透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

「水中都市・デンドロカカリヤ」を読む

2024-08-13 | A 読書日記


 安部公房の短編集『水中都市・デンドロカカリヤ』(新潮文庫1973年発行、1993年25刷)再読。1993年に読んだのであれば31年ぶりの再読ということになる。

表題作の『水中都市』についてカバー裏面の本書紹介文から引く。**ある日突然現れた父親と名のる男が、奇怪な魚に生れ変り、それまで何の変哲も無かった街が水中の世界に変ってゆく(後略)** 

安部公房の代表作『箱男』が映画化され、今月(8月)23日に公開される。もし、この『水中都市』も映画化されれば、描かれているあるシーンの映像は直視できないと思う。そのくらいホラー。

上の紹介文は次のように結ばれている。**人間存在の不安感を浮び上がらせた初期短編11編を収録。そう、既に書いたけれど、人間が存在することとはどういうことなのかという問いかけ、これは安部公房がずっと問い続けたテーマだった。

収録作品では『手』が印象に残った。主人公のおれはどんな人物なのか、と思って読み進めると、かつて伝書鳩だったということが判る。飼い主は鳩班の兵隊だった。戦争が終って、その鳩は見世物小屋でマジックに使われ、その後、はく製になる。そして「平和の鳩」というブロンズ像になり、それから秘密工場に運ばれて溶解され、別の工場に運ばれて様々なものに加工され、一部はピストルの弾になる。おれをつめ込んだピストルが狙ったのは・・・。展開の意外性。

『プルートーのわな』はブラックなイソップ、という感じ。ねことねずみの物語。あまり安部公房的ではないとおもうけれど、おもしろい。

『闖入者』はある日突然、一人暮らしの男の部屋に見知らぬ家族がやってきて、あたかも自分たちの部屋であるかのように居座り続ける。男を小国、家族を大国に、あるいは家族を日本に置き換えれば、侵略戦争の理不尽さを描いた作品とも取れるかもしれない。いや、暗喩的な表現だと解さない方が良いのかもしれない。ドナルド・キーンが解説で**説明できないところにこそ安部文学の魅力が籠っているのである。**(268頁)と書いているように。


手元にある安部公房の作品リスト

新潮文庫23冊 (文庫発行順 戯曲作品は手元にない。2024年3月以降に再読した作品を赤色表示する。*印の5作品は絶版)

今年(2024年)中に読み終えるという計画でスタートした安部公房作品再読。8月12日現在14冊読了。残り9冊。月2冊のペースで年内に読了できる。


『他人の顔』1968年12月
『壁』1969年5月
『けものたちは故郷をめざす』1970年5月
『飢餓同盟』1970年9月
『第四間氷期』1970年11月

『水中都市・デンドロカカリヤ』1973年7月
『無関係な死・時の壁』1974年5月
『R62号の発明・鉛の卵』1974年8月
『石の眼』1975年1月*
『終りし道の標べに』1975年8月*

『人間そっくり』1976年4月
『夢の逃亡』1977年10月*
『燃えつきた地図』1980年1月
『砂の女』1981年2月
『箱男』1982年10月

『密会』1983年5月
『笑う月』1984年7月
『カーブの向う・ユープケッチャ』1988年12月*
『方舟さくら丸』1990年10月
『死に急ぐ鯨たち』1991年1月*

『カンガルー・ノート』1995年2月
『飛ぶ男』2024年3月
『(霊媒の話より)題未定 安部公房初期短編集』2024年4月


木曽義仲の母の墓

2024-08-10 | A あれこれ

 木曽義仲の松本成長説を押したい気持ちは身びいき故か。いや、義仲を庇護した中原兼遠は信濃国権頭(権守)であり、国府で政務に就いていたこと。そして国府は松本にあったとする説が有力であること(当時の公道である東山道は木曽谷ではなく伊那谷を北上、松本を通っていたことも国府が松本にあったことの傍証となるだろう)。義仲が信濃国で育ったのは1155年ころから1180年ころまでの期間であり、このころ木曽は信濃国ではなく美濃国に属していたとされていることなどから(*1)、通説である木曽成長説より妥当性が高いと判断されることに因る。

