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豆の育種のマメな話

◇北海道と南米大陸に夢を描いた育種家の落穂ひろい「豆の話」
◇伊豆だより ◇恵庭散歩 ◇さすらい考
 

依田勉三翁之像(帯広市中島公園)

2018-07-16 14:24:48 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

帯広市東3条南2丁目に小さな広場(中島公園)がある

場所は、十勝総合振興局の東側、国道38号を挟んで向かい側には帯広神社・護国神社が祀られていると説明した方が分かり易いかも知れない。

 

この公園の中央に十勝開拓の祖、拓聖と称される依田勉三翁銅像が建っている。台座が大きく、像は見上げる高さにある。笠を負い、蓑をまとい、鍬を手にした勉三の像、その表情から弛まぬ開拓の決意がくみ取れる。銅像制作者は彫刻家田嶼碩朗(クラーク像の作者でもある)。当時、十勝商工會連合會頭であった中島武市の尽力により建設された。昭和16626日除幕式挙行。その後、戦火熾烈となり銅像は拠出され、昭和267月1日再建された。

因みに、中島武市(なかじまぶいち、1897-1978)は、岐阜県本巣郡土貴野村(現、本巣市)出身の実業家、政治家。シンガーソングライター中島みゆきは孫(武市の長男の第一子)。中島公園の名も由来する。

 

正面台座には「依田勉三翁之像」の文字、台座裏側には以下の「碑文」が刻まれているので、紹介しよう。碑文の一木喜徳郎は同郷、尾崎行雄は三田同門のよしみによる。また、佐藤昌介は札幌農学校の一期生にして北海道帝国大学初代総長、北海道農業の最高権威であった。

◇碑文(台座裏1)

功業不磨

咢堂題

依田勉三君ハ伊豆ノ人夙ニ北地開墾ノ志アリ明

治十五年晩成社ヲ組織シ自ラ一族ヲ率ヰテ此地

ニ移住ス凶歳相次キ飢寒身ニ迫ルト雖モ肯テ屈

撓セス移民ヲ慰撫激勵シテ原野ノ開拓ニ努メ更

ニ水田ヲ闢キ酪農事業ヲ興シ諸種ノ製造工業ヲ

試ムル等十勝國開發ノ翹楚トシテ克ク其範ヲ示

ス十勝國ノ今日在ルハ君ノ先見努力ノ賜ナリ岐

阜縣人中島武市此ノ勞效ヲ欽仰シ私財ヲ投シテ

之ヲ永遠ニ讚ヘントス誠ニ宜ナリト言フヘシ

紀元二千六百年二月十一日建立

  題  字 正二位勲一等 男爵  一木喜徳郎

  篆  額 正三位勲一等     尾崎行雄

  撰  文 従二位勲一等 男爵  佐藤昌介

  書  字 帯廣市長正六位勲五等 渡部守治

  銅像製作 東京市        田嶼碩朗

  建  設 帯廣市        中島武市

◇碑文(台座2)

賛辞

本日ここに十勝開拓の先人

依田勉三君の銅像除幕式が

擧行せらる誠に慶賀にたえ

ざるなり君の十勝開拓に志すや

終始一貫堂々としてたゆまず

あらゆる困苦欠乏にたえ初志の

貫徹に邁進すること四十有五年

今日十勝平野開發の基礎を

確立せるは洵に敬仰にたえず

今や食糧の生産確保に益々

飛躍進展を希求せらるる時機に

際し君が本道開拓の先覺としての

偉業を偲びその功績を永く後世に

傳えんがため十勝商工會連合

會頭中島武市君獨力で銅像の

建立をはかりここに建設をみたるは

蓋し機宜を得たるものというべく

世道人心の作興に資するところ

少なからざるべし

昭和十六年六月二十二日

農林大臣井野碩也

また、銅像の後方には「徳光皓」碑があり、以下の碑文が刻まれ、銅像再建に関わった方々の氏名が残されている(残念ながら)。

依田勉三翁は十勝国開拓の恩人たり即ち

明治十六年晩成社を司宰し郷里伊豆の国

より同志数十人を率ひ十勝原野に来住

千辛万苦幾多の凶荒に遭ふも屈撓せず遂

に農業十勝興隆の基礎を築きたり 中島

武市氏は夙に翁の功徳を敬慕し昭和十六

年独力よく晩成社開拓の地を卜して公園

を造成 翁の銅像を建設し 以て功績を

永く後世に伝えんとせり 然るに所謂大

東亜戦争熾烈となるや 銅像また之が犠

牲となり撤去せらる 時に昭和十八年十

二月八日なり 爾来春風秋雨実に七ヶ年

平和の春蘇り来れりと雖 放置されて顧

みられず我等深く遺憾とし 昭和二十五

年七月再建期成会を結成し債権の計画を

樹つるや翕然として大方諸彦の賛同を得

ていま再び翁の偉容に接する感激措く能は

ざるなり 茲に銅像の再建を記念し併せ

て本事業に参画せられた篤行の士を銘す

昭和二十五年文化の日

依田勉三翁銅像再建期成會長

帯広市長 佐藤亀太郎

20187月上旬、帯広の中島公園にある依田勉三翁銅像を訪ねた。奥伊豆で暮らしていた両親が、人生ただ一回の北海道旅行でやってきた折に案内して以来だから、おおよそ45年ぶりのことである。その時の写真はアルバムの片隅で色褪せたが、公園内の「勉三松」は大樹となっている。

参照:萩原実監修、田所武編著「拓聖依田勉三伝」


西伊豆の小さな漁村戸田港と「造船郷土資料博物館」

2017-06-02 11:33:19 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

5月中旬、伊豆急下田駅前から、松崎、堂ヶ島、土肥温泉を経て戸田に向かった。伊豆半島西海岸を北上する各駅停車のバス旅である。東海バス堂ヶ島行きは、伊豆急下田駅前を10時発、稲生沢川に沿って進み、蓮台寺、箕作、婆姿羅峠を経て松崎に入る。松崎1050分着、松崎バスターミナルで修善寺行きに乗り換える。堂ヶ島、田子、安良里、宇久須など漁村に立ち寄りながら土肥温泉へ。土肥温泉1150分着。

土肥温泉から戸田へ向かうバスの便数は少ない。バス停近くの松原公園で弁当を食べ、13時発の戸田行きに乗車する。バスは海岸線に沿って山道を抜け、戸田村(現在、沼津市戸田)に入る。1330分戸田着、下田からは3時間半の道程。戸田へのアクセスは、沼津または修善寺からの方が便利であるが、今回は下田からのコースを辿った。

戸田村は平成17年沼津市に併合され、沼津市戸田地区と呼ばれるが、現在戸数1,400戸余り、人口3,000人弱、地理的にも独立した集落で、戸田村と呼んでもおかしくない長閑な漁港に見える。下田で生まれ育ち、北海道に暮らす今でも年に34回は下田を訪れるが、戸田に立ち寄ることはこれまで一度もなかった。今回、戸田港を訪れようと思ったのは、開国の歴史の中で裏舞台となった入江を見ておきたいと思ったからである。

戸田港は、ロシアのプチャーチン提督率いる軍艦「デイアナ号」が安政大地震による津波で破損し(日本との国交交渉のために下田港に停泊していた)沈没した折、ロシアの技術者と当地の船大工たちが協力して日本初の洋式帆船「ヘダ号」を建造した所縁の場所である。その資料は、この地区の「沼津市戸田造船郷土資料博物館」「造船記念碑」「宝泉寺(プチャーチン宿泊所)」「大行寺(日露条約修正交渉場所)」などで見ることが出来る。

江戸幕府がデイアナ号の修理港として戸田を選んだのは、当時ロシアがクリミア戦争でイギリス・フランスと敵対関係にあったため、外洋を航海するイギリス・フランス艦隊に見つからないよう、この港を指定したのだと言う。確かに、戸田港は御浜岬によって包み込まれるように覆われ、駿河湾から戸田港は見えない。御浜岬の松林が裏山と一体化して、港の存在を消しているのだ。

造船郷土資料博物館は御浜岬の先端近く、松林の中にある。岬の内湾に面しては、諸口神社、御浜海水浴場となる波静かな砂浜が続いている。

造船郷土資料博物館には、デイアナ号の津波による被災から沈没、さらにヘダ号建造に至るまでの経過が紹介されている。入口の外には、向かって右側に「デイアナ号の錨」が置かれ、左側に「日ソ友愛の像」が建っている。駿河湾から引き揚げられたデイアナ号の錨を野晒しにしてあるのかと思いながら写真に収める。館内には、デイアナ号やヘダ号の模型、ヘダ号建造時の資料などが保管され、当時の動きを知ることが出来る。

戸田港は日本近代造船発祥の地とされる。沈没するデイアナ号から運び出された「スクーナー型」と言われる帆船の設計図をもとに、近隣の船大工たちが言葉の壁を乗り越え、韮山代官江川英龍建造取締役のもと僅か3か月で100トンほどの帆船(ヘダ号)を造り上げたのである。さらに、同タイプの船(君沢型)6隻が建造され、幕府は函館などに配備したという。ヘダ号建設に係った船大工たちは、各地で造船技術の普及指導にあたった。

プチャーチン一行はヘダ号でロシアに帰国したが、プチャーチン及びその子孫と戸田村民との友愛はその後も続くことになる。本稿では触れないが、興味ある方は拙ウエブログ「豆の育種のマメな話」から下記の項目を参考にされたい。

①   プチャーチン、日本を愛したロシア人がいた(2014.5.17

②   橘耕斎、幕末の伊豆戸田港からロシアに密出国した男(2013.5.27

③   日露交渉の真っ最中、下田を襲った安政の大津波(2012.9.28

 

博物館から岬内の遊歩道を通り、内浦湾に沿って市街地まで歩く。途中で「造船所跡の碑」を眺め、市街地までの所要時間は約30分。磯割烹の宿「山市」では戸田温泉につかり、駿河湾深海の「タカアシガニ」を味わった。

駿河湾は日本一深い湾であるという。戸田には、深海魚や深海のタカアシガニなどを見よう、食べようと訪れる旅人が増えている。最近は深海魚の方が戸田観光の主役かも知れないが、長閑な自然の中で開国外交の裏舞台となった戸田の歴史に触れてみるのも面白い。


