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伊豆の人、今村伝四郎藤原正長

2020-08-07 14:59:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

昭和22年(1947)制定の下田小学校校歌(作 田中芳樹・土屋康雄・今成勝司)に「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて・・・」とその名を謳われる三名の人物。「技の蓮

杖」とはわが国写真術の開祖と呼ばれる下岡蓮杖、「学の東里」とは著名な陽明学者で清貧に生きた天才詩文家と称される中根東里のことである。二人とも下田生まれ、本書「伊豆の下田の歴史びと」ですでに紹介した。

もう一人の「愛の正長」とは誰か? 下田奉行今村伝四郎正長のことである。三河の人なのに、下田の人々から「愛の正長」と親しみを込めて呼ばれる正長とは一体どんな人物だったのか。

◇ 下田奉行今村伝四郎正長

今村家の遠祖は藤原鎌足に連なると言われる。相模国河村城の城主になった河村三郎義秀は源頼朝に仕えたが、その曽孫五郎秀村のとき河村城を捨て三河国今村郷に移り住み姓を今村に改め、郷士となった。その後幾代か経て、大永7年(1527)今村彦兵衛勝長が徳川家に仕えることになった。勝長は、徳川清康、弘忠、家康三代に仕え、数々の武勲をたてたことで知られる。

今村彦兵衛重長(初代下田奉行):勝長の嫡子。重長は家康、秀忠に仕え数々の武勲をたて、元和2年(1616)目付となり伊豆国に2,200石を知行、下田奉行に任じられる(初代下田奉行)が、老齢のため下田に赴任せず子の正長が職務を代行した。寛永4年(1627)逝去、勝長と同じ岡崎善立寺に眠る。

今村伝四郎正長(第二代下田奉行):18歳になった正長は直参旗本に取り立てられ、二代将軍秀忠の御書院番に選ばれる。25歳で旗本石川八左衛門の娘を妻に迎える。初陣大坂夏の陣で軍功あり1,300石を賜る。元和元年(1615)下田港警備を命じられ、騎馬武士10人と歩卒50人とともに下田へ赴き、遠見番所を設け警備に当たる。寛永4年(1627)第二代下田奉行を継ぐ。多くの治績(船番所の整備、町の区画整理、防風林の植林、社寺振興と下田太鼓祭りの開始、武ヶ浜波除け築堤など)を残したことで知られる。正長の知行は上総国で1,350石、下田知行地(下田、本郷、柿崎、須崎、大賀茂、下賀茂、青野、市之瀬など)2,200石を加え3,600石であった。正長は下田奉行職の傍ら、徳川家直参旗本として特命を受け目付、将軍随行、長崎奉行など諸行事に関わり務めを果たしている。正長の下田奉行職の在任期間は代行を含め37年間に及ぶ。承応2年(1653)下田で逝去。享年66歳。了仙寺に眠る。墓碑銘は今村伝四郎藤原正長(了智院法仙日泰霊位)とある。

なお、第三代下田奉行は正長と昵懇の石野八兵衛氏照が継ぎ、承応2年(1653)から16年間下田奉行を務めた。御番所の整備、七軒町から大浦に抜ける切通し工事、回船問屋の制度確立、隠居同心、火の番小屋の設置など、正長の理想を完成させた。切通し工事は入港の回船から帆一反につき銀一匁を納めさせ、住民には費用を一切負担させなかったと言う。住民に負担を掛けない方式は正長の波除築造の考えを継承している。

今村伝三郎正成(第四代下田奉行):正長の子正成は寛永8年(1668)下田奉行を継ぐ。正長、氏照の治世を継承したが、上水道の敷設は正成の特筆すべき事績と言えよう。井戸水の水質が悪く住民が困窮しているのを見て、中島の水源から道路の地下に木管を埋設して全町に水道を引いた。この上水道整備は時代を先取りする事業であった。在職10年江戸で逝去。享年68歳。了仙寺に葬られた。

・今村彦兵衛正信(第五代下田奉行):正成の子正信が延宝6年(1678)下田奉行を継いだ。在職5年、天和3年(1683)下田で逝去。享年43歳。了仙寺に眠る。正信には子が無かったため今村家は断絶。

この後、第六代下田奉行は服部久右衛門となった。久右衛門は、水道は不用として木管を掘り出しこれで辻木戸を作り、夜間は辻木戸を締め夜盗を防いだと下田歴史年表に記されている。享保6年(1721)御番所は江戸に近い浦賀に移転することになり下田奉行は廃止され、浦賀奉行所支配の浦方御用所が置かれた。

◇ 下田奉行

下田奉行は幕府直轄領に置かれた遠国奉行の一つである。下田奉行は開国の歴史に翻弄され設置、廃止が繰り返され、三つの時代がある。

・第一次:元和2年(1616)~享保5年(1720)

下田港が遠州灘と相模灘の追分にあって江戸~大坂航路の風待ち港として重要な地位を占めていたことから、港の整備、船舶の監督、貨物検査などが重要な仕事であった。今村家四代にわたる下田統治は下田の礎を築く時代であったと言えるだろう。

・第二次:天保13年(1842)~天保15年(弘化元年、1844)

天保13年12月には外国船の来航に備え、海防のため下田奉行が再設置された。小笠原加賀守長毅が浦賀奉行から下田奉行となり、須崎の洲左里崎、狼煙崎(鍋田浜と吉佐美の間)に御台場を築城したが、翌天保15年(弘化元年)2月には御台場廃止、同年5月下田奉行も二代土岐丹波守をもって廃止となった。

