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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

FOURPLAY(DVD-A)

2005年09月15日 23時46分18秒 | JAZZ-Fusion
 フォープレイは、ご存知の通りボブ・ジェームス、リー・リトナー、ネーザン・イースト、ハービー・メイソンを擁したフュージョン界のスーパー・バンドだ。1991年のデビュウ以来、途中、リトナーがラリー・カールトンにスウィッチしたものの、もう10年プレイしているワケだ。この手のバンドとしてはかなり息の長い部類になるのではないだろうか。

 さて、このアルバムは彼らをデビュウ作のDVD-A化したものである。オリジナルの2チャンネルも入っているが、注目なのは5+1チャンネル・ヴァージョン。豊富な残響を取り入れた広大な音場の中、左右に振られた各種パーカス類が両端に位置して、その間を各楽器がピンポイントのように配列されたオリジナルとはかなり趣きの異なった仕上がりとなっているのだ。もともとスカスカな音(とはいえその少ない音がどれももの凄い存在感があったワケだけど)が特徴だったフォープレイのサウンドが、このヴァージョンではますます拡散し、音が軽くなったような印象になっている。CDが典型的なハイファイ・フュージョン・サウンドだったとすると、こっちはスーバー・クリアなアンビエント・サウンドににじり寄ったようなサウンドといえるかもしれない。

 あと、今回のリミックスで変わったのは、その驚異的なSN比の向上で、これがなかったら、本作のアンビエント・サウンド的なリミックスもおそらくは絵に描いた餅になっていたと思う。そのくらい音楽の狭間における静寂が意識できる音なのだ。もちろん、DVD-Aの器を大きく物を言っていることに違いない。アルバム冒頭、アコピとシンセのユニゾンに、かすかに絡むパーカスの微妙な色合いなど、まさに耳の悦楽である。(02/12/21)
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マーラー交響曲第4番/クーベリック&バイエルン放送響 他

2005年09月14日 21時35分48秒 | マーラー+新ウィーン
 変わってこちらはクーベリックとバイエルン放送響による4番、以前に書いたとおり私がこの曲に慣れ親しんだ演奏がこれで、今夜、おそらく10数年振りに聴いてみましたが、やはり実にしっくりきます。ほとんどなんの違和感もないといってもいいくらいオーソドックスに感じました。これはきっと前述のとおり、これでこの曲を知ったということが大きいんでしょうね。

 演奏としては、基本的に初期型マーラーの雰囲気でもって押し切ったある意味でバースタインと同傾向のものですが、例えば第1楽章の再現部の直前に出てくる第5番の第1楽章のムードを先取りしたようなところなど、昨夜聴いたカラヤンだとそのあたりが非常によくわかるんですけど、クーベリックだとほとんど目立たちませんし、第3楽章は第5番の「アダージェット」の線で耽美的に演奏しているカラヤンに比べ、クーベリックは早めのテンポで実にすっきりと一気に演奏しているという感じです。また、彼の変奏はマーラーの持つボヘミア的な旋律とか、ちょっとローカルな雰囲気をかなり色濃く出しているのは全集を通じての特徴だと思いますが、この4番は特にされが強い感じもします。ちょっと大げさに書くと、なんかドボルザークの8番あたりでも聴いているような瞬間も多々あるという感じなんですよね。

 というワケで、久しぶりに聴いて、「あぁ、これだ、これだ」とか思ってしまいました。ただ、昔聴いた時は充分な音質に感じたものですが、今聴くとちょいとレンジが低い感じがするのは、まぁ、いたしかたないところかもしれません。解釈については時の流れは感じませんでしたが、録音でちょいとばかり損しているというところでしょうか。もっと古いバーンスタンのはかなり私好みのオンマイクな解像度優先な録音のおかげて、あまりそういう意味で不足感はなかったんですけどね....。
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マーラー交響曲第4番/カラヤン&BPO 他

2005年09月13日 23時13分19秒 | マーラー+新ウィーン
 カラヤンが残したマーラーは第4,5,6,9番と「大地の歌」のみでした。全集にはするつもりはハナからなかったように思いますが、少なくとも2番と7番はカラヤン向きな素材だったと思うので残念です。他にも、例の新ウィーン楽派管弦楽集の素晴らしさからして、シェーンベルクの「グレの歌」とかベルクの「ヴァイオリン協奏曲」とか、このあたりの作品群をもう少し録音してもらいたかったところですね。もっとも、最晩年のカラヤンはもはやマーラー周辺の作品などほとんど眼中はなかったように思いますが....。