タウンゼンド・ハリス,教育と外交にかけた生涯

2015-11-20 15:10:46 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆下田歴史人の章

タウンゼンド・ハリス(Townsend Harris,1859-1862),私たちは彼のことを「日米修好通商条約の締結に尽力した初の駐日総領事」として記憶している。いわゆる外交官としての顔である。言い逃れや先延ばしを画策する幕府役人に対しては米国の国益を背負ったタフな交渉人であり,孤独の地で病を得ながらも日本を理解することに努め,時が経つにつれ幕府の信頼を勝ち得た一人の外交官としての姿である。

更に,下田の人々はハリスの名前から領事館が置かれた玉泉寺や柿崎の浜(ハリスの小径)を思い出すかもしれない。或いはまた,「唐人お吉物語」からハリスの姿を思い描く人もいるだろう。いずれにしても,黒船で揺れた江戸末期に門戸開放を目指して活躍した外交官としてのハリスである。

しかし,ハリスには別の顔があった。教育者としての顔である。

先日,横浜馬車道にある「県立歴史博物館」を訪れた際,一冊の本(新書版)に出会った。中西道子著「タウンゼンド・ハリス,教育と外交にかけた生涯」(有隣堂273p,1993)である。早速購入して,帰りの飛行機で読み始めたがなかなか面白い。

表紙の中扉には「タウンゼンド・ハリスは,初の駐日総領事として来日する以前に,一陶器商でありながらニューヨーク市教育委員会委員長となり,貧困層の子弟のための無月謝高等学校(フリー・アカデミー)の設立に心血を注いだ。広く門戸を開いたこの学校は,発展してニューヨーク市立大学(シテイ・カレッジ)となり,多くの人材を輩出してきた。本書は,アメリカの資料をもとに,教育にかけたハリスの活動の軌跡を初めて詳細に跡づけ,併せて日米修好通商条約の締結という第二の門戸開放に全力を傾けたハリスの孤独な闘いの経緯をたどり,一ニューヨーク市民としてのハリスの人間像を描き出そうとしたものである」とある。

著者の中西道子は,横浜生まれの比較文化史研究家で教鞭も執られているようだが,海外資料を読み込んだ豊富な記述によって,ハリスの人間性を髣髴と描き出している。この書は,浅学にして知らなかったハリスの一面を教えてくれた。ハリスの生涯を辿る旅に導いてくれた。詳細については本書に委ねることにして,以下にタウンゼンド・ハリスの年譜を整理しておこう。

タウンゼンド・ハリスの生涯

(1)人格形成期

1804年(0歳):タウンゼンド・ハリスは,10月4日ニューヨーク州北部のサンデイ・ヒル(現,ハドソン・フォールズ町)において,父ジョナサン,母エリノア・ワトソンの五男として生まれた。父は独立軍士官であり,帽子屋を生業としながら村長を務めた人物である。先祖はウエールズ出身。

1818年(14歳):家が貧しかったため,中学校卒業後ニューヨークに出て繊維業店に徒弟として住み込む。

1820年(16歳):兄ジョーンが開いた陶器輸入店を,長兄フレイジャーと二人で任されて商う。

1835年(31歳):12月ニューヨーク大火があり,一家はオスウエゴに引っ越す。兄ジョーンと合流しハリス兄弟商会を立ち上げ,兄は輸入,タウンゼンドは販売を分担する。父親亡きあと一家の長として母エリノアと暮らし(母が85歳で亡くなるまで),姪たちを養育する。商売のかたわら独学でスペイン語,フランス語,イタリア語を習得。ベンジャミン・フランクリンやトーマス・ジェファーソンに憧れ影響を受ける。貧困家庭子女の教育・医療・消防など社会活動に熱心で,進歩的な民主党員,敬虔なキリスト教者(聖公会)となる。

(2)教育委員会委員長時代<フリー・アカデミー創設にかけた生涯>

1842年(38歳):ニューヨーク市教育委員会発足,九区の代表を務める。

1846年(42歳):ニューヨーク市教育委員会委員長となる。「高等教育アカデミーまたはカレッジ設置のための特別検討委員会」を立ち上げ,無月謝の高等教育機関(フリー・アカデミー)設置に向けた論陣を張る。移民貧困層にも教育の場を与える必要性を説く。

1847年(43歳):2月10日ニューヨーク市教育委員会総会において,フリー・アカデミー創立案可決される。6月7日ニューヨーク市民投票により,フリー・アカデミー創立案承認される。6月の教育委員会総会で委員長留任,フリー・アカデミー建設特別委員会委員長に選任される(後に,シテイ・アカデミー創立者と称される)。11月4日母エリノア逝去。

1848年(44歳):1月26日ニューヨーク市教育委員会委員長及びフリー・アカデミー建設特別委員会委員長を辞任。母エリノアの逝去で悲嘆に暮れ,飲酒に浸る。

1849年(45歳):1月29日フリー・アカデミー落成式兼第一期生入学式挙行(現,ニューヨーク市立大学シテイ・カレッジ,CCNY,アメリカでもっとも古い公立大学のひとつ。ノーベル賞受賞者9名ほか多彩な人材を輩出)。この年,ハリスは兄ジョージと別れ陶器の商いから身を引く。帆船を借り切り,船主として中国貿易に乗り出す。居留民地域で多くの知己を得るが,商売は成功とは言えなかった。

(3)外交官時代<日本の門戸開放にかけた生涯>

1852年(48歳):東洋貿易を諦め,官職を得ようと運動を始める。上海でペリー提督に面会を求め日本への同行を願い出るが,民間人のため拒否される。

1854年(50歳):8月2日寧波領事に任命。

1855年(51歳):8月4日日本総領事に任命(上院の承認を経た正式任命は1856年6月30日)。

1856年(52歳):4月シャムと修好通商条約締結。8月12日サン・ハシントン号で香港出発。8月21日下田入港。9月3日玉泉寺を総領事館とし移り住む。9月4日星条旗を掲げる。

1857年(53歳):11月23日江戸に向け下田を出発。11月30日江戸へ到着。12月7日江戸城にて将軍家定に謁見。12月12日老中首座堀田正睦公邸で,日米修好通商条約締結が如何に緊急を要するかと4時間にわたり熱弁をふるう。

1858年(54歳):3月6日江戸より観光丸にて下田に戻る。4月18日観光丸で江戸に出立。6月18日帰村。7月27日ポーハッタン号で江戸に向かう。7月29日日米修好通商条約十四ヶ条締結。その後,英・仏・露・オランダ(安政の五か国条約),箱館・神奈川・長崎・兵庫・新潟開港,居住地を置く。7月30日ポーハッタン号で下田に帰村。

1859年(55歳):1月19日公使に昇任。4月7日ミシシッピー号で長崎・香港に旅行する。6月2日,玉泉寺総領事館を閉鎖。7月4日横浜開港(条約では7月1日,ハリスは米国の独立日を開港日とした)。7月7日麻布の善福寺を公使館とする。神奈川の本覚寺に領事館を置く。国際的金銀偏差の是正提言。プロテスタント宣教師の着任に対する配慮(ヘボン,ウイリアムス,ブラウン,シモンズら)。英語教育への貢献。

1860年(56歳):2月9日日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節をワシントンに送る。

1861年(57歳):1月15日ヒュースケン暗殺される。外交団代表として幕府の信頼を集め相談役を務めた。

1862年(58歳):5月8日帰国の途に就く(5年9か月の滞在)。英国から王室アジア協会中国支部会員に推挙され,フランスから国立動物学会の名誉会員の称号を贈られる。

(4)引退後の「老大君」と呼ばれた日々

1865年(61歳):11月15日将軍家茂から贈られた「名誉の剣(日本刀)」をグラント将軍に贈る。

1866~1877年(62-73歳)業績を表彰され,議会は生活補助金の支給を可決したが自己資金で慎ましく暮す。公職には就かず,ユニオン・クラブで時を過ごす。ニューヨーク商工会議所名誉会員,史学会,地理学会招請会員。動物愛護協会発起人,アメリカ自然史博物館建設発起人となる。

1878年(74歳):2月25日ニューヨークにて死去。ブルックリンのグリーンウッド墓地に埋葬(享年74歳)。生涯独身であった。墓碑のもとには功績を讃える二つの黒御影石の碑(シテイ・カレッジの創立者として,日本の良き友人として)が建っている。

伊豆下田を訪れ,玉泉寺,宝福寺,了仙寺,下田開国博物館などで「タウンゼンド・ハリス」の名前を耳にする機会があったら,彼には「外交官の他にもう一つ教育者の顔があった」と思い出して欲しい。アメリカでハリスは,初代駐日総領事として活躍した外交官というより,シテイ・カレッジの創立者として知られているのだと言う。両面の軌跡を辿ればハリスの人間性が浮かび上がり,歴史の真実に触れることが出来るだろう。

特に,①貧しくとも教育を受ける権利があると体感したこと(フリー・アカデミー創設の動機にもなる),②商売の中で習得した社交性(外交官時代にも人間関係を利用している),③人好き議論好きで,しかも一徹な性格(フリー・アカデミー創設,外交交渉場面で発揮される),④教育熱心な母から受けた愛情と強い結びつき(生涯独身であった),⑤母との離別や外交交渉の難事に寂しさを紛らす飲酒,⑥敬虔な聖公会教徒でありながら偏見を持たない柔軟性,⑦富に対する執着心の低さ(金儲け主義を軽蔑する性向)等々が,ハリスの人間味を彩っている。

創作上の虚構に満ちた「唐人お吉とハリスの関係」も,新たな側面で捉えることが出来るかもしれない。

参照:中西道子1993「タウンゼンド・ハリス,教育と外交にかけた生涯」(有隣堂)ほか


横浜馬車道にある「写真師下岡蓮杖顕彰碑」

2015-10-27 16:26:32 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

横浜の馬車道通り,弁天通り散策

10月某日,下田北高等学校第11回生同窓会が横浜で開催されたのを機会に,いつか訪れたいと思っていた馬車道通り,弁天通りを散策した。実は,馬車道通りには伊豆下田出身で日本写真の開祖と謳われる下岡蓮杖の顕彰碑があり,弁天通り5丁目周辺は安政の大津波で被災した下田の人々が多く移り住んだ場所である。