長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。この寺は塩尻市洗馬、明治初期まで木曽川と呼ばれていた現奈良井川の左岸の段丘の上にある。今日(10日)出かけてお参りしてきた。


長興寺 山門 2024.08.10


本堂脇に設置されている「木曽義仲御母堂の墓」の説明板

説明文には次のように記されている。**二歳の時、父義賢が甥の悪源太義平(中略)に討たれたため、母小枝御前と共に畠山重能や斎藤別当実盛に助けられ、信濃権守である中原兼遠がいた信濃国府(松本市)に逃れてきました。** 








木曽義仲の母小枝御前の墓 左側の刻字は寛永十七年庚辰九月吉日と読める(初めの二文字(?)は読めない)。寛永十七年は1640年。

夫を殺害され、幼子と共に信濃国筑摩郡まで逃れてきた小枝御前はどんな気持ちだっただろう・・・。


*1 **鳥居峠(とりいとうげ)は、長野県の塩尻市奈良井と木祖村藪原を結ぶ峠で、国境に位置しているため、中世には戦いが何度も行われた信濃国と美濃国の境として歴史のある峠です。**

木曽風景街道推進協議会のHPより

この説明で平安末期には木曽地域が美濃国に属していたことが判る。 


木曽義仲 木曽成長説と松本成長説

2024-08-10 | A あれこれ

 「木曽義仲 松本成長説」改稿

木曽義仲、幼名・駒王丸。出生地は武蔵国、現在の埼玉県と伝えられる。義仲の父の義賢は義朝との兄弟対立で、義朝の息子・義平(義賢の甥、義仲のいとこ)に討たれる。まだ2歳(もしくは3歳)の駒王丸にも義平から殺害の命が出されたため、義賢に旧恩のあった斎藤実盛の手引きで信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃れ、木曽で育ったとされる。

さて、ここから義仲が通説通り木曽で育ったのかどうかについて書いてみたい。

 
前稿で長野県立歴史館で開催中の夏季企画展「疾風怒涛  木曽義仲」について書いたが、館内で入手した「長野県立歴史館たより」(写真)も上記のことに触れている。記述によく分からないところがあったので、今日(9日)県立歴史館に電話して記事の担当者に伺った。

木曽義仲 「木曽成長説」と 「 松本成長説」

木曽義仲は信濃国のどこで育ったのか。通説の「木曽義仲 木曽成長説」と歴史学者(*1)が唱えた「木曽義仲  松本成長説」があるわけだが、木曽歴史館でも松本歴史館(仮にこのような歴史館があるとして)でもなく、長野県立歴史館であれば、決定的な証拠がない限り、どちらかに組するような記事は書けない。従って具体的な記述を避けた曖昧な記述になっている。担当者の話の内容を私はこのように理解した。

**義賢のもとにいた駒王丸は(中略)信濃国権頭(ごんのかみ)中原兼遠のもとに逃がされました。当時の信濃国府は筑摩郡にありました。国府から近い木曽周辺に拠点があったと考えられます。** 

「長野県立歴史館たより」のこのような記述について、信濃国府が筑摩郡のどこにあったのかについて触れていないことと、拠点が何を指しているのか分からないので文意が理解できないと書き、続けて国府は松本の惣社あたりにあったという説が有力だという(*2)。惣社という地名もそのことを暗示しているように思われる。そうだとすると、引用文にある国府から近い木曽周辺ということは理解できない。木曽は鳥居トンネルがある現在でも松本から遠いからと書いた。

*2 『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)は次のように記述し、国府は松本にあったとしている。**古代に信濃国の国府が筑摩郡下に置かれた。国の政庁がおかれた地域は府中といわれたので、松本は単に「府中」とか信濃国の府中という意味で「信府」とも呼ばれた。** 