 さて、このアルバムはカラヤンが74年に録音したマーラーの第4番です。このところ第4番のいろいろの演奏を楽しんでいるところですが、結論からいって良くも悪しくもカラヤンの流儀に塗り固められた演奏といえます。この作品の持つ子供がはね回るような独特の軽さ、躍動感のようなものをほとんど顧みることなく、ひたすら瞬間瞬間の静的な美しさみたいなものを追求した結果、まるで巨体な静止画を眺めているような気になる演奏といったところでしょうか。こういう演奏なので、第3楽章については壮絶なまで美しい陶酔的な演奏で聴いていてうっとりすることこの上ないのですが、他の動的な楽章ではかなり違和感を感じました。特に第一楽章の冒頭のテンポの遅さ、極端な弱音などは、厚化粧した子供の着飾った姿みたいな、一種異様なデフォルメ感のようなものを感じました。
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FFXI <ナL31,戦 L30,暗L25, 白 L25,黒 L25, シ L17, モL8 >

2005年09月12日 23時31分30秒 | GAME
 カザムの連戦ですっかり疲れてしまい、弓のスキル上げも兼ねてサンドでちんたらとシーフのレベル上げ。シーフというのは、なにが特徴かのかさっぱり分からないまま(笑)、ほとんど劣化した戦士のノリで釣りは弓、バトルは片手剣&短剣+弓というパターンで進んだ。ジョブ・アビリティをみると「盗む」なんてのがみえるのだが、実行してもたまにしか盗めないので、やっぱりよく分からないジョブだ。一日ひとつかふたつくらい上げてたら、いつのまにか12を超えてしまい、もう終わりにしようかと思ったのだが、欲が出て週末からバルクルム入った。そこでいつも通りいくつかのパーティーに参加して15になったところで、「不意打ち」というアビリティを覚えた。これをかけて相手の真後ろから攻撃すると必中のクリティカル・ヒットになるというもので、うまくいくと大打撃を与えることができるので、やっとおもしろくなってきた。

 そういえば、この「不意打ち」を覚えたてで入った邦人パーティーは、なかなか厳しい人が揃っていた。「シーフ初心者です、よろしく」と挨拶すると「サポ・ジョブ持ちは中級です」と返ってきたり、「あなたの不意打ちは要練習ですね」とか(あの今覚えたばかりでまさに練習中なのですが....)、釣りをしている人に「あれは視覚だから上手に釣ればリンクしませんよ」とか、まぁ、うるさいうるさい(笑)。編成を見たところどうもランク9だか10だかのベテランがいろいろアドバイスしているのだが、当方、初心者なのに加えゲーム下手なので、ありがたく当初アドバイスを受けてはいたが、最後に至って「装備が貧弱」だの、「金儲けは何でやっているだの」とコーチングされるのはさすが辟易した。親切のつもりなのだろうが、あまり口うるさくいうものだから、しまいには「アンタ何様?」とばかりに回りが引いてしまっていた。
 いや、ほんとはいいたかったんだですけどね。「装備が貧弱って、あ~た、こんな一日で通り過ぎてしまうレベルで最高のモノ装備したところであっという間に陳腐化しちゃうでしょーが。そもそもあ~たが、かたかだランク3くらいの時にそんなHQ品ばっか身につけてました?。一応、こちとら最高とまではいかなくなったって、レベル相応のものは装備しているつもりですが....」とか「あ~たが低ランクの時、そんな資金潤沢にもってましたか?。あ~ただって、ひとつのジョブをカンストしたあたりでようやく資金が潤沢になってきたんじゃないですか」って(笑)。

 それにしてもこのゲームで、パーティー組む時、たいていは親切で楽しい人ばかりなのだが、たまにこういう人に遭遇するといささかめげる。低レベルのプレイヤーに「これはFFの常識です」みたいに高度な技を要求してきたり、ささないなミスに異常にナーバスだったり、チェーンによるハイスコアにやたらと拘るあまり、やれジュースの飲めだ食い物はあれにしろだとても買えないようなアイテムの使用を要求したりする。あと、更には異様なほど外人プレイヤーに敵対心をもってみたりと、どうやら2ちゃんねるやしたらばあたりで仕込んできた基準をスタンダードにしているらしく、そのあたりをなんの疑いもなく押しつけてくるのは少々うっとおしい....というかもはやイタい。今回は自分がターゲットだったが、これまでもサボ・ジョブもないプレイヤーを相手に、この種の説教をたれるベテランを何度かみてきた。そのノリは2ちゃんねるの「ネットゲーム実況」のノリそのもの(笑)。このような場合、私もふくめ低レベルのプレイヤーは「そんな高レベルの常識なんぞ持ち出すな」などとは、ゆめゆめいえず、ただただ恐縮して頭をたれ、畏縮するばかりだ(笑)。きっと相手は若い人なのだろうが、まさかゲーム内に匿名掲示板のノリをそのまま持ち出してくるような人がいるとは、少々驚きである。