下岡蓮杖は文久2年(1862)野毛に初めての写真場を開業し,その後弁天通りに進出し,太田町5丁目角地(馬車道)で写真館を開業し成功している。また,蓮杖の弟子である鈴木真一も弁天通り6丁目で写真館を開業した。鈴木宅には北海道開拓に向かう依田勉三が投宿して出立の準備を進め,鈴木写真館では晩成社一行が記念写真を撮っている(帯広百年記念館に保存)。いわば,この周辺は進取の気概溢れた伊豆人が集いし場所であった。

1.日本写真の開祖,写真師下岡蓮杖顕彰碑

馬車道と弁天通が交差する弁天通4丁目の歩道に顕彰碑はある(県立歴史博物館の筋向い,損保ジャパン日本興亜馬車道ビルの向い)。赤御影石の台座の上に膨らみを帯びた円錐が形作られ,その頂点に写真機が乗っている。円錐体の歩道側下部に「日本写真の開祖,写真師・下岡蓮杖顕彰碑」の文字,車道側には「1862,横浜に写真館をひらく」とある。台座には,製作者 田辺光彰,寄贈 建立実行委員会,協力 馬車道商店街協同組合,一九八七・六と彫られている。即ち,記念碑は昭和62年に建立されたものである。

 

因みに,作者の田辺光彰(1939-2015)は横浜生まれの著名な彫刻家。イサム・ノグチの影響を受け,巨大なモニュメントなどの作品が多い。特に「農」をテーマにして野生稲保存・生物多様性などの作品を発表。作品はアジアの稲作地帯,国際的農業研究施設(国際稲研究所など),各国の国立研究所,美術館,博物館,国連機関(FAOなど)に収蔵展示されている。

傍らに,モニュメントの説明板があるので引用する。

「日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖(一八二三~一九一四)伊豆下田に生まれる

嘉永元年(1848)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した。

弘化二年(1845)狩野派の青年絵師が,銀板写真に遭遇し,そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ,日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖 下岡蓮杖その人である。蓮杖は,来日の外交人から湿板写真の機材を入手し,筆舌に尽くしがたい辛苦の歳月を経て,文久二年(1862)野毛に初めての写真場を開業し,その後,弁天通りに進出し,慶応三年(1867)太田町五丁目角地に「富士山」と「全楽堂」「相影楼」の看板を掲げた写真館を開き大繁盛をした。数多くの門下生を育て,我が国に於ける写真技術の先覚者として近代文化の発展に貢献した。その業績に敬意を表し,文明開化の地,馬車道通りに写真師発祥一二五周年,日本写真の開祖写真師下岡蓮杖顕彰碑を昭和六十二年(1987)建立をみたのである。

顕彰碑 下岡蓮杖顕彰碑建立実行委員会

碑文 横浜市写真師会設立百周年記念実行委員会

平成二十二年(2010)六月一日」。なお,説明板には写真が印刷され,当時の写真館の様子を窺い知ることが出来る。

 

2.馬車道は新しい文化が行き交う通りだった

横浜開港時の混乱を避けるために吉田橋を架け関門を設置し,その内側を「関内」と呼んでいたと言う。従って,馬車道(慶応3年計画道路として完成)は,外国人も住む関内と吉田橋を結ぶ道で,新しい文化が行き交う通りだった。なお,明治2年(1869)に吉田橋から東京に向けて日本初の乗合馬車が走り始めたが,この事業には下岡蓮杖が係わっている。

馬車道通りには現在,上記顕彰碑の他に「ガス灯記念碑」「アイスクリーム発祥記念碑,母子の像」「近代街路樹発祥の地記念碑」「日刊新聞発祥の地記念碑」「牛馬飲水」など多数の記念碑があり,歴史建築物も保存されている。また,ガス灯を模した街灯が並び,馬車をデザインしたロゴが到る所に散りばめられ,落ち着いた中にも楽しさを漂わせる通りになっている。

約150年の時を経た馬車道を歩けば,文明開化の浪漫を感じることが出来るだろう。「みなとみらい線」の馬車道駅,或いは横浜市営地下鉄ブルーライン「関内駅」,JR根岸線「関内駅」が最寄駅。

  

  

 

3.弁天通り5丁目

伊豆下田出身者が多く住んでいたと言われる「弁天通り5丁目」周辺。地図を頼りに行ってみると「弁天通5丁目」の標識があった。当時の面影は感じられず,東側には県立歴史博物館(旧横浜正金銀行本店本館),西側にはホテル等高層ビルが建っている。

大津波に全てを失い,新天地を求めてこの地にやって来た伊豆下田の人々は,この地で夢を実現できたのか。知る由もない。

 


伊豆の人-14,新選組隊士となった 「加納通広(鷲尾)」

2015-01-09 17:03:35 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

伊豆半島南端の南伊豆町に「加納」という地区がある

「黒船」「唐人お吉」で知られる下田から西に約10km,伊豆半島南端の南伊豆町に「加納」という地区がある。江戸時代には伊豆国賀茂郡加納村と呼んだ。下賀茂温泉郷があり,奥伊豆の山間を流れる二条川は青野川と合流し相模湾に注いでいる。温暖で長閑な風情を感じさせるが,耕地は狭隘で豊穣な土地柄とは言えない。

この加納村で,後に新撰組隊士となる一人の男(加納道之助,鷲雄,鷲尾,鴨雄,伊豆太郎)が誕生した。天保10年(1839)11月9日のことである。高野伴平(諱は宗通)・八重(影山氏の出)の長男で,幼名を道之助と言った。なお,明治維新後に「加納通広」と改名している。

1.奥伊豆の山村から新撰組隊士となる

何故,この山村から新撰組隊士なのか?

下田にペリー艦隊が再来航し,日米和親条約の細則である下田条約13箇条を了泉寺で締結したのは嘉永7年6月17日(1854.5.22),道之助16歳のときであった。道之助は下田まで歩いて行き,「ペリー艦隊の行列をみて,その尊大さと規律に驚いた」と後に語っている(明治三十四年史談会)。多感な年ごろであった道之助は,黒船来航に触発されて江戸へ向かったのだろうか。

深川の親戚の家に寄宿した道之助は,攘夷の気持ちを抱えて千葉道場に通い,また深川の千葉道場免許者谷鎌三,伊東誠一郎の道場で北辰一刀流の剣法習得に精進した。伊東道場では塾頭鈴木大蔵(後の伊東甲子太郎)の指導を受け,久留米出身の浪士篠塚友平(後の篠原泰輔)と親交を結ぶ。伊東甲子太郎,篠原泰輔との出会いが,道之助のその後の人生に大きな影響を与えることになる。

伊東甲子太郎は,剣術を究め,また水戸学・国学の教養を備えた憂国の士であったことから,多くの志士たちが彼の周囲に集まっていた。加納道之助もその一人であった。元治元年(1864),伊東甲子太郎が新選組に参謀として招かれ入隊したとき,加納道之助(鷲尾)らも行動を共にし,道之助は伍長としての処遇を得ている。入隊時の名簿(会津藩庁記録)によれば,加納鷲尾の武術流派は槍術大嶋流と記されているが,新撰組の中で特に武術に秀でた存在という訳でもなかったようだ。

2.新撰組を脱退し御陵衛士となる

何故,御陵衛士となったのか? 

幕府が進める長洲征伐や処分についての考え方の相違から,伊東甲子太郎は近藤勇と次第にそりが合わなくなる。近藤や土方が幕府の威勢を守り抜こうと考えたのに対し,伊東は西南諸藩から押し寄せて来る新しい時代の波を理解し始めていた。近藤と伊東の考え方の違いが顕在化するにつれ,隊内に伊東の同調者が増える恐れが出て来た。伊東は円満離隊の方策を模索し,分離という形式を近藤に要請する。近藤には絶対多数派の統率者であるとの自負もあったろう,伊東の分離要請を認めざるを得なかった。

慶応3年(1867)3月,伊東甲子太郎ら16名は「御陵衛士」を拝命し,新撰組屯所を去った。この中に,加納道之助(鷲尾)もいた。師と仰ぎ同志でもある伊東と行動を共にしたのである。後に,伊東ら御陵衛士は宿舎とした寺院の名前から,「高台寺党」と呼ばれるようになる。

3.油小路事件で伊東甲子太郎死す

円満分離に見えたが,その後も近藤ら新撰組と伊東一派の間には確執が絶えなかった。慶応3年(1867)11月18日,近藤から伊東の所へ一通の書状が届いた。「御高見を伺いたいので,拙宅までご来駕ありたい」とある。伊東一派には近藤の招きに疑義を抱く者がいたが,伊東は招きに応じた。伊東は近藤や土方らと酒宴後,帰路の油小路で,待ち伏せしていた大石鍬次郎や横倉甚五郎ら新撰組隊士に襲われ,一命を落としてしまう。

新撰組は,伊東の死骸を油小路七条まで引きずって行き,「御陵衛士隊長が何者かに暗殺されているから,遺体を引き取りに来られたし」と使いを走らせ,永倉新八,原田左之助ら40人ほどの隊士を忍ばせて高台寺党を撲滅しようとした。知らせを受けた衛士たち7名は油小路に駆けつけるが包囲され,服部武雄,毛内有之助,藤堂平助が命を落としてしまう。壮絶な死闘の中を,鈴木三樹三郎,篠原泰之進,加納道之助(鷲尾),富山弥兵衛4名が薩摩藩邸に逃げ込み,中村半次郎の配慮で匿われる。世に言う油小路事件である。当日不在であった他の衛士たちも薩摩藩を頼って参集し,薩摩藩の庇護を受けることになる。

4.近藤勇を襲撃する

慶応3年(1867)12月18日,篠原泰之進,加納道之助(鷲尾),富山弥兵衛,阿部十郎,佐原太郎,内海次郎らは,伏見街道丹波橋筋付近で近藤らを待ち伏せ狙撃し,伊東の仇を取ろうと図ったが,近藤は銃傷を受けたものの逃げ延びた。この半月後に鳥羽伏見の戦いが始まるが,近藤は負傷のため出陣できなかった。

5.薩軍に加わり出兵する

何故,薩軍に加わったのか? 

