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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
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フェリーニ・ジャズ/various

2005年11月18日 20時50分53秒 | JAZZ-Piano Trio
 フェリーニの「道」という映画は確か20代の前半頃に見た。よく覚えていないが、その頃、80年代初頭の時期といえば、ビデオが普及する直前で、都内には少なくなったとは未だ名画座が沢山残っていて、当時映画フリークだった私はほとんど毎日のように名画座に通い、映画の名のつくものなら何でもみていたような気がする。ところがこうして名画座通いをし始めて、初めて分かったことなのだが、名画座というのは基本的にここ数年の間ロードショーされ、その賞味期限が切れたような映画ばかりがラインナップされていて、映画史上の名作として必ず出てくる大昔の名画というのはあまりかからないのであった。

 で、当時の映画ファンがこうした映画をどうやってみたのかというと、その頃日本橋にあったフィルム・センターという国立のフィルム・アーカイブでときたま上映する機会を見逃さないようにするか、さもなくばある種のコミュニティというか文化団体が主催するフィルム上映会のようなものに参加するより方法がなかったような気がする。前者はおそらく利用した人も多いだろう、夏の暑い中、11時だか10時だかの開館時間の前には通りの前に長蛇の列ができ、開館と同時に階段で映写室まで走っていって良い席を確保したら映画が始まるまでの間、場内になぜか設置されていたスタンドで安いカレーライスをパクついたなどというのは良い想い出だ。一方、後者はもっともっとアングラっぽい雰囲気で、こうした上映会は左翼的な団体が主催していることが多かったらしく、映画とはあまり関係ない「思想的なお誘い」が横行しているに辟易したのだが、エイゼンシュタインの「戦艦ポチョムキン」で有名な「オデッサの階段」のシーンを見るにはこういう機会を利用するしかなかったので、実はよく通ったものだった。今にして思えば、「9月」とか「イワン雷帝」みたいな長大かつ退屈な映画をよくみたもんだと思う。

 フェリーニの「道」はこうしたコミュニティの上映会で見たはずた。ストーリーは省略するが、例のラストシーンには泣けた、もう主人公のアンソニー・クインではないが、問答無用に嗚咽ものであった。ただ、泣きつつも、なんというか、魂の深淵みたいなものをこういう力技でもって開陳されてもなぁ....という思いもあったのも確かで、フェリーニの映画はその後、ほとんどの作品を後追いでみることになったのだが、どの作品もその映像表現に感嘆しつつも、ニーノ・ロータの音楽共々常にある種の違和感にさいなまれたのものだった。そのうち私はそもそもフェリーニ作品はあまり好きでないと思うようになった。

 さて、この作品だが、エンリコ・ピエラヌンツィが編曲したフェリーニの映画音楽のジャズ化アルバムである。ピエラヌンツィといってピアノ・トリオでなく、ケニー・ホイラーのトランペットやクリス・ポッターのサックスも入っている。ただ、このメンツから想像するようなECM系な透徹感一点張りな音楽でもなく、割とオーソドックスなジャズの感触に近いボキャブラリーで、さりげなくニーノ・ロータ作品を料理しているというところだ。このさりげなさのせいなか、しばらくはすんなりと聴けてしまっていたのだが、9曲目の「道」が出てきた時(別に涙を誘うようなエモーショナルな演奏という訳ではないが)、何故かこの映画を見た時のことを思い出してしまい、しばし遠い目となり、前述のことを書いてみたという訳である。 
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