だが、記事の担当者の話を伺った今は引用文のような表現も仕方がないのかな、とも思う。木曽がどこを指すのか、現在の木曽とは違う地域を指すのかもしれないし(*3)、仮に今の木曽と同じ地域だとしても、その周辺という曖昧な表現だと、松本地域も近いという捉え方もありかな、と思わないでもない。加えて近いとか遠いというのは相対的な概念ということでもあるし・・・。

*3 ウィキペディアの「木曽義仲」には**現在の木曽は当時美濃の国であったことから、義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)という説もある。**と書かれている。このことについて朝日村のHPには次のような記事が掲載されている。また同HPの別のところには下の地図が掲載され、桂入堤と加筆されている。


木曽部桂入とは現在の朝日村西洗馬三ヶ組辺りを指す。地図に三ヶ組と表記されている(光輪寺 卍 の右下)。桂入は現在もある。



*3 また、明治初期まで松本を流れる奈良井川も木曽川と呼ばれていたという。このことから松本平南部も木曽と呼ばれていたのかもしれない。木曽部桂入という古い地名もこのことに因るのかもしれない。この奈良井川沿いにある長興寺に義仲の母小枝御前(さえごぜん)の墓がある。


コトバンクによる。

兼遠の庇護のもとで育った義仲


先に書いたように信濃国府は松本の惣社辺りにあったとする説が有力のようだ。そう、東山道が通る松本にあったとするのが妥当な判断ではないか。だから中原兼遠は木曽(今の木曽)ではなく、松本にいて政務を執っていた。中原兼遠が木曽(今の木曽)にいて、そこから松本まで通ったとは到底思えないから。

そもそも当時、木曽(今の木曽)は信濃国ではなく、美濃国の領地ではなかったのか(このことについてはネット検索すると記事がいくつも見つかる。木曽がいつ信濃国に組み込まれたのかを示す決定的な史料はないようだが、鎌倉時代もしくは室町時代に美濃国から分離され、信濃国筑摩郡に編入されたとウィキペディアにはある)。

義仲は兼遠の庇護のもとで育っているわけだから、やはりその地は上述した理由から木曽(今の木曽)ではなく、松本だとする方が無理がなく妥当ではないかと思う。

「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者・重野安繹

記事の冒頭に書いたように、通説「義仲 木曽成長説」に異を唱えた歴史学者がいた。このことについては2022年4月20日の記事に書いた(過去ログ)。

以下その記事から抜粋して再掲する。


*1 その歴史学者の名は重野安繹(しげの やすつぐ)。このことについて調べて、重野博士が明治27年9月30日に旧制松本中学で「木曽義仲の松本成長及佐久挙兵説」を講演していること、そしてその抄録が「松本市史」に収録されていることが分かった。松本中央図書館で「松本市史」を閲覧した(2022.04.19)。

「松本市史」上巻103頁
重野博士は木曽山中を義仲の成長地とする説について**余は其必ず誤謬なるを思ふ者なり。**と強く否定している。(上掲写真)
抄録を読み進むと、**兼遠は當時信濃國の權守なりしが故に信濃に來りしなり。**と信濃国に逃れた理由を説明している。で、当時の木曽について**兼遠の時代には中々人を成長せしむべき處に非りき。**としている。

**中原兼遠は名こそ權守なれど其實は國守なりしなり。**だから、**若し義平が攻め來るとも四方の嶮崕を鎖して之を防がば、毫も恐るべきに非ず、何を苦んで人跡稀なる木曾山中に育てんや。**(104頁)と説き、**義仲は決して木曾山中に成長せし者に非ずして、必ず此松本に成長せし者なるべしと思うなり。**と結ぶ。(太文字化したのはわたし)重野博士は義平は義仲をさほど厳重に捜索しなかったとも述べている。


