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C8「夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組⑥」定火消の推移(訂正、追記)

2023-01-30 | A 火の見櫓っておもしろい


『お夢胡蝶 羽州ぼろ鳶組⑥』今村翔吾(祥伝社文庫2022年第7刷)

■ 直木賞作家・今村翔吾さんの時代小説。火消が主人公のシリーズもので既に10巻を超えている。第1巻「火喰鳥」から第6巻「夢胡蝶」まで読んできた。

「夢胡蝶」の舞台は吉原。吉原で頻発する不審火。妓楼が焼けて臨時営業をする間は幕府への納税が免除される。このことが裏で関係しているのだが、ミステリー仕立てだから、このことについては登場人物の中に老中・田沼意次や一橋家の徳川治済(はるさだ)がいるとだけ記しておく。

吉原の妓楼「醒ヶ井」が焼ける。2階にいた花魁・花菊を羽州ぼろ鳶組の纏番の彦弥が火中から助け出す。花菊と彦弥のふたりがその後どうなるのか・・・。続く不審火、火付けの真犯人は誰か・・・。

「羽州ぼろ鳶組」は江戸の火消が主人公なだけに、江戸の防火システムについても書かれている。火消という組織もいくつかあるが、この本に出てくる火消を挙げると、武家火消、定火消、町火消、八丁火消、所々火消、方角火消、店火消、吉原火消。で、羽州ぼろ鳶組はこの中の方角火消。今回はこの小説のことはこのくらいで切り上げて、定火消について書きたい。

*****

定火消は明暦の大火(1657年)の翌年に江戸幕府によって組織された。そして火の見櫓は定火消の拠点として整備された火消屋敷に建設されたのが始まり。だから定火消についても無関心ではいられない。当初、定火消は4か所に整備され、その後増設される。15か所くらいになった後、数が減り10か所に落ち着く。10か所のまま幕末まで推移したのかどうか・・・。このようなことついて前から知りたいと思っていた。

ちなみに「夢胡蝶」には**府下には小川町、八重洲河岸、駿河台、麹町御門外、市谷左内坂、御茶ノ水、赤坂御門外、飯田町の八か所の定火消が存在する。**(107,8頁)という記述がある。麹町御門外と半蔵御門外は同じ場所と判断できると思う。




初めの4か所とはどこだったのか。前々から調べていたが、どうも一説に定まらない。市谷(左内坂)が挙げられている資料もあるし、そうでない資料もある。JR市ヶ谷駅の近くには上のような標柱が立っている。ウキペディアでは定火消の最初の4か所に市谷(左内坂)は挙げられていない。

定火消について、設置場所と設置数の推移を知りたくてあれこれ調べた。と言ってもネットで調べただけだが。それで下のような論文が見つかった。


江戸の三つの防火施策である火除地の設営、消防組織の整備、防火のための建築規制について、享保期(1716~1735)以降の推移をまとめた研究論文。特徴的なのは享保期及びそれ以降の地図を作成して(*1)文書史料から得られた情報を地図上に記していること。研究目的である防火施策の経年推移がビジュアルに示されていて、大変分かりやすい。地図上に示せない情報は表に分かりやすくまとめられている。余談だが(司馬遼太郎ではないが)研究成果は、やはり分かりやすく示すということが基本かつ重要だと思う。

定火消の推移が表にまとめられ、屋敷の場所が地図にプロットされている。前述の通り、明暦の大火(1657年)の翌年の万治元年に火消屋敷が初めて設置されたが、所在地は飯田町、麹町、御茶水、伝通院前(表記は図11による)となっている。

表9には享保10年(1726年)に伝通院前から小川町に移転したことも示されている。移転・・・、そうか移転が行われていたのか。どの時点の所在地を記すかで違ってくるわけだ。資料の所在地相違の理由のひとつが移転にあることが分かった。 地名の変化についても他の資料から分かった。

長年続いた定火消所在地10か所について、この論文や他の資料により次のようにまとめた。(享保10年(1725年)~安政元年(1854年)*1)