 などと愚痴ってしまったが、考えてみれはこちらだって、同じパーティーにいる戦士さんが戦闘中にこちらが危ない時、挑発かけてくれなかったりすれば、生意気にも腹がたったりもする。これと同じようなものだろう、気を取り直して明日からももう数日間だけシーフ道を歩もうwww。
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リスト「巡礼の年」全集/ベルマン

2005年09月11日 14時06分51秒 | クラシック(一般)
 リストのピアノ曲というのはほとんど聴いたことがない。いや、聴いたことはあるし、CDも何枚かはもっているのだが、ピアノ・ソナタはともかくとして、超絶技巧練習曲だとか大練習曲集なんてところは、その晦渋なゲバゲバしさにいささか辟易してついていけないといったのが本音だったと思う。このCDは前日のそれと同様に中古盤で購入してきたものだが、これはけっこうすんなり聴けそう。有名な話だけど「巡礼の年」というピアノ曲は、リストが訪れた特定の国や場所、ある種の自然描写みたいなものを、割と自由に書いたピアノによる交響詩みたいなものなので、技巧というよりプログラム優先というかイメージ先行の曲だし、それぞれがあまり長くないのもいいのだろう。

 とりあえず今は「第1年‐スイス」を聴いているところなんだけど、曲としてはやっぱ有名な「オーベルマンの谷」が良かった。ほの暗いシューマン風な叙情が感じれらるテーマを繰り返し登場させに、中間部ではリスト的な豪快なピアノに発展するというとっても聴き応えある構成。ちなみに「ウィリアム・テルの聖堂」も似たようなパターン。リスト風に華麗なる技巧が満載なのは「嵐」、ショパン風な愛らしい小品が「牧歌」。瞑想的な「ノスタルジア」はある意味リストらしい曲で、こういう趣は晩年になると更に色濃くなってくるらしい。
 というワケで、けっこう楽しく聴けた。この調子なら第2年や第3年も楽しめそうだ。前述のとおりこの曲集の場合、タイトルが非常にイメージを喚起するようなものが多いので、このあたりをキーワードにリスナーが勝手に欧州的なイメージを膨らませるなんて聴き方も可能なのである。 


・巡礼の年:第1年「スイス」
 01.ウィリアム・テルの聖堂
 02.ワレンシュタットの湖で
 03.田園曲
 04.泉のほとりで
 05.嵐
 06.オーベルマンの谷
 07.牧歌
 08.ノスタルジア
 09.ジュネーヴの鐘

・巡礼の年:第2年「イタリア」
 01.婚礼
 02.物思いに沈む人
 03.サルヴァトール・ローザのカンツォネッタ
 04.ペトラルカのソネット第47番
 05.ペトラルカのソネット第104番
 06.ペトラルカのソネット第123番
 07.ダンテを読んで‐ソナタ風幻想曲

・巡礼の年:第3年
 01.アンジェラス!
 02.エステ荘の糸杉に‐哀歌1
 03.エステ荘の糸杉に‐哀歌2
 04.エステ荘の噴水
 05.もの皆涙あり
 06.葬送行進曲
 07.心を高めよ
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マーラー交響曲第4番/ショルティ&CSO 他

2005年09月10日 23時25分26秒 | マーラー+新ウィーン
 これも昨日ま職場の送別会までの空き時間にショップで購入した中古盤。多分、これでショルティのマーラーは全部揃ったんだじゃないのかな。もっとも一番と二番はロンドン・シンフォニーを振った旧録だけれど....。旧録といえば、この4番の旧録は珍しくショルティがマムステルダム・コンセルトヘボウを振ったもので彼のマーラーでは一番古いものだったのではないか。ともあれ、こちらは83年の再録、確かこれがきっかけで1,2,3,9番がシカゴで再録されて、「ショルティとシカゴ響によるマーラー全集」が完結したというわけ。