義仲が育ったとされる木曽は距離的に離れすぎている

義仲は兼遠の息子の樋口兼光、今井兼平と共に遊んだとされている。このことについて重野博士は**義仲四天王中の樋口兼光、今井兼平は共に中原兼遠の子なり。**と紹介、続けて**兼光の居住したる樋口村は鹽尻村の彼方に今も尚残り、兼平の居住したる今井村は現に東筑摩郡中に在り、義仲は實に松本今井樋口の間に成長し、兼光兼平と共に遊びたりし人なり。**としている(104頁)。

抄録中の鹽尻村(現塩尻市)の先にあるという樋口村は現辰野町樋口、東筑摩郡今井村は現松本市今井(今井には今井兼平が中興の開基といわれる宝輪寺がある)。義仲、兼光、兼平の3人が子どものころ一緒に遊んで育ったということになると、義仲が木曽(今の木曽)で育ったとする説にはやはり無理があると思う。義仲が通ったとするには木曽(今の木曽)は距離的に離れすぎている。

文中の下線部、松本今井樋口の間とはどこなのか・・・。それが、朝日村木曽部桂入周辺、即ち朝日村西洗馬三ヶ組というわけ。「木曽義仲  松本成長説」を支持し、義仲は松本の隣・朝日村で育ったのだという説を紹介したくて、本稿を書いた次第。


 


疾風怒涛 木曽義仲

2024-08-08 | A あれこれ

① 
 今年(2024年)は木曽義仲没後840年に当たるそうだ。長野県立歴史館(千曲市)で夏季企画展「疾風怒涛  木曽義仲」が開催されている(会期:8月25日まで)。

2日に出かけて展示品を観てきた。会場には義仲の生涯の主要なエピソードが描かれた屏風などが展示されていた(①)。




会場内の展示品は撮影が許可されていた(「木曽義仲木像」義仲寺像を除く ストロボ使用不可)。

③ 篠原の合戦(石川県加賀市) 斎藤実盛(さねもり)の最期

義仲の命の恩人斎藤実盛(⑤参照)は平家方として義仲軍と対峙。白髪を染めて名を秘して出陣していた老齢の斎藤実盛は義仲方の手塚別当光盛によって討ち取られた。その頸を洗うと黒髪が白髪に戻った。実盛であることが判り、目頭を押さえる兼光(右)と木曽義仲(左 立位)。(配布資料の説明を基にした)



木曽義仲最期図屏風 深田で討ち死にする義仲(1184年 義仲は近江国粟津で討ち取られた)



中原兼遠のもとで育った義仲。その場所は・・・。 次稿に続く





「帰郷」を読む

2024-08-06 | A 読書日記


 浅田次郎の『帰郷』(集英社2016年 図書館本)を読んだ。

太平洋戦争で激しい戦闘が繰り広げられた沖縄戦で生き残った指揮官と戦死した部下の遺族の往復書簡をめぐる実話『ずっと、ずっと帰りを待っていました』浜田哲二・浜田律子(新潮社2024年)を読んでいたので、図書館でこの本が目に入ったのかもしれない。

表題作の「帰郷」ほか5編を収める小説集。印象に残ったのは「帰郷」だった。終戦直後の新宿で復員したばかりの古越庄一は体を売って日々を食い凌ぐ女に声をかける。マリアという通り名のその女は綾子。

**「金ならこの通り持っているが、あんたを買うつもりはないんだ」
(中略)
「どこかで、俺の話を聞いてくれないか」**(11頁)

連れ込み旅館の一室で庄一は綾子に出兵から復員直後までの出来事を語る。庄一の出身地が信州松本ということ、そして綾子も信州だったことが、この物語にぼくを引き込んだ。

復員して神戸港から名古屋へ。そして中央線に乗り継ぎ、松本駅に着いた庄一は義兄(二番目の姉の亭主)の三郎に声をかけられる。

**「なあ、庄ちゃ。聞き分けてくれねえか」
ぴったりと俺に体を寄せ、うなだれた頭を合わせるようにして、三郎さんは言った。
「僕と出くわしたのは、偶然なんかじゃねえぞ。きっと、諏訪の大神様の思し召しだ。だでせ、庄ちゃ。ここは何も言わねえで始発の汽車に乗れってこっさ。どっかに落ち着いたら、松本高校の気付けで便りをほしい」
三郎さんは懐を探って、ありったけの金を俺の掌に握らせた。(後略)**(42頁)

