透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

― 十を知って一を書く(加筆・再掲)

2019-12-19 | A 火の見櫓っておもしろい

■ 私が遠い昔に在席していた大学の研究室では研究生活の心得を標語にしていた。

全体から部分へというのは、いきなり各論(部分)に入るのではなく、まず総論(全体)からという研究論文の構成に関する標語。例えば東北地方の民家の形式や構造を論ずるにしてもまず全国の民家を論じて、その中に東北の民家を位置づけてから、ということを学生に理解してもらうためのもの。日本を論ずるならば、まず世界を論じ、その中に日本を位置づけてからというわけだ。この標語は研究そのもののあり方を示しているともいえるだろう。

全体像と部分詳細のT字型構造も結局は同様のことを示している。総論だけでは論文としては「弱い」し、かといって各論だけでは、それが研究分野のなかにどのように位置づけられるものなのかがはっきりしない。まず広く総体を押さえてからその一部について(つまり研究対象について)深く掘り下げて論ぜよということだ。

前段が長くなった。本稿のタイトルはそのうちのひとつ、十を知って一の説明という標語を思い出してつけた。

このところブログで火の見櫓を盛んに取り上げているが、それぞれの火の見櫓には誕生から今現在に至るまでのものがたりがある。下は長野県の山形村は下竹田という地区の火の見櫓の脚元に置かれている「警鐘楼建設費寄附者芳名」表示板の写真だが、ここには約250人の氏名と寄付金額が記入されている。「昭和参拾七年六月貮拾四日」とあるから、今から50年前に地元の多くの人たちの寄付によって火の見櫓が誕生したことをものがたる貴重な資料だ。新しく建設する火の見櫓に寄せる当時の人たちの期待、思いが伝わってくる。

 

建設当時のことを知る古老に聞き取り調査をしたり、資料を探したりして、そのようなものがたりまでも読みとる努力をしなければならないだろう。それには厖大な労力を要するが・・・。多くのものがたりの上に火の見櫓は立っている、ということを意識すべきだ。

また、全体から部分ということから火の見櫓を論ずるならば、まず「櫓」や「塔」にはどのようなものがあるのか、その全体像を明らかにした上で、その中に火の見櫓を位置づけてからという手続きを踏むべきだったと反省する。別に学術的な研究をしているわけではないと言い訳をすることもできるが・・・。

先日(20120918)地元の「松本平タウン情報」という新聞に火の見櫓を紹介する記事が掲載された。安曇野のヤグラーのぶさんと私へのインタビューをまとめた記事だが、紹介された火の見櫓のうち、ひとつは火の見櫓ではなく、太鼓櫓だという指摘が読者からあったようだ(*1)。

前述したように櫓にはどのようなものがあるのかをきちんと調べておけば、あるいは気が付いたかもしれない、と反省している。

ああ、たかが火の見櫓、されど火の見櫓・・・。


2012年9月に掲載した記事に加筆して再度掲載する。 

追記
・拙著『あ、火の見櫓!』は上記のことを意識して書いた。
・*1については拙著のコラム1に書いた。
・十を知って一を書く、ということに関しては火の見櫓の歴史については十を知って十を書くといった状況で全く余裕がな かった。内容に誤りがあればご指摘願いたい。このブログで訂正記事を書きたい。


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