 さてこの演奏だが、とにかく録音バランスが極上。80年代デッカの典型的な優秀録音といった感じで、精緻なコンピュータ・グラフィックを眺めるかのような瀟洒な音だけを聴いても楽しめくらいだ。演奏はきりりと締まった弦のアンサンブルに、ブリリアントなブラス群の咆哮、鋭角的なリズムといかにもショルティらしいもので、きらいな人もいるようだけど、マーラーの音楽を解釈するのに、未だに文学的解釈を不可分するのはいかにも古いのではないか。そういう意味では現在聴いても今風というかモダンな演奏だとも思う。また、ショルティという、とかく体育会系のマッチョみたいにいう人もいるけれど、すみずみまでフォーカスしたそのコンピュータ・グラフィックのような演奏から浮かび上がる、そこはかとない詩情は体育会系などという言葉とは無縁なものだと思う。
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ジェフ・ベック/ライブ・ワイアー

2005年09月09日 23時51分23秒 | ROCK-POP
 今更何をかいわんやの大名盤でアナログ時代はすり切れるほど聴いたものですが、本日、職場の送別会だったもんではじまるまでの空き時間にショップで眺めていたら、「そういゃぁ、CD持ってなかったよな」とか思い出して中古盤で購入してまいりました。多分、これを聴くのも確実に10年ぶりくらいだと思いますが、やっぱ「凄い」としかいいようがないパフォーマンスですね。とにかくここでのベックのフレーズはロック・ギターの完璧なお手本であると同時に完璧にワン・アンド・オンリーな世界でもあるという、二律背反をいとも簡単に実現してます。おまけに相方がロック・ギタリスト相手だと何故か異様に燃えるヤン・ハマーというどう猛きわまりないフュージョン・キーボード奏者ということもあって、スリリングなインタープレイも横溢というワケなんですね。

 で、このアルバム、ポップな旧A面も悪くないですが、個人的には旧B面の3曲にに尽きますね。まずは「闇」は、ハマーのスペイシーなシンセが全編を覆いつくすほぼ完璧にヤン・ハマーが主導した音楽で、基本的には「ビッチズ・ブリュウ」あたりを思わせたりするフュージョン路線のフォーマットにベックがのっかったってな感じ。「スキャッター・プレイン」はマハビシュヌ風なバイオリンとギターのユニゾンをテーマを繰りつつ、ベック~ベアード~ハマーの順でのソロがフィーチャーされスリリングに盛り上がる作品ですが、やはりベックはバンドの1パートに徹しているという感じで、ソロとしてはハマーとベアードに押され気味。ラストの「蒼き風」はテーマこそハマーとベックのユニゾンでフュージョン風に進むものの、ソロ・パートではお待ちかね「トレイン・ケプト・ローリン」が引用をベックがぶちました瞬間、主導権が完璧に逆転、一気にいいところさらっていくという感じです(笑)。いゃぁ、久々に聴いたんだけど、やっぱここは凄い、なんていうかフュージョンから一気にロックに反転するマジックのような瞬間です。やはりこの時のベックは凄かった。
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FLEETWOOD MAC / KILN HOUSE

2005年09月08日 23時07分57秒 | ROCK-POP
ピーター・グリーン脱退後、残ったジェレミー・スペンサーとダニー・カーワンを中心として作られたアルバム。ピーター・グリーンは音楽面はもちろんだが、精神面でもバンドの支柱だったハズで、収録当時はほとんど解散状態だったらしい。それでも解散しなかったのは契約とかそういう問題だったのだろう。音楽的にはそれまで隠し味という脇役として音楽面を彩っていたふたりはほとんど音楽的指向が対照的だったらしく、前者の楽天的なポティミズム一杯の50年代風味とダニー・カーワンのほの暗い叙情が横溢した曇り空のような楽曲がくっきり分かれてしまっているのは、リーダー不在バンド状況をそのまま音楽化しているようで、興味深いものがある。