庄一は西太平洋のテニアン島で戦死を遂げたと戦死広報が伝えた。庄一の家では葬式を出し、墓石も建てた。妻の糸子は庄一の弟の精二と再婚していた。庄一のふたりの娘・夏子と雪子は精二の子になり、**「あんなあ、庄ちゃ。糸子さんの腹の中には、精ちゃの子がいるずら」**(44頁)と三郎は庄一に伝える。

**「夏子も精ちゃをおとうさんと呼んでるずら。雪子ははなから、精ちゃを父親だと信じてるがね。糸子さんも了簡してる。な、庄ちゃ。僕は誰の肩を持ってるわけじゃねえでせ、庄ちゃも了簡しとくれや」**(44頁)

生きて帰ってきて、松本駅で義兄に説得される庄一。**(前略)糸子をねぎらい、夏子を膝に抱き、まだ見ぬ雪子に頬ずりをしたかった。**(44頁) 

ああ、これを戦争の悲劇と言わずして何と言う。三郎に説得され、新宿に出てきた庄一は綾子に声をかけたのだった。

宿の一室で綾子に一通り話をしてから、庄一は言う。

**「あんたに頼みがある」
(中略)
「俺と一緒に、生きてくれないか」**(48頁)

もうだいぶ前のことだが、浅田次郎の『鉄道員(ぽっぽや)』(集英社文庫)を読んで、涙小説だと書いた(過去ログ)。表題作の「帰郷」も涙小説、切なくて何回も涙があふれた。

この先、庄一と綾子はどう生きて行くのだろう。ふたりが歩む人生物語を読みたかった。短編なのは残念。





城も高さかせぎ

2024-08-04 | A あれこれ

『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)に掲載されている麓 和善・名古屋工業大学名誉教授の特別寄稿「日本城郭史上における松本城天守の価値」を読んだことを前稿に書いた。

ポイントは**松本城天守は、豊臣政権による徳川家康への牽制・威嚇という戦略的意味が込められ、いまだ技術的には望楼型の時代に、5重の天守としての威容を誇示するために、外観意匠のみ層塔型として作られた。**(260頁)というものだった。

このことに関連して、麓さんは犬山城天守と松本城天守の規模の違いについて次のように説いている。**天守台石垣が同規模であるのにもかかわらず、なぜ犬山城天守は3重とし、松本城天守は5重としたのであろうか。それは天守の立地、すなわち犬山城は平山城で、天守は小高い丘陵の上に立っているのに対して、松本城は平城で、天守は平地に立っていることに起因する。**(259頁)

**藩政を担う城主の権力の大きさと、城主によって守られた城下町の繫栄の象徴としての意義が天守にはあり、それが天守の高さに表れていると考えている**(243頁)という麓さんの見解だが、小高い丘陵の上であればそれ程の高さを要せず、それが可能という訳。

目的は違うけれど、火の見櫓の立地でも同様のことがいえる。小高い場所に立っている火の見櫓はそれ程高さを要せず低いことが多い。ぼくはこのことについて「高さかせぎ」ということばで説明している。天守の立地にも「高さかせぎ」が当てはまるということを、この寄稿で知った。


高さかせぎ 山梨県身延町古関 2022.12.11


 


望楼型 層塔型

2024-08-03 | A 読書日記

 


 『松本城のすべて 世界遺産登録を目指して』(信濃毎日新聞社2022年)に掲載されている麓 和善・名古屋工業大学名誉教授の特別寄稿「日本城郭史上における松本城天守の価値」を読んだ。以下、私の理解し得た内容を記す。