伏見薩邸にあった元御陵衛士たちは,それぞれ薩軍に加わり戊辰の役を戦っている。油小路事件で匿ってくれた恩義の念がそうさせたのだろう。

慶応4年(1868)2月16日,加納と清原は東山道総督府(総督岩倉具定)に所属する薩軍(島津式部,伊地知正治)に加わり奥州を転戦した。清原は白河城攻略戦で死亡するが,加納は若松城攻撃にも参加し,江戸へ凱旋した。加納は,戊辰の役で薩軍に所属して転戦した関係で,その後薩摩藩に抱えられ小姓組に列している。後の「開拓使各庁職員録」(明治14年)によれば,加納通広の身分は平民でなく(東京府)士族となっている。

6.大久保大和を近藤勇と看破する

戊辰の役では,下総流山に屯集していた旧幕府兵の隊長大久保大和が捕えられた。大久保大和は近藤勇に似ていると言うことになったが,誰も断定できない。そこで,薩軍に新撰組出身者がいたはずだと,加納通弘と武川直枝(清原清)が面通しに当り,近藤勇であると断定する(その後,近藤は板橋宿はずれで斬首される)。新撰組史や戯曲の中で,加納の名前がスポットを浴びるのは唯一この場面である。

また,戊辰戦後まもなくの頃,加納は新撰組時代の知人三井丑之助・前野五郎と図り,伊東甲子太郎の下手人であった大石鍬次郎を欺いて自宅に招き,官憲に引き渡した。加納の一途さを示す事例であろう。

7.北海道開拓使,農商務省官吏となる

何故,開拓使出仕なのか?

北方防備と北海道開拓のために設置された開拓使は,明治4年(1871)黒田清隆(次官,後に長官)が「開拓使十年計画」を建議し,大規模な予算を得てから,様々な事業が推進された。この頃から,黒田を頂点とした薩摩藩閥が開拓使の実権を握るようになり,多くの人材が登用された。薩軍として戊辰戦争を戦った加納鷲尾(通広と改名),阿部十郎(隆明と改名)と足立林太郎(民治と改名)の新撰組元隊士3名も前後して開拓使に採用され,東京出張所在勤となった。

加納ら新撰組元隊士の直属上司になる村橋久成(薩摩藩出身)もその一人である。村橋は薩摩藩第一次英国留学生(鎖国下の元治2年,変名で渡航)の一人でロンドンに留学経験があり,箱館戦争で総督府軍監として土方が指揮する旧幕府軍と激戦を展開した人物である。村橋は開拓使に出仕し,エドウイン・ダンらの指導の下で東京官園,七重官園,琴似兵村の立ち上げに尽力し,明治9年(1876)には札幌に麦酒醸造所(現サッポロビール前身),葡萄酒醸造所,製糸所の建設を行うなど殖産興業に力を発揮した。

加納は村橋の下で,東京出張所勧業課試験場培養掛で事務会計を担当,七重勧業試験場に在勤したこともあるという。また,札幌本庁の勤務となってからも勧業課会計事務を担当した。明治15年(1882)開拓使が廃止されると,農商務省北海道事業管理局札幌工業事務所に移り業務を継続,明治19年(1886)三県制度の廃止にともない北海道庁が設置されると退職し,東京で北海道物産の商事会社を営んだ。因みに,阿部隆明は果樹園の払い下げを受け,北海道果樹協会を設立して理事に就任し,北海道果樹栽培の発展に貢献した。また,足立民治は製糸所の払い下げを受けて札幌製糸会社を興し,養蚕振興に尽力,札幌区会議員や札幌商業会議所議員などを歴任している。

8.依田勉三の十勝開拓に助言する

明治15年(1882)6月15日,依田勉三と鈴木銃太郎は札幌に加納通広を訪ね,札幌本庁で渡瀬寅次郎(沼津兵学校付属小学校出身で札幌農学校一期生,札幌県庁御用係),佐藤秀顕大書記官(県令調所廣丈に次ぐ職位)から,開拓地選定について助言を受けている。

依田勉三と加納通広の接点はどこにあったのか?

十勝開拓を志した「晩成社」社員13家族の出身地をみると,1家族を除く全てが加納村,市之瀬村,青野村,二条村,小野村,大沢村など全てが加納通広と同村もしくは燐村で,同郷と呼べる間柄である。加納はこの頃鹿児島藩士を名乗っていたが,勉三は加納が同郷で開拓使官吏であることを知っていたことになる。勉三が,誰から何処で加納のことを聞いたか明らかでないが,同郷の繋がりがあったと考えてよいだろう。

9.村橋久成の葬儀を手伝う

加納らの元上司であった村橋久成(薩摩藩出身)は,明治14年5月開拓使を突然辞職し,知内村に設立された牧畜会社の社長に就任するが,その後托鉢僧となり行脚放浪の旅に出てしまう。その理由は,黒田清隆らが進める「官有物払下げ事件」に失望したのではないかと推察されている。

行方不明であった村橋久成が,神戸市葺合村六軒道の路上で「行き倒れ」で発見されたのは明治25年(1892)9月25日,10年も経過してからであった。10月12日新聞の死亡広告で村橋の死を知った黒田清隆は遺体を東京に運び盛大な葬儀を執り行った。この時,開拓使時代の部下であった加納通広が村橋の二男と共に遺体の搬送など死後処理一切を行い,葬儀の会計事務を担当したとある。

10.晩年の暮らし

戊辰戦争が決着した頃(明治2年),加納通広は浅草区今戸町井上蔀の二女「きん」を入籍している。青山墓地にある加納家の墓所に,「明治四年十月二十日秋山妙高童女,鹿児島藩加納伊豆太郎長女俗名八重女」の墓があることから夭逝した女子がいたと考えられる。更に明治10年に娘ミチヲを得ている。なお,加納通広の除籍謄本には長女「よう」の記録があるので,「きん」とは再婚だった。

北海道での勤めを退き,東京に戻ってからの事業について詳細な情報はないが,安穏な暮らしを送ったのではないだろうか。明治31年には長崎県彼杵郡福島村井出正平の四男潤四郎を養子に迎え,明治34年に家督を譲り隠居の身となった。そして翌年(明治35年10月27日)逝去。享年64歳であった。

11.加納通広の軌跡

新撰組についての研究は多く,小説や戯曲など創作も入り交って多様な見方が存在する。本項で取り上げた「加納通広」について言えば,伊東甲子太郎と行動を共にした同志として名前が出てくること,油小路事件に関与したこと,偽名を使っていた近藤勇を看破したことなどで取り上げられるに過ぎない。近藤勇や土方歳三ら保守本流筋からは裏切り者のレッテルを貼られることも多いが,加納にすれば不本意だろう。幕府に殉ずるか,国を憂うるのか,いずれも憂国の士であったのだ。

加納通広の軌跡(新選組隊士→御陵衛士→薩摩藩士→開拓使官吏)は,幕末から明治の時代を駆け抜けた一人の男,「国を思い,義に生きる」男の生き様ではないか。千葉道場で北辰一刀流修業を積みながらも武術に名を残すでもなく(刃の下を数度となく潜り抜けているが),師と仰ぐ甲子太郎や恩を得た薩藩及び開拓使上司村橋久成らに従い,誠実に生きた一生である。加納通広は一途な伊豆人であったと言えようか。

◆加納通広略歴(年齢は数え年)

天保10年(1839)11月9日:伊豆国賀茂郡加納村(現南伊豆町)にて百姓高野伴平(諱は宗通,明治30年頃の加納通広除籍謄本では前戸主亡父加納伴平とある1))・八重(影山氏の出)の長男として生まれる(幼名は道之助,江戸に出て加納道之助,鷲雄,鷲尾,鴨雄と名乗る。別名を伊豆太郎。維新後は通広と改名)。

嘉永5年(1852):母八重死亡(道之助14歳)。

嘉永7年(1854):日米和親条約締結(3月3日,新暦3月31日,下田は即時開港)。ペリー艦隊下田へ再来航し停泊,港湾測量や陸上調査を行っている。下田まで歩いて行列を見に行った道之助の衝撃は大きかった(道之助16歳)。江戸へ出て深川の親類の家に寄食,深川佐賀町にあった北辰一刀流千葉道場に入門。谷謙三らに剣術,小西金蔵らに漢学を学ぶ。この年下田では,下田条約調印(5月25日),ロシア交渉開始(11月3日),大地震とデイアナ号大津波被害(11月4日)など,多難な時が流れていた。安政に改元(11月27日)。

安政2年(1855):安政地震被害を知り下田に戻る(道之助17歳)。下賀茂の女性と結婚(加納は幕末の在郷時代に現地妻がいて一男児を儲けたとの話もある1)),長女「よう」を得る(安政6年12月21日生れ)。道之助20歳。妻子を置いて江戸に出る。江戸深川佐賀町の鈴木大蔵(伊東甲子太郎)に師事。この頃,浪士篠塚友平(篠原泰輔,後の㤗之進,秦林親)と親交を結ぶ。

文久年間:神奈川奉行の配下にいた篠原に従い横浜居留地,運上所の警備にあたる。

文久3年(1863):10月服部武雄,篠原泰之進ら12人と尊王攘夷の盟約を結ぶ(後の高台寺党)。

元治元年(1864):10月伊東甲子太郎らと上洛して新選組に入隊。

慶応元年(1865):新選組では伊東甲子太郎が参謀に迎えられ,加納は伍長となる(伊東一派では,三木三郎が九番隊長,篠原泰之進が諸士調役兼監察,中西登と佐野七五三之助が伍長)。

慶応3年(1867):伊東甲子太郎は近藤勇と時勢感の違いから新選組と決別し,同志らと高台寺党を名乗り,孝明天皇御陵衛士を拝命する(加納も行動を共にする)。11月伊東が近藤に呼び出され七条油小路で暗殺される。この乱闘に巻き込まれた道之助は薩摩屋敷に逃れ一命を取り止める。12月18日,泰之進,阿部十郎らと藤森神社付近で近藤を待ち伏せ襲撃,銃創を負わせる。江戸探索方となり,相楽総三らと赤報隊を結成するが間もなく分かれて帰京。

慶応4年(1868)2月16日:東山道総督府(総督岩倉具定)に所属する薩摩軍(島津式部,伊地知正治)に加わり奥州などを転戦。官軍は,同年4月下総流山の旧幕府軍屯集兵所を襲い投降させた。この屯集兵の隊長は大久保大和はと名乗っていたが,加納と清原清(武川直枝)が面通して正体を偽った近藤勇を看破し,近藤は捕縛され斬首された。戊辰戦争では薩摩軍に属し転戦した関係で,薩摩藩に抱えられ小姓組に列した。