 アルバムはいきなりジェレミーの「This Is the Rock」がロカビリー調で、グリーンがいなくなったからには、ジェレミーがスライド・ギターで渋くアーシーに決めるのではという期待が粉々に打ち砕かれた大昔の衝撃が懐かしく甦る(笑)。また、「Earl Gray」に代表されるカーワンの「枯木」路線の曲は、当時はぱっとしない楽曲に思えたものだが、今聴くととても味わい深い。いずれにしても、両者の楽曲はけっしてフリードウッド・マックというバンド・ミュージックに昇華することなく混在しているせいで、前作に負けずおとらず、とっ散らかったアルバムになっている。
 ちなみにクリスティン・マクビーはこのアルバムあたりではほぼレギュラー・メンバー化しているようでキーボードやバッキング・ボーカルでアルバム随所に顔を出しているのは、次の起死回生の作品といえる「フィーチャー・ゲームス」への胎動を感じさせる部分だ。
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FLEETWOOD MAC / Then Play On

2005年09月07日 21時44分57秒 | ROCK-POP
 フリードウッド・マックの1970年の作品。昨日のレビュウでもちらっと書いたが所属レーベルをリブリーズに移しての第一作で、3人ギタリスト時代の最後の作品でもある。英国きっての通向きブルース・ロック・バンドとして知る人ぞ知る的存在だったマックだったが、ここで展開されている音楽はそれまでのブルース・ロックではなくなっている点が特徴だ。例えば彼らの代表作と目される「オー・ウェル」のパート2では、なにやら虚脱した雰囲気の中、「コンドルは飛んでいく」みたいなフォークロア風なリコーダーが絡むうそ寒いムードで進むし、2曲目の「クロージング・マイ・アイズ」はさながら「アルバトロス」のヴォーカル付きヴァージョンみたいな仕上がりなのである。このあたりのムードはダニー・カーワンが主導したアコースティックな趣の何曲が更に倍加しているという印象なのである。

 いったい、この変化はどうしてなのだろうか。「アルバトロス」がヒットしたからこうなったのか、ピーター・グリーンのドラッグの影響なのか知らないが、実に不可解だし、その一方でジャム風な旧B面のハード・ドライビングなインストや従来路線を踏襲している曲もなくはないワケで、未だに聴く度に「このとっちらかりぶりははなんなのだなワケ?」とか、つい思ってしまう。どうしてこうなってしまったのか、誰か詳しい方教えてください。
 いや、だからといってこのアルバム、キライとかいうんではなくて、70年代初頭の「アフター・ウッドストック」的音楽をちょい先取りしたかのようなムードはなかなか魅力ではあるし、個人的には好きな作品ではあるんでが、いかんせんなんか座りが悪い作品という気がするワケです。ちなみにジェレミー・スペンサーをフィーチャーした唯一曲の仕上がりは、ブルー・ロックというより、レッド・ツェッペリンの3枚目みたいな感じでこれまたおもしろかったりするんだな。これまたこの作品の混乱ぶりに拍車をかけていたりするわけでして....(笑)。
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The Best of Peter Green`s FLEETWOOD MAC

2005年09月06日 22時31分06秒 | ROCK-POP
 60年代後半のロック・シーンでひとつのトレンドともなったブルース・ロック、その中心となったのはもちろんギタリストだが、通向きなところだと、アメリカのマイク・ブルームフィールド、イギリスだとピーター・グリーンあたりにとどめを指すのではないだろうか。このアルバムはピーター・グリーンが在籍していた最初のフリードウッド・マックのベスト盤である。レーベルはCBSだから、当然「英吉利の薔薇」と「聖なる鳥」を中心にした選曲だが、レーベルをリブリーズに移籍後、ブルース・ロックからいささか離れた音楽を展開した「ゼン・プレイ・オン」からも収録されているので、文字通りピーター・グリーンのフリードウッド・マックをこれ一枚で俯瞰することができる。

 アルバムは、当時けっこうなヒットしたらしいサイケな浮遊感一杯の楽園風なインスト・ナンバー「アルバトロス」からスタート。当時の彼らとしてはかなり異色というか、ほとんど冗談みたいなナンバーだったハズだが、このけだるいアシッド感は妙に人の琴線にふれるらしく、このベスト盤ではアルバムのおしまいにはアシッド・テクノ風にリミックスされた別ヴァージョンが収録されている。以降、サンタナのシングル・ヒットで有名になった「ブラック・マジック・ウーマン」、歴代フリードウッド・マック演奏されることになる「オー・ウェル」、ストリングスをフィーチャーしたポップなブルース・ロック「ニード・ユア・ラブ・ソー・バッド」などの有名どころをフィーチャーしつつ、いかにもこの時期の彼らしいブルース・ロック・ナンバーの数々を堪能させてくれる。それにしても、久しぶりに聴くビーター・グリーンのギターとヴォーカル、やっぱりいいねぇ。ブルージーなフレーズをベタベタさせずシャープかつクリアなトーンで弾くのはイギリスのギタリストの伝統だけれど、この人のギターはそんな中でも一番アーシーで黒いんじゃないんだろうか。これ以上濃くなってしまうぎりぎりのところで、ブルースでなくブルース・ロックしているあたり絶妙。