天守には「望楼型」と「層塔型」のふたつの様式がある。
望楼型は低層の櫓の上に、小さな望楼状の建物を載せた形式。
層塔型は何層にも重なった塔のように、各層の逓減率が一定の形式。
1579年竣工の安土城天守から1638年再建の江戸城天守に至るまでの約60年間に天守は望楼型から層塔型へと発達したという。

木造架構技術にも「井楼式通柱構法」と「互入式通柱構法」のふたつの架構方法がある。
井楼式は2階分の通柱を配し、その上に梁を井桁に組み、これを構造単位として重ねて天守を組み上げる構法。
互入式は各階交互に通柱を配し、天守を一体的に組み上げる構法。
※ 柱の平面的な位置、梁との位置関係の条件の記述を省略している。

大雑把に捉えれば望楼型の天守には井楼式通柱構法が、層塔型の天守には互入通柱構法が対応しているというが、スパッと対応付けられるものでもないようだ。


松江城(築城:1611年 国宝指定:2015年)撮影日2019.01.11(33会の旅行)

松江城天守は4重5階で1,2重が同規模で、2重目の大きな入母屋屋根の上に小さな3,4重目が載る望楼型だが、架構は互入通柱構法。


松本城(築城:1593,4年 国宝指定:1952年)撮影日2019.01.17

松本城天守は5重6階で1,2重がほぼ同規模だが、松江城とは異なり2重目に大きな入母屋屋根はなく、2重目から5重目の逓減率がほぼ一定ということが写真で分かる。だが、架構は井楼式通柱構法。

このことについて、著者の麓さんは**望楼型の架構形式をとりながらも、外観は先駆的に層塔型の様式を実現した天守、言い換えれば技術的には望楼型の時代に、外観意匠のみ層塔型としたと見るのが正しい。**(257頁)と解説している。

なるほど。  なぜ、そんなことをしたのだろう・・・。

麓さんはその理由を次のように説いている。**松本城天守は、豊臣政権による徳川家康への牽制・威嚇という戦略的意味が込められ、いまだ技術的には望楼型の時代に、5重の天守としての威容を誇示するために、外観意匠のみ層塔型として作られた。**(260頁)

なるほどねぇ。

今度、松本城を見学する機会があったら、井楼式通柱構法だということを確認しよう。


 


ブックレビュー 2024.07

2024-08-02 | A ブックレビュー

 

 7月に読んだ本は7冊(6作品)。『散華 紫式部の生涯 上 下』杉本苑子は図書館本。

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』三宅香帆(集英社新書2024年)

本も読めない働き方が普通の社会っておかしくないか、という問題意識から明治以降の読書の歴史を労働との関係から紐解き、読書の通史として示している。読書史と労働史を併置し、どうすれば労働と読書が両立する社会をつくることができるか、を論じている。


『第四間氷期』安部公房(新潮文庫1970年11月10日発行、1971年3月10日 2刷)

サスペンス的な要素もあるSF。安部公房の想像力の凄さに感動すら覚えた。

太平洋海底火山群の活発化等による海面上昇で**ヨーロッパはまず全滅、アメリカにしても、ロッキー山脈をのぞけば完全に全滅だし、日本なんか、先生、山だらけの小島がぽつんぽつんと、五つ六つ残るだけだというんですからなあ・・・・・。**(231頁)

こんな未来予測にどう対応するか。水棲人、海中で生存できる人間に未来を託そうとする研究者たち・・・。


『ずっと、ずっと帰りを待っていました「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』浜田哲二・浜田律子(新潮社2024年)

**米軍の戦史にも、「ありったけの地獄を集めた」と刻まれる沖縄戦**(12頁)では20万人以上が犠牲となったと言われている。若き指揮官・伊東孝一大隊長は沖縄戦から奇跡的に生還するも、率いていた部下1,000人の9割は戦死していた。終戦の翌年(昭和21年)、伊東はおよそ600通の詫び状を遺族に送る。直後、伊東の元には356通もの返信が届く。伊東はその手紙を70年もの間、保管していた。

