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ショスタコーヴィチ ヴァイオリン協奏曲第1番/ムローヴァ、プレヴィン&RPO

2009年02月28日 23時31分20秒 | クラシック(20世紀~)
 お次はムローヴァ、なんだか女流ばかり続いているが(笑)、現在生きているカタログには実に女流による同曲の演奏が多い。段々と分かってきたのだが、オイストラフだの、コーガンだのの演奏がかつてのスタンダートとして名を馳せていたらしく、こちらも注文してあるのだが、今は注文したもので早く届いたものから、どんどん聴いているところだ。ムローヴァといえば、かつてソ連から亡命した美人女性ヴァイオリニストとして、以前から有名で、そのエレガントな容姿は私もよく覚えていたが、演奏を聴くのはもちろん初めてである。なにせソ連から亡命などという経歴の持ち主だから、年齢的には先の3名よりは先輩に当たるだろうが、先ほど調べてみたところ、なんと私と同い年(!)だった。容姿端麗なことから、30代後半くらいに思っていたが、そうなると先輩どころではなくて、大先輩である(笑)。この演奏はそんな彼女がプレヴィンとロイヤル・フィルのバックを得て、約10年前(1998年)に録音したものだ。

 演奏だが、同じロシア系の人ということで、未だCDのないバティアシュベリ的なソ連的な正確無比さと豪快さがハイブリッドしたヴァイオリンみたいなものを漠然と期待していたのだけれど、聴いてみると、まぁ、そういうところがないでもないが、先行して聴いた3人の後輩達とはちょっと違った演奏のように感じた。この演奏はムローヴァが30代後半の頃のものであり、40ちょい前といえばクラシックでも、そろそろ自分の個性と芸術との接点をきちんと確立する年代であり、ここで展開される演奏はそういう意味で、先の3人より一段と風格があり、優れて音楽的な演奏であるように思えた。例えば、それは瞑想的なムードや打ち砕かれた悲しみのようなものが充満する奇数楽章の味わい深さのようなものによく現れている。構造だの、文学性だのをあれこれ頭でっかちに追求するのではなく、まずこれがロシア音楽であることを素直に感じさせる演奏とでもいったらいいか。第3楽章のパッサカリアなど、これまで聴いた演奏の中では一番自然にこの楽章に内包する哀感をストレートに表出しているように思えた。先行する3人の演奏ではひたすら緊張感がみなぎっていたカデンツァもここでは緊張感プラス優美ともいえる表情を見せているのが素晴らしい。好意的に聴けばありがちなテクニック大会のもうひとつ上の段階にある音楽的表現といえるかもしれない。

 一方、ダイナミックな偶数楽章の方は、機械のように正確に、あたかもショーピースのように弾き切ってしまう後輩たちに比べると、いささかおっとりしている。ムローヴァという人もきっとテクニック的にはかなり凄まじいものがあるのだろうけれど、めまぐるしい最終楽章なども適宜レガートをつかって全般的滑らかに演奏しているせいか、凄いテクニックを次々に披露しつつ、表向き凄みを感じさせないのは、実はこれこそ本当に「凄い」ことなのかもしれない。ついでにいえば、この人はロックでいうやや後ノリ的感覚があるように思うし、前述のレガートをはじめとして女性らしい官能を滲ませるところが多々あって、男の私はそういう方に耳を奪われてしまったりする。
 まぁ、このあたりバックを務めるプレヴィンという指揮者が、どちらといえばシャープさを前面に出すタイプとは対照的なおっとり系であるのも影響しているのかもしれない。全般にリズムの角をほんの少し丸めて、スムースに流れていくようなところは、ムローヴァの個性とマッチしているのだろうが、その分この曲のシャープさ、現代性を多少後退させているともいえるかもしれない。

 という訳で、この演奏、先行する3人と比べるとやはり格がひとつ上という感じがするし、妙に突出したところも、これといった欠点もない、ある種スタンダード主張しうるオーソドックスな良さというが美点だと思う。ただし、格上だからといって全てが良いかといえば、この曲のはちゃめちゃに動的な面、もっといえば曲芸的なところにも魅力を感じている当方としては、これで全てことたりるかといえば、そうでもないのが切ないところだ。いずれにしても百花繚乱、どれかひとつなどという必要はない、聴き比べは本当に楽しい。

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