 1 飯田町
 2 八代洲河岸(後年八重洲河岸となる)
 3 麹町半蔵御門外
 4 赤坂溜池(溜池之上)
 5 赤坂御門外
 6 四谷御門内
 7 市谷左内坂(市谷御門外とする資料もあるが同じ場所だと思われる)
 8 小川町(享保10年(1725年)に小石川伝通院前から移転した)
 9 御茶之水(御茶ノ水、御茶水と表記した資料もある)
  10    駿河台

*1 安政2年(1855年)に小川町、赤坂溜池が廃止された。
  
太字は明暦の大火(1657年)の翌年に初めて設置された4か所の火消屋敷、朱色は慶応2年(1866年)に残った4か所の火消屋敷
1~3は内濠沿いに、4~10は外濠沿いに位置している。
火消屋敷は2,4,5を除き江戸城から見て西から北に位置している。

火災発生件数の多い冬季の季節風の風向き(北西~北)を考慮したということは以前調べて承知していて、拙著『あ、火の見櫓!』に**定火消の組織化に伴い、まず御茶ノ水、小石川伝通院前(*1)、麴町半蔵門外、飯田町、以上の武家地4ヶ所に火消し役の屋敷が建設され(中略)、火の見櫓が建てられました。これが火の見櫓の始まりです。(29頁)と書き、続けて**火消屋敷は江戸城の北西部に偏って配置されていますが、これは北西からの季節風の激しい冬季に火災が多発していたからだと言われています。**(29頁)と書いた。今回調べたことと相違していない。

小石川伝通院前には注釈*1をつけて**市谷左内坂とする資料もあります。火消し屋敷は数年の間に10ヶ所を超えるまでになっており、建設年と建設地が必ずしも明確でなく、最初の4ヶ所には複数の説があるようです。**と書いた。

論文は慶応2年(1866年)の火消屋敷4か所の立地についても論述が及び、2八重洲河岸を除き、標高が高く、江戸城や武家地を望遠できる場所と指摘している。地形を利用した「高さかせぎ」。

2八重洲河岸は標高が低いが江戸末期まで廃止されなかった。3麹町は江戸城の西、9,10は北。2は南という方位が考慮されたのかもしれない。

論文は実に分かりやすくまとめられている。すばらしい。

私の趣味としての火の見櫓調べはこの辺りで線引き。


*1 地図を作成し、とあっさり書いたが、複数(5種類)の古地図を比較検討して地図を作成するだけでも大変な作業だったと思う。


今年(2023年)に実行したいこと(火の見櫓関係)
①両国回向院をお参りしたい。この寺院は明暦の大火(1657年)で亡くなった多数の人たちを供養するために、同年建立された。
②消防博物館(正式には東京消防庁消防防災資料センター)にまた行きたい。特に江戸時代の展示をじっくり観たい。


大名火消の出動の様子を示す模型 消防博物館にて 2012.07.15

『羽州ぼろ鳶組』を読んでこのような展示物にも興味がわいてきた。


* 本稿についてある方からコメントしていたきました。コメント冒頭に**公開不要でお願いします。**と記されていたので非公開とさせていただきます。
「論文」は研究成果の報告文書、「論文の梗概」は論文の概要を示す文書と理解しています。どちらも研究目的から研究成果までの一連の流れを文書にまとめるという形式は変わらないでしょう。
本稿で紹介した資料を研究の梗概としましたが、資料の右上に地域安全学会論文集と記載されていること(梗概集という記載ではない)、梗概はもっとボリュームが少ないことが一般的であると思われること、更にコメントのご指摘を踏まえ、本稿中の梗概を削除、訂正しました。
梗概と記載したことで、ご迷惑をおかけしたかもしれません。お詫びします。コメントしていただいた方には、ここでお礼を申し上げます。


 


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2 コメント

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Unknown (ひのみ)
2023-01-30 09:34:09
2023年の目標、いいですね!
私も今年は新たな発見があるといいなあと思ってます。
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ひのみさんへ (U1)
2023-01-30 16:29:45
コメントありがとうございます。
東京の消防博物館と両国回向院は日帰りで行ってくることもできます。
他には日光、川越にも今年行きたいと思っています。どちらも火の見櫓がらみなんです。
新たな発見、いいですね。私もそう願っています。
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