 ついでながら、スライド・ギターの名手、ジェレミー・スペンサーやマック第3のギタリスト、ダニー・カーワン、クリスティン・マクビーをフィーチャーした作品もも収められております。
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FFXI <ナL31,戦 L30,暗L25, 白 L25,黒 L25, シL9, モL8 >

2005年09月05日 23時59分10秒 | GAME
 遅れた夏休みということで昨夜遅くと本日から午後からFFXI三昧とあいなった。ジョブはナイトであと千ポイントちょっとだったので、とりあえずココロカでレベル26まで上げ、ジュノに戻って参加希望を出す。都合、この二日で3つのパーティーに拾ってもらったが、まずはユタンガ大森林の入り口付近で邦人部隊でマンドラゴラとゴブリン相手に割と地道に稼ぎひとつ上げ、夜半に参加したやたらよくしゃべる関西系なギャグ満載の邦人パーティーでは、ユタンガの奥の更に奥のヨアトル大森林の奥の寺院近くでゴブリンとの戦闘、これでふたつあげる。翌日の混成部隊ではやはりユタンガとヨアトルと境界近くでマンドラゴラを相手に戦いふたつ上げ、昨夜から今夜にかけて計6つ、気がついてみたらレベル31になっていた。個人的はだけど、驚異的な早さで、今後もうこういうことは、もうないんじゃないかと思う(笑)。ナイトとしては盾専門にやらせてもらえたの2回で、関西系パーティーでは忍者がふたりいたおかげで、単なるアタッカー扱いだった。「挑発なしでお願いします」っていわれたのはちょいと情けなかったけれど、他のパーティーでは連携からハズれていたので、ここで連携をいろいろ実践できたのは良かったかな、つまりこれはこれでOK。

 しかし、ユタンガにしてもヨアトルにしても、地理がさっぱりわからない。なにしろランクの高い人のついていくだけなので、ほとんどマップみないから、なんかあれこれチョコボにのっていくうちに目的に着いて、終わったらそこで解散みたいな感じなので帰りは苦労する。昨夜は帰りに洞窟でスニークが切れて死んでしまいレベルがひとつ下がってしまったので、最後のパーティーては呪譜デジョンを使って帰還したが、これじゃ地理など覚えられるわけがない。
 それにして6つもレベルが上がったおかげて、思えば今の自分がやっているジョブで最高のレベルは一気にナイトになった訳で、ソロで三ヶ月もかけて30にしたことを思うと、白、黒、暗を同人進行させつつですら、約一ケ月でやってしまえるのだからやっぱパーティーでの戦闘はおいしいと思う。ただ、まぁ、さすがにこの一ヶ月パーティーでいろいろな人にもまれて連戦してきたので、なんだかひどく疲れた。シーフがひとつ上がっているのは、そのリハビリも兼ねて?サンドリアでまったりと弓のスキルをあげるため1時間ほどソロをやったから....。やっぱり自分でペースでやれるソロになるとほっとするなぁ。
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FFXI <戦 L30,ナL25,暗L25, 白 L25,黒 L25,モL8, シL8 >

2005年09月04日 14時42分42秒 | GAME
 引き続きクフィムを中心としたパーティーによるレベル上げの一週間。今週はレベル20の白&黒魔道士を上げようという魂胆で、いずれも後衛の立ち回りのお勉強を兼ねてレベル25を目標とした。先週はレベル21から始まった白&黒騎士をいずれも4づつ上げて25にしたのでそれに並ばせようというものだ。結論からいうと、白は最初の4日、黒はそれに続く2日で、つまり日曜の昼間あたりに早々と目標を達成した。今週はあまり調理スキルを上げなかったし、パーティーのお誘いはけっこうあったのに加え、積極的に自分がリーダーとなってパーティーを組織したりしたりもしたので、かなりハイペースで上げられた格好だ。ただし、後衛の立ち回りを学習できたかというなかなか難しい。とにかく白が難しい。ケアルをかけまくってすぐにMPを切らしたり、危機一髪の状況でパニくるのは相変わらず、

