この曲はしばらく前にロバート・クラフトの演奏を2種類聴いたばかりだが、気が向いたので、久しぶりにラトルとバーミンガム市響の演奏を聴いてみた。前にも書いた通り、私はこの曲をこの演奏で知り、以来四半世紀もシェーンベルク編曲のピアノ四重奏曲第1番といえば、これを聴き続けてきたせいもあって、やはり一番しっくりとくる違和感がまるでない演奏だ(クラフトの2番目の演奏も良かったが)。冒頭から実にブラームスらしい響きが充満しているし、全体にテンポや表情も実に的確で、常に男らしくありたいと思い続け、傍目にもそう振る舞いながら、時にふと遠くを見て、うつむいてしまう優柔不断なロマンチストという側面が複雑に絡み合ったブラームスが思い浮かぶような演奏なのである。多少雑ないい方をすれば、前に聴いたクラフトの演奏が「シェーンベルクがブラームスをどう料理したか」をポイントにしたものだったとすると、ラトルの方は「他人の手が入ったブラームス作品をいかにも純正ブラームス作品に近づけるか」を主眼にした演奏という風にもいえるかもしれない。
なにしろ冒頭、木管に続く弦が入ってくるあたりの響きが素晴らしい。しつこいようだがブラームスそのものである。またそれをいくらか遅めにじっくりと歌う間合いというか呼吸感のようなものは、新ロマン派的な感性、あるいはマニエリスム的なディテールへのこだわりを感じさせるものだと思う。おそらく、古い指揮者だとここまで、歌い込んでロマンティックに演奏してしまうのはおそらく気恥ずかしく感じるのではないだろうか。ラトルという指揮者は、当時未だ20代後半、しかも、この曲(版というべきか)が今ほどポピュラーではなく、手あかのついていない素材だったから(慣例や常道的な解釈が存在していなかったので)、こういうやや身振り手振りの大きい、いってしまえばフルトヴェングラー的な指揮ができたのだろうとも思ったりする。やや遅めの解釈した最終楽章なども、ハンガリー的な色彩はほどほどにして、ブラームス的な行きつ戻りつしながら盛り上がっていく、調度交響曲の第二番の最終楽章のようなハイライトを形成しているのも、そう考えると納得できるものだ。とりとめがなく地味になりがちな、真ん中のふたつの楽章を、ここまで情感豊かに、しかも元から交響曲のパーツであるかのような演奏しているのも出色だ。
なにしろ冒頭、木管に続く弦が入ってくるあたりの響きが素晴らしい。しつこいようだがブラームスそのものである。またそれをいくらか遅めにじっくりと歌う間合いというか呼吸感のようなものは、新ロマン派的な感性、あるいはマニエリスム的なディテールへのこだわりを感じさせるものだと思う。おそらく、古い指揮者だとここまで、歌い込んでロマンティックに演奏してしまうのはおそらく気恥ずかしく感じるのではないだろうか。ラトルという指揮者は、当時未だ20代後半、しかも、この曲(版というべきか)が今ほどポピュラーではなく、手あかのついていない素材だったから(慣例や常道的な解釈が存在していなかったので)、こういうやや身振り手振りの大きい、いってしまえばフルトヴェングラー的な指揮ができたのだろうとも思ったりする。やや遅めの解釈した最終楽章なども、ハンガリー的な色彩はほどほどにして、ブラームス的な行きつ戻りつしながら盛り上がっていく、調度交響曲の第二番の最終楽章のようなハイライトを形成しているのも、そう考えると納得できるものだ。とりとめがなく地味になりがちな、真ん中のふたつの楽章を、ここまで情感豊かに、しかも元から交響曲のパーツであるかのような演奏しているのも出色だ。
気がむいたらどうぞ。
あとDVDもあったような気がします。
くだんのアルバムは発売が延期になっているようですが、ぜひ購入したいと思ってます。
ラトルはマーラーの10番といい、ベルリンと初期のカタログを更新しているようですね。そうなると、そろそろ「嘆きの歌」も再録するんですかね?。