明治2年(1869)2月1日:東京府浅草区今戸町井上蔀の二女「きん」(嘉永3年12月17日生れ)を入籍(加納30歳,きん20歳)。

明治4年(1871)10月20日:娘八重,夭逝(加納家の墓所に,秋山妙高童女,鹿児島藩加納伊豆太郎長女俗名八重女の墓がある1))。同12月9日:北海道開拓使東京出張所在勤,勧業課試験場培養掛事務会計(任開拓使掌,加納通廣に改名)。なお,開拓使設置は明治2年(1869 )。

明治5年(1872)3月9日:任開拓使権少主典。同年6月20日任開拓使少主典,同8月25日任開拓使権中主典。

明治6年(1873)3月7日:七重勧業試験場(函館七飯村)会計事務取扱胃として派遣。

明治7年(1874)12月24日:東京出張所に帰任。

明治8年(1875)2月2日:任開拓使十等出仕。

明治9年:村橋久成により札幌に麦酒醸造所,葡萄酒醸造所,製糸所が設立される。札幌本庁勧業課在勤となる(会計事務担当,村橋の直属部下)。

明治10年(1877)1月29日:任開拓使五等属。同2月16日:娘ミチヲ出生。西南戦争に参軍として参戦した黒田清隆に随行。

明治12年(1879)3月18日:札幌在勤となり,6月16日民事局勧業課に出仕。

明治14年(1881)3月8日:任開拓使四等属

明治15年(1882)2月8日:開拓使廃止に伴い,7月1日開拓使会計残務整理委員,7月14日農務省札幌勧業育種場詰め(札幌紡績所兼務),同省農務局兼工務局事務取扱。札幌・函館・根室3県を置く(1882 )。同6月15日:依田勉三と鈴木銃太郎の訪問を受け,札幌本庁で渡瀬寅次郎らの開拓地選定助言に立ち会う。

明治16年(1883)3月6日:農商務省北海道事業管理局事務取扱,同省札幌工業事務所在勤。5月26日札幌工業事務所管業課。

明治19年(1886):北海道庁に転属(四等属,この年三県制度を廃止し北海道庁設置)。同2月退職。東京に戻り北海道物産の商事会社を営む。

明治31年(1898)10月8日:長崎県彼杵郡福島村井出正平の四男潤四郎を養子に迎えた(娘ミチヲと婚姻)。芝区新銭座一番地から麻布区村木町九番地へ転籍。

明治34年(1901)8月7日:養嗣子潤四郎に家督を譲って隠居する。麻布区永坂町一番地へ転籍。

明治35年(1902):10月27日麻布の自宅で逝去,享年64歳。墓所は青山霊園。墓石は高さ1.5mほどの自然石で,墓銘は正面に「加納通広 妻喜舞子 之墓」とあり,裏面には略歴「加納通広ハ天保十年十一月九日伊豆ノ国賀茂郡加納郷ニオイテ生レル。父ハ宗通,母ハ影山氏ナリ。明治維新ノ際東西両京ニ奔走シテ王事ニ勤労シ・・・(市居浩一「新撰組高台寺党」から転記)」が刻まれている。

参考文献:本項は以下の出版物,資料を参考に整理した。市居浩一氏,田中和夫氏の著作によるところが大きい。1)市居浩一「新撰組高台寺党」新人物往来社2004,2)田中和夫「札幌に住んだ新撰組元隊士」北海道新聞2004.7.7,3)北海道久成会事務局「北海道久成会会報第三号」2004.7.20,4) 札幌県編「札幌県職員録」明治16年1月26日,5)清水初太郎編「開拓使各庁職員録,附郡區吏並町村戸長」明治14年2月15日,6)萩原実監修・田所武編著「拓聖依田勉三伝」昭和44年,7)北国諒星「開拓使にいた!龍馬の同志と元新選組隊士たち」北海道出版企画センター2012.5.10,ほか

追記:七重官園のあった場所はもともと,蝦夷共和国総裁榎本武揚がプロシャの貿易商ガルトネルに永年貸与(99年)した土地であった。明治政府は難しい外交交渉を行い莫大な保証金(6万5千2百ドル)を支払って買い戻し,明治3年(1867)七重開墾場(七重官園)を設置したのである。現在,函館から大沼公園に向かう国道5号線沿い,七飯町内に小さなブナ林を見ることが出来る。此のブナ林はガルトネルのブナ林と呼ばれている。

加納通弘が七重官業試験場(七重官園)に在勤していた頃から数えて125年後の平成8年(1996)から平成9年(1998)にかけて,筆者は道南農業試験場の場長職にあった。道南農業試験場は,七重官園(七重種畜場)が明治27年に廃止されたのを受け,明治42年(1909)に設置された組織である。当時は加納通弘が七重官園に在勤していたことを知る由もなかったが,今やこの地は一層懐かしく思い出される場所となった。筆者が加納通弘生誕地に近い奥伊豆出身だからなのか。 


伊豆の人-13,ハリスに仕えた二少年「村山滝蔵」と「西山助蔵」

2014-12-12 16:03:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

 安政3年初代総領事タウンゼント・ハリスは下田に着任した

幕末の嘉永7年(1853)3月,米国のペリー提督によって二百年以上続いた鎖国の扉が開かれた。そして,この時締結された「日米和親条約」(日本國米利堅合衆國和親条約,Convention of Peace and Amity between the United States of America and the Empire of Japan)の第十一条によって,初代総領事タウンゼント・ハリスは通訳兼書記のヒュースケンを伴って下田に着任した。安政3年(1856)のことである。

安政3年8月5日(1856.9.3)サンジャシント号から玉泉寺(柿崎)に移ったハリスは,翌日(8月6日)境内に星数31の星条旗を掲揚し,日本最初の領事館としてスタートしたのである。領事館には香港から連れてきた5人の中国人(料理人など)がいたが,身の回りの世話をする給仕を雇い入れたいと,ハリスは奉行所に斡旋を申し入れた。

◆ハリスに仕えた下田生まれの「二少年」

当時は長い鎖国が終わったばかりの時代。外国人の下で働こうとする希望者は無く,また奉行所も村人が外国人に近づくのを禁止していたこともあって,ハリスに何とか諦めさせようとするが強硬な要求に押し切られてしまう。結局,二人の少年(村山滝蔵と西山助蔵)を領事館に出仕させることになったのである(情報収集を言い含めたかもしれない)。二人は,8月17日奉行所調役脇屋卯三郎と通訳森山吉太郎に付き添われて領事館に向かった。

滝蔵は満14歳,助蔵は満13歳,今でいえば中学生の少年で,足軽に採用されたばかりだった。幕府は下田を開港するにあたって,安政2年(1855)中村に奉行所と役宅を設けたが,1万360坪の広大な田畑を埋め立てたため土地を失った農民の子弟を足軽として雇用していたのである。滝蔵と助蔵も安政3年の春,足軽となり,四石二斗二人扶持の身分であった。否と言えるような立場ではなかった。

出仕した二人は,山門を入った右手の長屋に寝起きし,滝蔵はハリス,助蔵はヒュースケン担当の給仕として働くことになる。言葉が通じず,習慣も全く違う生活で,二人の少年はどれほど戸惑ったことだろう。そのような中で,ハリスは少年たちに優しく接し多くの事を教え,また真面目に働く少年たちからは日本人の心を知り,二人と話すことにより安らぎを得ていた(そのような二人との関係がハリス日記の節々からも読み取れる)。不思議な運命に巻き込まれた二人の少年が,陰ながら両国友好の大きな力になったであろうことは想像に難くない。

幕末下田の歴史の中で語られるのは,日本全権の林大学頭,井戸対馬守,伊沢美作守,都築駿河守ら,日露交渉全権の筒井政憲,川路聖照謨など幕府要人の対応であり,下田奉行ら役人の姿である。そして,後日の物語では唐人お吉が悲劇の主人公として語られる。下田における開港の歴史ロマンを語るには,お吉物語も可としよう。

しかし一方,外交の表舞台には登場しないが,アメリカ領事館(後に公使館)内で甲斐甲斐しく働いた二少年(滝蔵と助蔵)がいたことを,もっと注目すべきではなかろうか。今でも海外公館にはローカルスタッフがいて,外交における縁の下の力を発揮しているが,二人が領事館に勤務した頃の時代背景は全く異なる。先駆者たる二人の意義は,もっと評価されて良い。

滝蔵は,17歳の時ハリスの上海旅行に同行,25歳時にはプリュイン公使に伴い渡米,51歳時にはオーストリア皇太子の接待役を務めるなど,長く公使館で働いていた。また助蔵は長男であったため29歳の時郷里に戻るが,4代の公使に仕え,聞き覚えの英語をまとめた英和辞典を残している(豆洲下田郷土資料館)。二人は,日米両国の懸け橋となったのである。

二少年の略歴等については,郷土史家肥田実氏の研究著作(肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館2009,「肥田実著作集,幕末開港の町下田」下田開国博物館2007)に詳しい。同書およびその他の資料を参考にして,二人の略歴を整理した。

◆村山滝蔵の略歴

天保13年(1842):滝蔵生まれる。

安政3年(1856)春:滝蔵,足軽に採用される(四石二斗二人扶持)。

安政3年8月17日(1856.09.15):滝蔵満14歳,ハリスに仕える(住み込み給仕として,山門を入って右側の長屋で寝起き,月一両二分の手当)。

安政4年10月7日(1857.11.23):ハリスの江戸行に同行する(滝蔵のために紋付羽織を注文,白木屋)。

安政6年(1859):ハリスの長崎・上海・香港旅行(ミシシッピー号)に同行する。

安政6年6月8日(1859.07.07):善福寺(公使館)に移り住む。

元治2年(1865):滝蔵25歳,プリュイン公使帰国時に米国へ同行する。

元治2年(1865):帰国後妻ウタを迎え,神奈川本覚寺(領事館),東京公使館に勤める。

明治26年(1893):オーストリア皇太子(フランツ・フェルデイナント)訪日時の接待役(滝蔵51歳)に任じられる。同国勲章を受ける。

明治39年(1906):二男瀧三郎の住む大連に移る。

明治44年(1911):妻逝去(滝蔵70歳)