・第三次:嘉永7年(1854)~元延元年(1860)

嘉永7年3月に日米和親条約が神奈川で調印され、下田が箱館とともに開港と決まったため、下田奉行が再々設置され佐渡奉行都築駿河守峯重、浦賀奉行伊沢美作守摂津守政義が急遽初代下田奉行任命された。米使ペリー提督艦隊が下田に入港すると、林大学頭・井戸津島守・鵜殿民部少輔・松崎満太郎らと交渉にあたる。奉行所は宝福寺・稲田寺を仮事務所にしていたが、安政2年(1855)中村に奉行所を建設。欠乏所も設置された。伊沢美作守はロシア使節プチャーチンとの交渉に当たっていた筒井政憲・川路聖謨の補佐役にも従事。また、安政3年ハリスが駐日総領事として下田に来航すると下田奉行は岡田備後守忠養、井上信濃守清直(川路聖謨は実兄)、中村出羽守が就任した。安政6年(1859)日米通商条約が締結し横浜開港となると下田港は閉鎖、元延元年(1860)下田奉行も廃止となった。下田が歴史の表舞台に登場したのはこの第三次下田奉行が置かれた僅か七年間であった。

◇ 正長の治績

下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」に正長の治績が詳細に述べられているので、その概略を紹介しよう。

(1)須崎の越瀬(おっせ)に遠見番所を設け警備にあたる。

元和元年(1615)下田港警備を命じられた正長は、同心50人で沖を通る船を見張り、追船で乗り付けては、女・子供・手負いなど怪しい者が乗っていないか改めたと言う。現在、越瀬に御番所址の石碑が残されている。

(2)下田船改番所の整備

嘉永13年(1636)須崎の遠見番所は大浦に移され、船改番所として整備された。また、鍋田に鎮座していた祠を大浦に移し鎌倉の鶴岡八幡宮を祀り祈願所とした。この年は参勤交代制が実施された翌年にあたり、船改番所の主目的はいわゆる「出女入鉄砲」監視であった。江戸に出入りする諸国の回船は下田船改番所に立ち寄り、宿手形,荷手形を示して船改めを受けなければならなかったのである(海の関所)。

一方、下田沖は海の難所で遭難する船も多く、海難処理も重要な仕事であった。与力や同心だけでは業務が処理しきれない状態になり、正長はかつての配下であった隠居同心28人に回船問屋を申し付け御番所の業務を補佐させた(回船問屋は63人まで逐次増員された)。問屋衆は下田特有の制度であったが、世襲制で、武士ではないが大半の者は名字帯刀が許されたと言う。なお、幕藩体制が固まり治安が安定してくると、享保6年(1721)御番所は浦賀に移され下田奉行は廃止、その後は浦賀奉行所出張所「浦方御用所」が置かれた(場所は澤村邸の辺り)。

(3)武ヶ浜波除けを築く

当時の下田は波浪が市街地に迫り暴風雨が来ると民家が流されるなど被害が大きく、また稲生沢川の河口は土砂が堆積し船の係留も出来なくなることが多かった。正長は港の西側に防波堤を築くことで被害を防ごうと計画、宰領には家臣の薦田景次、太田正次が当った。武山の山麓から切り出した石を運び、高さ2丈(約6m)、長さは直角に曲がった部分を含め6町半(約700m)、寛永20年(1643)から始めて3年目の天保2年(1646)8月8日に完成。この工事では、稲生沢川の先端部分を石堤で絞ることによって水流を強め、土砂を放出し川底が浅くなるのを防ぐ工夫も加えられていた。

この工事にあたり正長は幕府の補助を一切受けることなく、自らの俸禄と私財をなげうって成し遂げた。その後何回か洪水や津波によって破壊されるが、正長が幕府に申し立て、以降の修復は幕府の負担で行われている。長い年月を経て石堤の外側に土砂が寄り、更に埋め立てが行われ現在の武ヶ浜が出来上がった。

(4)城山などの植林

下田城の戦いの後、正長は松を植林。丹精を込めて管理した松はその後も幕府、明治政府、町有林として管理され、防風林及び魚付林として恩恵をもたらした。

(5)社寺の振興、太鼓祭り

正長は敬神の念篤く、大浦八幡宮建立、武山権現社修復、下田八幡神社の修復、了仙寺の開基、大安寺等多くの社寺に寄進するなどしている。人々の信仰も暑かった時代である。また、住民が心を一つにして取り組めるよう八幡神社の祭典を興した。各町が太鼓繰り出す住民総参加型の祭典は太鼓祭りとも呼ばれるが、その旋律は徳川方大阪城入場の陣太鼓を模したと言われている。

◇ 第二の故郷のために

下田奉行を37年間務めた今村伝四郎正長。多くの治績を残したが、私財を投じて行った武ヶ浜の波除け築堤は下田の将来を見据えたものであった。この事業には、住民に負担を掛けまいとする深い配慮があった。正長は下田を第二の故郷と思い、無私の心で工事を進めた。人々は正長の心に愛を感じたに違いない。町民は正長の偉業を称え武山権現社の境内に勒功碑を建てた(大正3年巳酉倶楽部により修復され現在地に移転)。関東大震災の折には、防波堤のお陰で下田は惨事を免れたと町民は「今村公彰徳碑」を建てた。

そして今もなお、下田小学校の子供らは校歌で正長の偉業を学び、「今村公を偲ぶ会」など正長の功績を語り継ぐ人々がいる。

参照:下田開国博物館編集「肥田実著作集、幕末開港の町下田」二〇〇七

 

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