マティーズ&ケーンによるブラームスの主要作品のピアノ連弾シリーズ、今回はこのところ頻繁に聴くピアノ四重奏曲の第1番を聴いてみた。このシリーズは気がつけばたいていのものを購入しているが、これなど確か2,3年前には購入してあったように思うのだけれど、ピアノ四重奏曲そのものがしばらく興味の範疇外であったから放置してあったのだが、今まさに機は熟したというところだろう。それにしても、全くナクソスというのは良質なレーベルである。こういうメジャーな会社なら見向きもしないようなレパートリーを地道にレコーディングしてくれるのは、まずは資料としても貴重というのはもちろんだが、こういう演奏を聴くことによって、こうした作曲家に対する理解の深化や新たな側面を認識できたりするきっかけを得られると思うからだ(実際は得られるかもしれない....程度かもしれないが-笑)。
それにしてもブラームスの作品というのは、セレナードはもちろん、交響曲にしても、実にピアノ連弾というスタイルに合う音楽だと思う。この1番はそもそもピアノを伴った曲だから、そもそも、半分は「そのまま」だとしても、残りの弦楽パートをピアノに置換してもそれほど不足感がないのは、そもそもブラームスという人がピアノ音楽的な発想で作曲してきた人だからだろう。第1楽章のピアノの暗鬱なテーマから、深刻な表情で弦楽が重なってくる冒頭など、-そもそもシェーンベルクの分厚いオーケストレーションでこの曲を聴き慣れてきた私のような者が聴いても-「これはこれで十分あり!」と思わせる良さがある。ブリッジの憂愁なムードもピアノだけで錯綜する線を再現しているが、オリジナルとは違った透明な美しさがある。また、ブラームスらしい寂寥感のようなものが漂う場面では、4手では思いの他効果的新鮮だったりもする。ただし、壮麗な第二主題はとか錯綜する展開部などは、4手では明快に各声部が聴き取れるのはいいのだが、やはりいささか寂しい感じもなくはない。
第2楽章と第3楽章(間奏曲)は、時に背景のリズム処理が多少機械的にトランスクリプションした不自然さを感じるは時もあるが、大筋では違和感なしの出来。前者はシューマンの暗い抒情が横溢するピアノ曲のように聴ける。後者はオリジナルとは趣のことなった淡い水彩画のような美しさが印象的だ。ハンガリー風の第4楽章は、元々4手の曲のようにすら聴こえるから妙だ。これは「ハンガリー舞曲」という、既成事実の存在も大きいのだろう。突如「ハンガリー舞曲」を聴いている気分になってしまうのは笑える。いや、くだんの舞曲集でもここまで過激に盛り上がる曲もなかったのではないか。ともあれ、ここでは、いつもお行儀のよいマティーズ&ケーンが終盤はかなりホットな演奏になっているのは、やはりこの楽章の性格あって故なのだろう。
それにしてもブラームスの作品というのは、セレナードはもちろん、交響曲にしても、実にピアノ連弾というスタイルに合う音楽だと思う。この1番はそもそもピアノを伴った曲だから、そもそも、半分は「そのまま」だとしても、残りの弦楽パートをピアノに置換してもそれほど不足感がないのは、そもそもブラームスという人がピアノ音楽的な発想で作曲してきた人だからだろう。第1楽章のピアノの暗鬱なテーマから、深刻な表情で弦楽が重なってくる冒頭など、-そもそもシェーンベルクの分厚いオーケストレーションでこの曲を聴き慣れてきた私のような者が聴いても-「これはこれで十分あり!」と思わせる良さがある。ブリッジの憂愁なムードもピアノだけで錯綜する線を再現しているが、オリジナルとは違った透明な美しさがある。また、ブラームスらしい寂寥感のようなものが漂う場面では、4手では思いの他効果的新鮮だったりもする。ただし、壮麗な第二主題はとか錯綜する展開部などは、4手では明快に各声部が聴き取れるのはいいのだが、やはりいささか寂しい感じもなくはない。
第2楽章と第3楽章(間奏曲)は、時に背景のリズム処理が多少機械的にトランスクリプションした不自然さを感じるは時もあるが、大筋では違和感なしの出来。前者はシューマンの暗い抒情が横溢するピアノ曲のように聴ける。後者はオリジナルとは趣のことなった淡い水彩画のような美しさが印象的だ。ハンガリー風の第4楽章は、元々4手の曲のようにすら聴こえるから妙だ。これは「ハンガリー舞曲」という、既成事実の存在も大きいのだろう。突如「ハンガリー舞曲」を聴いている気分になってしまうのは笑える。いや、くだんの舞曲集でもここまで過激に盛り上がる曲もなかったのではないか。ともあれ、ここでは、いつもお行儀のよいマティーズ&ケーンが終盤はかなりホットな演奏になっているのは、やはりこの楽章の性格あって故なのだろう。
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