝起きた時に聴きたい音楽と、夜一人で酒を飲みながら聴きたい音楽が同じなのはおかしい、と。
なるほど、と思った。
生活の中で、音楽が今よりずっと身近にあった頃の話だ。
山田太一のテレビドラマ「早春スケッチブック」(1983年)の中で、山崎努がこんなセリフを言うシーンがあった。
「映画を見たいと思う。我慢する。どうしても見たいと思う。それでも我慢する。そうやって我慢して我慢して見た映画は、見る力が違う」─。
当時、音楽も同じだと思った。聴きたい音楽を我慢して我慢して聴くと、聴く力が違う。きっとそうだと思った。音楽を聴くために聴く、ということがとても大事なことだったのに、音楽がBGMになってしまったのはいつからだろう。
気持ちが良いからというだけで何気なく聴く。それは「聴く」でさえなく、「聞こえる」にすぎない。
目覚めの音楽や気持ちに合わせた音楽選びにこだわっていたこと、買ったばかりの「ウォークマン2」とともに山陰の夕暮れの漁港の風景を眺めていたこと、小笠原に持って行くためにオリジナルテープを何本も作ったこと。あの頃、生活の風景と音楽はいつも重なっていた。
「早春スケッチブック」>>Amazon.co.jp
なるほど、と思った。
生活の中で、音楽が今よりずっと身近にあった頃の話だ。
山田太一のテレビドラマ「早春スケッチブック」(1983年)の中で、山崎努がこんなセリフを言うシーンがあった。
「映画を見たいと思う。我慢する。どうしても見たいと思う。それでも我慢する。そうやって我慢して我慢して見た映画は、見る力が違う」─。
当時、音楽も同じだと思った。聴きたい音楽を我慢して我慢して聴くと、聴く力が違う。きっとそうだと思った。音楽を聴くために聴く、ということがとても大事なことだったのに、音楽がBGMになってしまったのはいつからだろう。
気持ちが良いからというだけで何気なく聴く。それは「聴く」でさえなく、「聞こえる」にすぎない。
目覚めの音楽や気持ちに合わせた音楽選びにこだわっていたこと、買ったばかりの「ウォークマン2」とともに山陰の夕暮れの漁港の風景を眺めていたこと、小笠原に持って行くためにオリジナルテープを何本も作ったこと。あの頃、生活の風景と音楽はいつも重なっていた。
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僕は昔より今の方が身近だと思います。
書かれているように、聴こえるに近いものの
ようにも思います。
見る力、聴く力。
本当に渇いた状態に沁みこんで来る曲は
一生のものでしょうね。
満ち足りているときにも、
聴き込んだ音楽は体の一部になって一生
残りますね。
コメントありがとうございました。
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