大正7年(1918):大正4年に一時下田に帰るが,二年後大連に戻り,瀧三郎四男新平を養子に迎える。大連で没(満76歳),目黒の大円寺に眠る。

◆西山助蔵の略歴

天保14年(1843):助蔵生まれる。

安政3年(1856)春:助蔵,足軽に採用される(四石二斗二人扶持)。

安政3年8月17日(1856.09.15):助蔵満13歳,ヒュースケンに仕える(住み込み給仕,山門を入って右側の長屋で寝起き,月一両二分の手当)。

安政4年(1857):ハリスの江戸行に同行する(助蔵のために紋付羽織を注文,白木屋)。

安政6年6月8日(1859.07.07):善福寺(公使館)に移り住む

元治2年(1865):プリュイン帰国時に,助蔵は長男のため家の反対で渡米せず。

明治3年(1870):4代の公使に仕え郷里下田に戻る(助蔵29歳),妻(まつ)を迎える。

大正10年(1921):3月1日逝去(満78歳),徳蔵寺(下田)に眠る。

◆思いを馳せる

平成26年11月下旬の連休,伊豆の街は温暖な天候に恵まれ,紅葉の季節も近いとあって久々の賑わいを見せていた。伊豆急下田駅でレンタカーを借り,下田街道(天城街道)を稲生沢川に沿って走る。稲生沢川を渡った右手にある下田警察署の辺りが下田奉行所の置かれた場所,さらに700m程進むと右手に「徳蔵寺」がある。

「ああ,此処が西山助蔵の眠る寺か」

「幕末の時代,外国人に仕えた少年は何を考えていたのだろう」

思いを馳せた。

写真はアメリカ領事館が置かれた「玉泉寺」(下田市柿崎,写真は2012.9.20撮影)と西山助蔵が眠る「徳蔵寺」(下田市西中,写真は20144.21撮影)

 


伊豆の人-12,「写真師・鈴木真一」(下岡蓮杖の弟子)が晩成社移民団出立の記念写真を撮った

2014-06-02 13:43:47 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下岡蓮杖の門下には,出藍の誉れ高い写真家が多く誕生しているが,「鈴木真一」もその一人である。なお,本稿で取り上げる,下岡蓮杖・鈴木真一・依田勉三はいずれも伊豆の人,同郷の繋がりが歴史を彩っている。

◆鈴木真一略歴

斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007)を参考に,鈴木真一の略歴を辿ってみよう。

 

鈴木真一(幼名勇次郎)は,天保6年(18354月,伊豆国賀茂郡岩科村字岩地(現・松崎町)農家・高橋文左衛門の三男に生まれた。安政元年(1854)下田の鈴木與七の婿養子となったが,折しも下田を襲った大津波(東海大地震)で財産を失ってしまう。

被災者たちの多くは,安政6年(1859)横浜が開港されると横浜に移り住むが(横浜野毛,弁天通五丁目に下田出身者が多かった。震災から立ち直りかけた矢先,海外への窓口が下田から横浜に移ったため気鋭な人材の多くが横浜に向かった),鈴木真一もその中の一人であった。蚕卵紙の仲買をしていたとも伝えられるが,慶応2年(1866)同郷のよしみから下岡蓮杖の門を叩き,写真の修業に励んだ。そして,明治6年(187311月独立して,弁天通六丁目に「鈴木写真館」を開業。真一と改名する。同年,蓮杖門下の後輩であった岡本圭三(群馬県出身)を婿養子(長女のぶと婚姻,圭三は後に二代目真一を名乗る)に迎えた。

開業後の鈴木真一は,肖像写真の撮影,日本の名所や風俗の彩色写真販売,陶磁器への写真焼き付けに成功し,明治17年には真砂町に写真館を新築移転している。「横浜創設水道事業の記録写真」や「明治初期ニ於ケル横浜及び其附近写真」を残すなど,当時一流の写真家として認められるようになった。

明治30年(1897)長男伊三郎に家督を譲り隠居生活に入る。大正7年(1918)逝去。

なお,宮内庁御用達として明治天皇の母英照皇太后及び皇后陛下を撮影したのは,二代目鈴木真一である。

◆鈴木真一は,依田勉三の叔父

岩科村字岩地(現・松崎町)の高橋家は,伊豆国那賀郡大沢村(現・松崎町)の旧家依田家と姻戚関係にある。すなわち,依田佐二平や勉三の父である善右衛門が高橋家から文(ぶん)を娶っている。この「文」が鈴木真一(幼名勇次郎)の姉にあたる。

北海道開拓の夢を抱いて十勝へ出立する依田勉三は,当時横浜で写真館を営んでいた鈴木真一の所に寄宿し準備を進め,「晩成社」移民団も出発直前に集合し記念写真を撮っている。

◆鈴木真一,依田勉三と鈴木銃太郎の写真を撮る

晩成社の設立を見届けた依田勉三は,明治15年(1882429日北海道における入植地を決めようと大沢村を出発。前年に続く再度の北海道である。59日には静岡県庁に出向き北海道開墾に関し願書を提出,10日横浜に着いて弁天通りの鈴木氏宅に投宿,61日に鈴木銃太郎と「九重丸」にて横浜を出港した(勉三日誌から)。

ここで,勉三が横浜に出てから出発(61日 )までの宿舎としたのは,鈴木銃太郎の実家ではなく,勉三の母方の叔父(母・文の弟)である鈴木真一が営む写真館であった。また,勉三と銃太郎が出発直前に記念撮影した写真が帯広百年記念館に保存されているが,鈴木写真館で撮影されたものと推察されている。勉三29歳,銃太郎26歳であった。

この北海道視察で十勝平野の中心部オベリベリ原野を開拓地と決め,同行の晩成社幹部・鈴木銃太郎は単独越冬することになる。

◆鈴木真一,渡辺勝とカネの婚約写真を撮る

晩成社幹部・渡辺勝とカネの婚約記念写真(帯広百年記念館蔵)も横浜弁天通り鈴木写真館で撮影されたことが,「渡辺勝・カネ日記」に記載されている。

11日:晴。横浜鈴木真一君方に止宿し居る。前10時東京行き汽車に乗し東京西久保葺手町ワッデル教師方に至る。

12日:晴。日本橋辺に書籍等を求む。夜ワッデル方に泊す。

13日:晴。須藤氏,石川氏と遊歩し,九段鈴木氏方にて写真を撮り,ワッデル方に泊す。

14日:後4時汽車にてワッデル氏と共に横浜に至り二百拾二番女学校長クロスビー氏を訪う。これ余と鈴木氏の縁談の事に付きてなり。晩飯を供せらる。夜鈴木親長君方に泊す。

15日:前諸店にて農具器械を問い合わす。鈴木真一君方に至る。後鈴木氏と写真を撮る(作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」から一部引用)。

ここで,「九段鈴木氏方」とは横浜の鈴木写真館の東京支店(明治14年,東京へ進出),「鈴木親長」とは銃太郎・カネの父親,5日付の「鈴木氏と写真を撮る」の鈴木氏は婚約者の鈴木カネである。

◆鈴木真一,晩成社移民団の出立記念写真を撮る

晩成社移民1327名は,明治16年(1883410日横浜港を出港した。その直前,49日と10日に撮影された集合写真が帯広百年記念館に保存されている。

勉三の日記から,集合写真は明治164910日に鈴木写真館で撮影された)。

49日:今明両日をもって写真師鈴木氏に乞い願い影を写し,1名を1号となして総員27名なり。

410日:午後,皆汽船高砂丸に乗りて6時に横浜を出でたり(作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」から一部引用)。

出発直前の慌ただしさの中での記念撮影であったのだろう。集合写真は日を変えて2枚存在する(一枚には進士五郎右衛門・文助の2名が欠け,二枚目には吉沢竹二郎が抜けている)。

異なる分野であるが歴史に名を残した同郷の鈴木真一と依田勉三は,明治の一時期に横浜で接点があった。これも歴史のドラマと言えようか。

歴史の中で,「同郷の絆」がしばしば顔を見せる。

5月下旬のある日「下田開国博物館」を訪れ,鈴木真一が新しく成功した「陶磁器への写真焼き付け」とはどのようなものか見ることが出来た。陳列されているのは,生家の高橋家に残された「自身の肖像と履歴を焼き付けた骨壺」だと言う。淡い存在感,注意しないと見落としてしまうかもしれないが,これも歴史の証言者。

下岡蓮杖と鈴木真一を辿る旅は,日本写真黎明期を知る端緒となった。次は,横浜場所道通りを歩き,帯広百年記念館を訪ねてみるか。

参照:作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」帯広百年記念館紀要192001),斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007), 肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009


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伊豆の人-11,写真術の開祖 「下岡蓮杖」

2014-05-26 15:51:17 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

下田城山公園蓮杖台の下岡蓮杖顕彰碑と胸像

下田城山公園の一角,蓮杖台と呼ばれる高台に下岡蓮杖の顕彰碑と胸像がある。顕彰碑(昭和3年建設)には渋沢栄一筆で「下岡蓮杖翁之碑」と刻まれ,重岡健治製作の胸像(生誕160年を記念して,昭和59年建設)は写真機と蓮根状の杖を持った姿である。

下岡蓮杖は文政6年下田生まれの,わが国における写真術の開祖とされる人物。下田小学校校歌には,「愛の正長 技の蓮杖 学の東里を育みて,永遠に輝くいさおしの誉れも高き我が下田」と謳われ,下田の基礎を築いた奉行今村伝四郎正長,儒者で天才詩文家の中根東里と並び称される。

蓮杖の経歴は,彼が晩年に語った談話筆記に基づく場合が多く異説も多いが,肥田喜左衛門,斎藤多喜夫氏らの研究でかなり明らかになってきた。詳しくは付表をご覧頂くことにして,先ずは蓮杖の一生を辿ってみよう。

◆下岡蓮杖年譜(概要)

1.生い立ち

下岡蓮杖,文政6年(1823)伊豆国下田仲原町で代々廻船問屋をつとめる櫻田與惣右衛門の三男として生まれる。幼名久之助。幼少より絵を好む。幼くして岡方村土屋善助の養子となるが,天保3年(1832)養父母が他界したため実家に戻る。天保6年(1835)江戸横山町の足袋屋へ丁稚奉公に出されるが,嫌気がさし下田に戻る。

