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ハンソンの交響曲第2番は、少し前の9月中頃に「エイリアン」のサントラ絡みで、スラトキンがセントルイスを振ったものをダウンロード購入して、繰り返し聴いていたが、やはり作曲者自身による自作自演盤を聴きたくなって、その直後に購入してはみたものの、お決まりの放置状態になっていたので、思い立って先ほどから聴いているところである。一聴した印象としては、「けっこうあっさりしているな」という感じ。ストラヴィンスキーの自作自演などもそうらしいが、作曲者自身が演奏した演奏というのは、何故だか妙にインテンポでせかせか演奏したり、そっけなかったりするものが多いようだが、これも割とそういう感が強い。前にも書いた通り、ハンソンは指揮者としてもけっこう活躍していた人だから、指揮の技術が足りなくて舌足らずな演奏になってしまったのでは、たぶんないだろう。作曲家自身は「この曲はかくあるべし」と思って演奏している訳だ。
もっとも、私がこれまで聴いて来たスラトキンの演奏は90年代のもので、きっとあの演奏の語り口が巧すぎるというところもあると思う。こちらの演奏は58年ということで、あまりこの曲のロマンティックさを滔々と開陳するような時代でもなかったのだろう。なにしろジョージ・セルやフリッツ・ライナー、同じマーキュリーではアンタル・ドラティらの新古典派流な低カロリーな演奏がスタンダードだった時期である。冒頭のちょっと緊張感ある序奏から、けっこうさっさと流していくし、各楽章に循環する主題も実にすっきりと演奏している。「エイリアン」のエンドタイトルに使用された第1楽章のコーダの部分もスラトキンな比べると、その早めのテンポにはちと違和感を覚えるほどだ、第2、第3楽章も同様。まぁ、一概に新しい演奏がいいとばかりはいえないにしても、聴いていていると、30年という月日はずいぶんと演奏スタイルを変えてしまうものだな....と感じてしまった。
ちなみに録音は1958年、この時期はステレオ最初期にあたるが、さすがにマーキュリーである。同じ頃のドラティの「ペトルーシュカ」などと同じく、高域が多少頭打ちなところ、全体に潤いに乏しいところがたまに傷だが、解像度の高さ、芯が感じられる音の密度感は、今聴いても1958年とは到底思えないクウォリティだと思う。少なくとも同じころのデッカやグラモフォンに比べれば、解像度やダイナミックの広さという点では、それらの一段上をいく音質ではある。これで1964年だったら、更にレンジが広がり、聴き映えがしただろうに....とちと残念ではあるが。
もっとも、私がこれまで聴いて来たスラトキンの演奏は90年代のもので、きっとあの演奏の語り口が巧すぎるというところもあると思う。こちらの演奏は58年ということで、あまりこの曲のロマンティックさを滔々と開陳するような時代でもなかったのだろう。なにしろジョージ・セルやフリッツ・ライナー、同じマーキュリーではアンタル・ドラティらの新古典派流な低カロリーな演奏がスタンダードだった時期である。冒頭のちょっと緊張感ある序奏から、けっこうさっさと流していくし、各楽章に循環する主題も実にすっきりと演奏している。「エイリアン」のエンドタイトルに使用された第1楽章のコーダの部分もスラトキンな比べると、その早めのテンポにはちと違和感を覚えるほどだ、第2、第3楽章も同様。まぁ、一概に新しい演奏がいいとばかりはいえないにしても、聴いていていると、30年という月日はずいぶんと演奏スタイルを変えてしまうものだな....と感じてしまった。
ちなみに録音は1958年、この時期はステレオ最初期にあたるが、さすがにマーキュリーである。同じ頃のドラティの「ペトルーシュカ」などと同じく、高域が多少頭打ちなところ、全体に潤いに乏しいところがたまに傷だが、解像度の高さ、芯が感じられる音の密度感は、今聴いても1958年とは到底思えないクウォリティだと思う。少なくとも同じころのデッカやグラモフォンに比べれば、解像度やダイナミックの広さという点では、それらの一段上をいく音質ではある。これで1964年だったら、更にレンジが広がり、聴き映えがしただろうに....とちと残念ではあるが。
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