 それにしても塔前とか或いは塔の中の交差点、塔前広場に脇の細い道とか人によって狩り場は様々、パーティーを構成するジョブが変わると、後衛もいろいろと戦術をかえていかねばならず、なかなか感じがつかめない。何回か白がふたりのパーティーに白のひとりとして参加させてもらったが、白ふたりというのはケアル量が豊富なので比較的安定していたようだ。
 週後半の黒では初めてマジック・バーストに挑戦してみた。なにせ普通の連携ですらよくミスるのにマジック・パーストなんざできる訳ねぇやと思っていたんだけど、パーティーのベテランの方が「間違ってもいいから」と励ましてくれて、何回となく挑戦したが、意外にもほぼ90%の確立で成功し、一気に感じをつかめてしまったのはうれしかった。この調子で連携もうまくなっているといいのだが....。ただ、問題なのは、この手の技の組み合わせについて全く分からないことだ。あれこれ調べているうちに大抵はパーティーの誰が「湾曲だからブリザドで」みたいになってしまうんだな。当意即妙でスパっと答えられたいいのなぁ....とひしひしと思ったりする今日この頃。

 という訳で、月曜からはいよいよカザムへ戦場を移そうかと思っている。一ヶ月以上に前に取得したカザム・パスをやっと使う時が来たという感じだ(笑)。実は日曜の最後のパーティーはカザムだったのだが、あれよあれよという間に終わってしまったので、地形も街もなんだかさっぱりわからなったので、今週はゆっくりと挑戦してみたい。
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ハイドン交響曲第6番『朝』/フィッシャー&オーストリア・ハンガリー・ハイドンPO

2005年09月03日 21時29分37秒 | ハイドン
 しばらくお休みしていたハイドン交響曲全集のレビュウですが、サマー・ミュージックが一段落したところでもあり、そろそろ再開します....って、まだ33枚組の2枚目なんですが。今回は第6番「朝」です。このタイトルの由来は第1楽章冒頭の序奏部が日の出を表すからだとか、なるほど意味深なところといい、悠々迫らぬムードといいリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラ」の祖先みたいな感じがしないでもありません(笑)。

 さて、この第1楽章ですが、序奏部分が日の出かどうかは別として、明らかにその後のハイドンの第1楽章の序奏部のスタイルの先鞭をつけたという感じがします。ゆったりと導入し徐々にスケール感を上げていくあたり後年の「ロンドン」を思わせるに充分、ただし、いかにも短い。もっとあれこれやってもよかったにと思ったりもしますが、これを作曲した時期はこれで充分だったのもかもしれませんね。主部はハイドンらしい軽快さと手練手管が縦横に発揮され、展開部の入念さはかなり充実していて素晴らしいの一語につきます。おまけに全体からは格調堅さのようなものまで感じられるのは、おそらくハイドンの進歩だったんでしょう。
 第2楽章では、厳かなムードが横溢した主題に、ソロ・ヴァイオリンをともなってちょっと宮廷風に進む長いち中間部においた三部形式。第3楽章はフルートをフィーチャーした両端に、トリオはコントラバスが活躍して、いずれも協奏曲のように聴こえたりするのが特徴ですかね。第4楽章も協奏曲的な趣が強いですが、こちらは協奏曲といっても合奏協奏曲という感じで、いくつかの楽器がソロをとりつつ、軽快に進行。

 という訳でこの交響曲第6番ですが、これまでの作品と比べるとより重厚で構築的、おまけに技巧もこっていて、とにかく充実してきたという印象です。とくに第1楽章の充実ぶりは目をみはるばかり、ただし、後半はほとんど協奏曲的な趣向になっているあたりおもしろいはおもしろいが、ちと過渡期を感じさせないもありません。
 なお、標題はもとから「朝」とついているので、今回は悩まずにすみました。それにしてもこれはハイドン自身の命名なんですかねぇ?。
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マーラー交響曲第4番/バーンスタイン&NYP 他