 

2.狩野菫川の門弟となる

天保13年(1843)下田に設けられた台場付の足軽となるが,画筆で身を立てたいとの思いは強く,下田砲台同心・鹿子畑繁八郎の紹介で,幕府の御用絵師である狩野菫川に入門。菫園の号を与えられる。本格的な絵の修業に取り組み,次第に頭角を現す。天保14年(1844)浦賀奉行土岐丹波守の世話で浦賀平根山砲台付足軽となる。

3.銀板写真と出会う

弘化2年(1845)オランダ船がもたらした銀板写真をみて驚嘆,写真技術を学ぼうと決意する(弘化2年,嘉永3年,安政4年など諸説がある)。技術習得には写真を写せる外国人に近づくのが早道と思いつめる。

弘化3年(1846)久里浜に投錨したアメリカ船が発見されると,幕府より「絵図に書きとるよう」命を受けて外国船に接し,見取り図を作成。この頃(嘉永67年),ペリー艦隊の写真師ブラウン・ジュニアやプチャーチン艦隊のモジャイスキーが下田・箱館で数枚の写真を残しているが,蓮杖が彼らに接触した記録はない。

安政3年(1856)玉泉寺がアメリカ領事館となると,下田に戻って領事館の給仕使となりハリスの通訳ヒュースケンから写真撮影を学ぼうとするが,目的を達することは出来なかった。写真技術習得の夢は果たせず,焦燥の日々であったろう。安政6年(1859)江戸城本丸が炎上(十月)すると,師菫川に呼ばれて復旧工事に従事している。

嘉永6年(1853)蓮杖を名乗る(蓮杖が愛用した唐桑製の杖に嘉永6年の文字が刻まれている。この杖の形状から蓮杖と呼ばれ,自身も名乗るようになったと言う)。

4.写真術習得と写真館開業

万延元年(1860)横浜でアメリカ商人ショイヤーの夫人アンナ(画家)からパノラマ画油絵を学ぶ。同時に,ショイヤーの客人であった写真家ウンシン(ジョン・ウイルソン)から写真術の習得に努める。そして,文久元年(1861)ウイルソンが帰国することになり,自身が描いたパノラマ画と交換に写真機を手に入れる。さらに,ウイルソンのスタジオ(駒形町)を継承し外国人相手に撮影を行う(ショイヤーの都合により戸部に転居)が,ウイルソンから譲り受けた薬液が尽きてしまう。化学知識の乏しい蓮杖にとって寝食を忘れ刻苦して調合を研究1年余,写真技術を己のものにした時の喜びの様子が語り継がれている。

文久2年(1862)横浜野毛に写真館を開業(全楽堂,後に弁天通に移転,横浜における日本人最初の営業写真館であった)。

5.千客雲集の盛況

慶応元年(1865)妻・美津が体調を崩したため下田(殿小路)に戻り写真館を営む。この頃「下岡」と改姓する(生地の下田と養父先の岡方村から一字を取ったと言う)。

慶応3年(1867)横浜に戻り,本町通(現・馬車通)で写真館を再開業,「相影楼」「全楽堂」の看板を掲げる(中央には英文の大看板を添える)。一階は茶屋を兼ねた売店,二階が撮影場。着色した「横浜写真」や「横浜絵」が評判を呼ぶ。外国人のお土産品として人気があったと言う。門下に,横山松三郎,臼井重三(秀三郎,蓮節),鈴木真一,江崎礼二,船田万太夫,中村竹四郎ら。

また,明治2年(1869)横浜居留地と筑地居留地間の乗合馬車営業を始め,明治5年(1872)牛乳販売業,石版印刷業を始めるなど,好奇心旺盛で商才にたけた蓮杖の姿が伺える。いずれも開祖と称されるほど逸早く取り組んでいるが,事業としては成功していない。

6.晩年の蓮杖

明治7年(1874)横浜海岸教会で洗礼を受ける。明治8年(1875)妻の美津逝去後は,横浜にあった三軒の写真館を弟子たちに譲り浅草公園五区に転居。時代と共に写真技術は進化し,多くの写真家たちが活躍するようになる。蓮杖はスタジオ写真用の背景画を描くなど,画筆を楽しみ余生を送った。明治12年(1879)には登和を後妻に迎え,大正3年(1914)浅草で逝去(三月,享年92歳,墓は巣鴨の染井墓地にある)。

◆元祖の地位

わが国における写真術の開祖として,「西の上野彦馬,東の下岡蓮杖」と言われてきた。彦馬はオランダ人から化学や写真術を学び,文久2年(1862,蓮杖と同年)長崎で「上野撮影局」を開業。もう一人は,鵜川玉川。師であるフリーマンの写真館を引き継いで1年早い文久元年(1861)に江戸薬研堀で開業している。厳密に言えば,鵜川玉川が元祖であると言えるかもしれない。

いずれにせよ,ほぼ同時期に写真技術を習得し営業を開始した,鵜川玉川,下岡蓮杖,上野彦馬三名を写真術の開祖と言って良いだろう。

◆下岡蓮杖の再評価

上野彦馬は,外国人だけでなく坂本竜馬,高杉晋作ら幕末の志士たちの肖像を撮影し,写真現存している。一方,蓮杖の写真は震災等で多くが紛失したこともあり数が少ない。また,弟子の横山松三郎,鈴木真一らに比べ写真技術が劣るなど評価が芳しくなかったが(ピントの甘い,やらせ写真と揶揄する者もいた),蓮杖の写真が発見されるにつれ評価が高まっている。特に,風景や市井の人々を対象にした風俗写真(演出による絵画的な構図が取り入れられている)は暖かみがある。幼少の頃から絵を好み,狩野菫川門下で修業を積んだ絵師の技術が活かされていると思われるのだが・・・。

幾多の逸話があるが,ここでは省略しよう。興味のある方は,下記の資料を参考にされたい。なお,横浜市馬車通にも「日本写真の開祖,写真師下岡蓮杖顕彰碑」(昭和62年建設)がある。

下田城山公園の蓮杖台を訪れたのは五月下旬であったが,初夏を思わせる暑い日であった。下田開国博物館から,ペリーロードを港に向かい散策し,なまこ壁の旧澤村邸(市歴史的建造物指定)脇の石段を城山公園に向かって上る。石段は昼の陽射しを受けて汗ばむほどであったが,蓮杖の記念碑前に立つと港からの涼しい風が頬を撫でた。

そして,いつも持ち歩くメモ用の小さなカメラを胸像に向けた。幕末から明治にかけて先駆けした写真術開祖の苦労を偲びながら・・・。

参照:下田巳酉倶楽部「下田の栞」大正3年(国立国会図書館近代デジタルライブラリー),作間勝彦「晩成社移民団関係写真と写真師・鈴木真一」帯広百年記念館紀要192001),斎藤多喜夫「幕末明治横浜写真館物語」吉川弘文館(2004),下田開国博物館「肥田実著作集,幕末開港の町下田」(2007), 肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009


 


「プチャーチン」,日本を愛したロシア人がいた

2014-05-17 13:22:59 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

江戸末期,鎖国の眠りは破られようとしていた

江戸末期,嘉永から安政にかけて(1850年代)日本は激動の時代を迎えていた。国交や通商を求める世界列強の使節団が頻繁に来航し,二百年以上続いた鎖国の眠りは破られようとしていた。アメリカからはペリー艦隊が,ロシアからはプチャーチン艦隊が,ほぼ同時期に日本開国の使命を背負って来航している。ペリーについては,「泰平の眠りを覚ます上喜撰(蒸気船)たった四杯で夜も眠れず」の狂歌にあるように衝撃的に登場し,「和親条約」を締結した人物として教科書に掲載されるなど良く知られている。が,プチャーチンを知る人は少ない。

 

◆プチャーチン略歴

1803年,サンクトペテルブルグにおいて古い貴族の家系に生まれる。海軍士官学校を卒業し黒海艦隊司令官ラザレフ大将の世界一周航海に参加。帰国後,オスマン帝国戦争従軍,蒸気船購入のためイギリス派遣,カスピ海方面のロシア権益擁護のためイランへ派遣などを経て,1852年海軍中将に栄進し,条約締結使節を命じられ日本へ赴くことになる。

帆船パルラダ号でロシアを発ち,イギリスで購入した小型蒸気船(ヴオストーク号)を伴いポーツマスを出港,1853823日長崎に到着。長崎では長期間待たされ,一か月後の921日ようやく長崎奉行に書簡を提出,日本側全権団と会合が持てたのは翌年112日になってからであった(対外的窓口であった長崎に向かい,紳士的に忍耐強く対応したのは,シーボルトの提言があったからだと言われている)。

新艦デイアナ号で下田に入港したのは,ペリー艦隊7隻が下田へ入港してから4か月後の128日であった。第一回日露正式会合は,1222日下田の福泉寺でようやく開始されたのである。ところが翌日,安政東海地震と津波で下田の街は壊滅的な被害を蒙り,デイアナ号は大破する。

混乱した中であったが,日露交渉は場所を玉泉寺(第二~三回)長楽寺(第四~五回)に移して再開(11日)。破損したデイアナ号は伊豆西海岸の戸田で修理することになり回航するが,嵐に合い田子の浦沖(富士市)で沈没(116日),村民の決死の救援活動で乗組員は救助される。全権団は戸田での洋式帆船の建造を許可している(124日)。そして,日露和親条約は185527日に調印された。

プチャーチンは,1855年建造されたヘダ号で帰国。その後も,1857年に追加条約調印のため来航,1858年に日露修好通商条約調印のため来日している。

 

帰国後も,サンクトペテルブルグにおいて日本からの留学生を厚遇し,さらには日本公使館の開設や活動に協力するなど好意的で,両国の友好親善に貢献。明治政府は,プチャーチンに勲一等旭日章叙勲した(1881年)。幕末から明治の北方領土問題を解決し(択捉以南は日本領,樺太については境を設けない等),友好関係を築いた貢献は大きい。1883年パリで死去,80歳であった。

 