伊東孝一が保管していた遺族からの手紙が70年経った今、遺族の親族に返還される。手紙を手にした親族(子どもや甥・姪ら)は・・・。

1945年(昭和20年)8月の終戦からまもなく79年経つ。だが、太平洋戦争はまだ終わってはいないのだな、と本書を読み終えて思った。


『日本 町の風景学』内藤 昌(草思社2001年 古書店 想雲堂で購入)

**風景のもつ深い意味を解き、“住みよさ”よりも“住みたさ”の原像をたどる出色の日本都市論** と帯にある。内容が難しく、理解できず。


『食料危機の未来年表 そして日本人が飢える日』高橋五郎(朝日新書2023年)

サブタイトルの「日本人が飢える日」が決してあり得ないことではないのだな。これが読後の感想。
日本は工業立国を標榜、農業がその犠牲になったとも言える。結果、食料自給率の著しい低下を招く。他国が日本を養うことをやめてしまったら・・・。


『散華 紫式部の生涯 上 下』杉本苑子(中央公論社1991年 図書館本)

上下巻各8章、約830頁の長編。副題が「紫式部の生涯」となっている通り、紫式部と後年呼ばれることになる小市が7歳の時から始まるこの物語には52歳で生涯を閉じるまでの45年間が描かれている。

この小説の圧巻は下巻の「宇治十帖」だと言いたい。「宇治十帖」は杉本苑子さんの「源氏物語論」。紫式部は本編をどう自己評価したのか、なぜ続編とも位置付けられる「宇治十帖」を書いたのかについて論じている。

数知れぬ読者の、主観や個性に合せ、その側におりて行って多様な注文に応じきることなど、しょせん一人の書き手にできることはない。することでもない。では、どうすればよいか。答えはただ一つ、作者は自分のためにのみ書き、自分の好みにのみ、合せるほかないのだ。すべての読者が、おもしろくないと横を向いてしまっても仕方がない。自分が「よし」と思うその気持ちに合せて書く以外に、拠りどころははない。**(下巻333頁) 

このような指摘は言うまでもなく、同じ書き手としての杉本さんの文学論でもある。


8月 読書の真夏。


気がかりなこと

2024-08-01 | D 新聞を読んで

 

 信濃毎日新聞7月31日付の「コメ在庫  過去最少」という見出しの記事が気になって読んだ。先日『食料危機の未来年表 そして日本人が飢える日』高橋五郎(朝日選書2023年)を読んだので。

**統計を取り始めた1999年以降で過去最少となった。23年産の高温障害の影響や消費回復が背景にある。**と記事のリード文にある。上掲の本でも食料危機の大きな原因として、地球の気候変動を挙げている。また、消費回復の原因について新聞記事には**パンや麺類と比べて価格上昇が抑えられ「値頃感」があったことも原因だと説明している。**とある。パンや麺類の価格上昇の主因は材料の小麦の価格高騰であることは明らかだ。

この本には主要な穀物である小麦・トウモロコシ・コメ・大豆の生産量の上位5か国の合計が占める割合を示すグラフが掲載されているが(53頁)、例えば大豆ではブラジル・アメリカ・アルゼンチン・中国・インドで9割近く(89.5%)を占めている。中国は先に挙げた主要な穀物の全てで上位5か国に入っている。

本で著者は**それぞれの穀物生産上位の国々が組めば、13か国が加盟するOPEC(石油輸出国機構)を上回るほど強力な世界支配機構が誕生しうるというのが現実である。**(55,56頁)と指摘している。日本はコメを除き、小麦・トウモロコシ・コメ・大豆のほぼすべてを海外に依存している。ちなみに2022年度の大豆の自給率は6%(農林水産省のHPによる)。

これで、コメまで不足するということになったら・・・。日本の農業従事者の平均年齢は農林水産省のHPによると68.7歳(令和5年)、会社員なら定年退職している歳だ。

食料問題を深刻に捉えて、対策を講じないと日本人が飢える日が来てしまう・・・。