2005年09月02日 23時25分37秒 | マーラー+新ウィーン
 交響曲第3番が夏の入り口から晩夏へかけての交響詩的な作品だとすると、続く4番は初秋から収穫の秋へ向けての移り変わりを現したなどといったら、反論がドカーンと来るかもしれませんけど、別に私自身なんらかの根拠があってそういっている訳ではなくて、なんとなく3番から連続したイメージでそんな風に思って聴いているうちに、そうに違いないと思っているだけですし、別に聴く度に秋を意識するようなこともないんですが、いちおうこじつけておくと第一楽章冒頭の木管と鈴がユニゾン奏でるメルヘンチックな旋律とか、ファンタジーっぽさとグロテスクが紙一重で交錯する第2楽章なんかはいかにもドイツの森というイメージだし、第3楽章はゆるやかなパースペクティブは、なんか紅葉を山をみているような気持ちになります。第4楽章は秋祭りですかね。

 さて、この交響曲について知ったかぶりして書いておくと、これはマーラーの初期型交響曲の締めくくりに位置する作品となりますが、同時にその後の作曲活動を予見したものともいえます。古典的なフォーマットの追求とそれにともなって音楽に抽象性が増してきているというあたりがそうですが、聴いていてボヘミア風な旋律だとか、童話風なムードだとかは、確かにまぎれもない初期のマーラー的特徴があるんですけど、1~3番のようなほとばしる創作意欲の結果できた作品という感じが何故かしなくて、割とこうした要素を素材に使って練達の腕でまとめた職人的作品という感じがしなくもないんですね。
 邪推すると心は既に5~7番みたいな古典なフォーマットに準じたもっと抽象度を高い作品の方に行っていたものの、これだけはやり残した宿題だったということなのかもしれません。ともあれ、結果的にこの曲は初期型マーラーの諸要素を非常にコンパクトに古典的フォーマットに封じ込めたものの、次の第5番を彷彿とさせるような響きもまた随所に聴こえるという作品になったのでした。

 今夜、聴いた演奏はバーンスタインがニューヨーク・フィルを振った60年の録音で、おそらく初めて聴く演奏です。私はこの曲のクーベリックとバイエルン放送響の演奏で知り、その後、カラヤン、テンシュテットを始めとしていろいろ聴きましたが、このバーンスタインの演奏は荒っぽいところはありますが、とにかく色彩的で、情緒豊かなでわかりやすい演奏なのが魅力です。ただし、この曲のモーツァルト的な軽さとか古典的なフォーマットみたいなところはあまり感じられません。おそらく、バーンスタインにとってこの曲で導入された古典的なフォーマットというのは、割とどうでもよいもので、初期型のマーラーという視点でもって押し切るべきと判断したんでしょうね。
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ティエリー・ラングの世界

2005年09月01日 20時46分55秒 | JAZZ-Piano Trio
 ティエリー・ラングが96年に収録した作品。彼のトリオ作品としては第3作ということになると思います。注目すべきは、この作品ブルー・ノートというジャズでメジャーなレーベルでのデビュウ作になるということで、これまでの2作に比べると、ビル・エヴァンスの愛奏曲や大スタンダードを何曲かとりあげるなど、よりオーソドックスなジャズ色が強まっているのは、やはりメジャー・デビューということを意識した結果なんでしょうか。

 前作までのようなニューエイジ風にロマンティックなピアノをメインにし、ベースとドラムは淡く後塵を拝するようなスタイルの曲が後退させ、ピアノ・トリオのダイナミズムのようなものをフィーチャーさせた結果、ここに収録された演奏は、これまでの2作以上にキース・ジャレットのスタンダーズ・トリオの音楽に近づいているようにも思えます。アブストラクトなリズムを上で、アウト気味にピアノ・ソロを繰り出し、つなぎ目も曖昧にベース・ソロが続くあたりの展開はとってもかなり近いものを感じました。アップテンポで進む「イフ・アイ・シュッド・ルーズ・ユー」など前作の「星影のステラ」と同様、キース・ジャレットからインスパイアされて演奏していることはほぼ間違いないところでしょうが、このアップ・テンポぶりはこれまでのラングからするとちょいと異色かも。

 あと、印象に残った曲としては、冒頭の「イエロー・ストーリー」はいかにもラングらしい伸びやかな旋律とロマンティックなムードが横溢した作品ですし、ビル・エヴァンスの愛奏曲である「マイ・フーリッシュ・ハート」はラングにぴったりの素材で、ちょいと長目のイントロからさりげなくテーマに入っていくあたりのセンスが抜群。最後の2曲はスタンダーズの8ビート路線を踏襲したような感じですかね.....まぁ、なんでもかんでもキース・ジャレットに結びつけるのもなんなんですが(笑)。
コメント (1)
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