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依田勉三の実験場、晩成社「当縁牧場跡地」

2018-07-17 18:00:27 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

20187月上旬、大樹町晩成の「晩成社跡地」を訪ねた。国道336号(ナウマン国道)の大樹町晩成地区から晩成温泉に向かう道路に入り、3kmほどの地点にある案内標識を左折する。しばらく進むと大樹町教育委員会が建てた案内板が飛び込んでくる。この一帯で依田勉三は十勝農業の夢を描いたのだ。今もこの地域には「晩成」の名前が残っている。

写真は、復元された依田勉三住宅と草を食む牛の群れを望む。

十勝の沿岸地帯は、太平洋からの風が強く海霧も発生しやすい。夏季は日照が少ないため気温が低く稲作や畑作には適さない。現在、帯広周辺が畑作で繁栄しているのに対し、十勝南部は冷涼な気象条件のもと牧草主体の酪農、畜産地帯になっている。今考えれば、十勝内陸に牧場適地はいくらでもあったと思うが、交通の要であった十勝川に近く、太平洋に面して広がる広大な土地、湧洞沼や生花苗沼、ホロカヤン沼などが魅力だったのかも知れない。

私事になるが、かつて「冷害防止実証試験」「大豆耐冷性現地選抜試験」で浜大樹と下大樹の農家の方にお世話になり、調査のため頻繁に通ったのでこの地域はことのほか懐かしい。現在は、近くの「ナウマン象発掘の地」「大樹航空宇宙実験場」の方が晩成社跡地よりも観光客に知られている。

写真は、①復元された依田勉三住宅(6坪の住宅は三分され、畳敷きの4畳と中央に土間、西側に風呂と物置がある)、②晩成社当時の地図、③大樹町教育委員会による説明板である。

  

◇晩成社当縁村牧場

晩成社一行がオベリベリ(帯広)に入植してからの開墾生活は辛苦を極めた。開墾した僅かな畑はバッタの来襲で壊滅、病に倒れる人も多かった。理想の地ではなかったのか? 社員の中には不満が渦巻き、離脱を考える者も出てきた。

依田勉三は一同の不満離散を見るにつけ期することがあった。当縁村に牧場を拓き畜産業を興し、その利益を帯広に還元できないかと考えた。入地から3年目の明治19511日、勉三は弟の文三郎と共に十勝川を下り、河口の大津から長節湖の西側を迂回して湧洞に出る。翌日は山に登り湧洞沼を視察、その後オイカマナイ(生花苗)を経て歴舟、豊似までを探査。516日にはオイカマナイ開墾着手届を戸長に提出。「オイカマナイを見て、沃地と思われる」の言葉が残されているが、この地当縁村生花苗を牧場適地と判断したのだろう。6月初めには開墾を開始、オイカマナイ沼を一周し牧地を検分、8月には陸奥から牝牛10頭、牡牛4頭を購入、プラオなど農機具の導入にも積極的であった。明治43年には当縁牧場1,600町歩、牛149頭、馬123頭飼育していた。

勉三はこの地に大正4年まで住み(同年、途別の水田所に入居)、幾多の事業に挑戦している。勉三にとってこの地は十勝開拓の実験場であった。当地での概要については大樹町教育委員会の資料(案内板)に譲ろう。彼は、帯広とこの地を頻繁に往復し、十勝の開拓・振興にかける夢を燃やし続けた。

写真は、④大樹町教育委員会による説明板、⑤サイロ跡、⑥佐藤米吉の墓、⑦祭牛の霊碑、⑧もみじひら歌碑である。

     

この地は、依田勉三が開墾に励んだ時代を感じることが出来る場所と言えよう。

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