1890年プチャーチンの遺言により遺産から1,000ルーブルが戸田村に寄贈され,1891年には長女オーリガ逝去し遺言による遺産分与として800ルーブルが贈られた(戸田村,日本赤十字社,東京市養育院)。さらに,玄孫マリーナが大阪万博の折りに下田と戸田を訪問してデイアナ号模型等を寄贈するなど(1970年),友好関係は続いている。

 

◆ペリーとプチャーチンの対比,蒸気船と帆船,剛腕と忍耐

ペリー艦隊が蒸気船4隻を連ねて(翌年は7隻)来航したのに対し,プチャーチン艦隊は老朽化した帆船4隻(蒸気船は1隻),二回目は新しく建造されたデイアナ号1隻での来航。1854年祖国ロシア帝国がクリミア戦争に突入したため艦船に余裕がなく,イギリス,フランス艦隊を気にしながらの交渉でもあった。

また,ペリー艦隊は将軍家の庭先(浦賀沖)へ案内も請わず突然現れ砲撃で脅し交渉を迫ったのに対し,プチャーチンは礼儀正しく表玄関(長崎)を訪れ忍耐強く長崎に逗留した。幕府の全権として交渉に当たった外国奉行川路聖謨は,ペリー・ミッションが武力を背景に恫喝的な態度を取っていたのと対照的に,日本の国情を尊重し交渉を進めようとするプチャーチン・ミッションに対し好感を持ったと記しているから,シーボルトの進言は役立ったと言えなくもない。しかし,二百年以上続いた鎖国を破棄するにはペリーのような強引さとインパクトが必要であったことも事実である。

「今でも,アメリカ外交は原理原則重視で正義のためには武力も辞さずと言えるね」

「ロシア外交は強かで,ブラフも譲歩も多用しながら目的を遂げてしまうところがある」

「日本は物事を先送りする引き伸ばし戦術が得意と言うことか・・・」

 

◆安政東海地震とプチャーチン

18541223日(嘉永7114日),マグニチュード8.4の大地震は伊豆半島に歴史的な大津波をもたらした。下田でも津波高が4.56.0mに及び街を一飲みにし,その被害は甚大であった。875軒のうち871軒(流失家屋841軒)が被害を受け,被害は実に99.5%。死者は総人口3,851人中99人(幕府からの出張役人など流入者を含めると122人と推定される)であったという。福泉寺で第一回日露会合を終えた翌朝9時頃である。

この時プチャーチンはデイアナ号の艦上にいた。戦艦の被害は凄まじく,竜骨と副竜骨が引き裂かれ,舵がもぎ取られ,浮いているのが不思議なくらいの状況だったという。悲惨な状況の中プチャーチンは,その日の夕方にはロシア人医師を伴い上陸して,交渉相手の川路聖謨を見舞,日本人被災者の治療の手伝いを申し出ている。

 

◆デイアナ号の沈没とヘダ号建設

被害を受けたデイアナ号を修理するため,伊豆半島西海岸の戸田村へ向け出発したが,途中暴風に襲われ田子の浦に漂流した。この時,勇敢にも命がけで救助に向かったのは多数の漁師たちであった。戸田村では宝泉寺をプチャーチンの宿舎に,本善寺を乗組員の宿舎にあて,多数の乗組員が雨露を凌げるようにと村民は大急ぎで小屋を作り,衣類や食料を持ち寄って助けた。デイアナ号に同行していたマホフ司祭は,「・・・善良なる日本の人々よ,末永く健康であれ,そして生きている限り思い起こされよ,あなた方の努力が異国の五百名の生命を救ったことを,そして救われた者達がこの日を一生忘れないであろうことを・・・」と記している。

韮山代官江川英龍が建造取締役に任命され,その指揮のもと天城山や沼津千本松原から木材が運ばれ,戸田村の船大工たちはロシア人指導を得ながら設計図を頼りに3か月の突貫作業で百トンの西洋型帆船を完成させた。プチャーチンは人々への感謝を込めて「ヘダ号」と命名,部下47名と共にこの船で帰国した。ちなみに,ヘダ号に乗れず米商船グレタ号で帰国の途についた乗組員第三陣は途中でイギリスの捕虜になっている。

 

 

◆日本人との「絆」を大事にしたプチャーチン

その後のプチャーチンは,伯爵に叙され,海軍大将・元帥に栄進,教育大臣に任命されるなど活躍するが,日本との関わりは前述の「プチャーチン略歴」に記したとおり濃密であった。下田,戸田村での体験や川路聖謨らとの信頼関係が礎となり,戸田村へ遺産寄贈を遺言するほど親日であった。さらに,その遺族と戸田村の人々の「絆」も続いている。

歴史探訪で伊豆の下田を訪れる機会があったら,日露交渉の舞台となった福泉寺・玉泉寺・長楽寺,津波塚の残る稲田寺を訪ね,プチャーチン・ミッションに思いを馳せるのはどうだろう? そして,静かな戸田村(沼津市)では,造船郷土資料館に立ち寄り歴史を肌で感じ,宿では絶景の富士山と駿河湾の夕日を眺めながらタカアシガニを食する。「絆」を感じる旅になることだろう


参照:白石仁章「プチャーチン,日本人が一番好きなロシア人」新人物往来社(2010),戸田造船郷土資料博物館HP,肥田喜左衛門「下田の歴史と史跡」下田開国博物館(2009),富士市立博物館「日露友好150周年記念特別展デイアナ号の軌跡報告書」日本財団図書館(2005

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「新渡戸稲造」と「唐人お吉」,新渡戸稲造は何故「お吉地蔵」を建立したのだろうか?

2014-04-23 18:36:36 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

お吉が淵の「お吉地蔵」

下田から下田街道(国道414号)を稲生沢川に沿って進むと,「河内」という地区に出る。伊豆急行の蓮台寺駅を過ぎて,信号を一つ越えた辺りだ(蓮台寺駅から徒歩5分)。右側の堤防に桜並木と小さな祠が目に入る。ここが「お吉が淵」,唐人お吉が明治24327日豪雨の夜に身を投げた場所である。

現在は堤防と遊歩道が整備され,鯉が泳ぐ池やオキチザクラも見事な大木になっているが,川の流量は少なく長閑な佇まいの場所である。327日には「お吉まつり」があって,下田の芸妓衆がこの祠にお参りするそうだが,普段は犬を連れた老人が散歩している風情が似合いそうな場所。この辺りの国道は道幅が狭く駐車場所もないので,観光バスもスピードを落としてガイドが瞬時の説明をするくらいかも知れない。

この一角に,祠とは別の地蔵尊が川を背にして立っている。新渡戸稲造博士がお吉を慰霊するために建立した「お吉地蔵」である。観光協会が建てた小さな説明板がなければ誰も気づかないだろうし,地蔵尊の存在自体を知る人も少ないに違いない。

 

「新渡戸稲造」と「唐人お吉」,どう考えても接点がない。あまりにも異質な存在だ。新渡戸稲造は何故お吉地蔵を建立しようとしたのだろうか?

 

写真お吉が淵の「お吉地蔵」

 

先ず,両人の略歴を見ておこう。

新渡戸稲造1862-1933)(文久2-昭和8

東京英語学校から札幌農学校(二期生,入学翌年に洗礼を受ける)に学び,アメリカ・ドイツ留学。後に,札幌農学校教授(この頃,僚友夜学校を設立),台湾総督府技師,第一高等学校長,東京帝国大学教授,東京女子大学初代学長などを歴任し教育者として尽力。晩年は,国際連盟事務局次長として活躍する傍ら,「太平洋の架け橋」ならんと国際間の使徒として平和のために人生を捧げる。著作には,名著「武士道(Bushido-the soul of Japan)」など。旧五千円札の肖像画でも知られる。


一方,唐人お吉(斉藤きち,1841 -1890)(天保12-明治24

船大工市兵衛の次女として生まれ,7歳のとき河津城主向井将監の愛妾村山せんの養女となり,14歳にして離縁され芸妓。鶴松と将来を誓う仲であったが,17歳のとき下田支配組頭伊佐新次郎に口説かれ,侍妾としてアメリカ総領事ハリスのもとへ。玉泉寺(柿崎)に通ったのは僅か3夜であったとも言われるが,その後きちは“唐人”と罵られ,流浪の末,酒に溺れ乞食の群れに入るまでになり,稲生沢川門栗の淵(お吉が淵)に身を投げる。享年51歳,亡骸もしばらく引き取り手がなかったとされる(竹岡大乗師が宝福寺に弔う,当寺に墓石あり)。数多く小説や映画化され,幕末開港に伴う悲話として語られる。

 

この二人が出会った史実は無い。それでは何故,新渡戸は「から艸(くさ)の浮名の下に枯れはてし,君が心は大和撫子」と詠んだのか? お吉が淵を散策しながら,想いを馳せた。

 写真:北海道大学構内の「新渡戸稲造博士」胸像


◆新渡戸稲造,晩年の苦悩 

第一次世界大戦が終結して1920年国際連盟が結成されると,新渡戸は事務局次長としてジュネーブに滞在し,知的協力委員会(後のユネスコ)発足などに尽力する。1926年辞任後も,講演活動の傍ら太平洋問題調査会の理事長など国際人として活躍の場を広げる。

しかし,1931年に満州事変が勃発,日本への非難が高まる中「太平洋の架け橋」ならんと奔走するが,歴史の波に揉まれ,日米両国で多くの友を失い,日米関係改善の目的も達成することが出来ないまま19333月帰国。その直後に日本は国際連盟を脱退し,軍部の台頭著しく,第二次世界大戦への道を転がり始める。

この様な時代を背負って,新渡戸は旧知の人々を訪ね,祖父の墓参りをし,1933(昭8)年716日にはお吉ゆかりの地を訪ねて,お吉が入水した淵に慰霊のための「お吉地蔵」を建立することを頼んでいる。そして8月には,平和への最後の望みを託し,第五回太平洋会議(カナダのバンフ)に出席。代表演説を成功させるが病に倒れ,カナダのビクトリアで71歳の生涯を閉じた(1015日)。お吉地蔵の完成を見ることもなく。

「太平洋の架け橋」ならんとするも時代に翻弄された体験から,新渡戸は開国の歴史の中で両国の狭間で泣いたお吉の心情を(己に重ね)慮ったのではあるまいか。 


◆お吉の侍妾問題
 

領事館の書記兼通訳ヒュースケンは,体調を崩した領事ハリスの世話をする看護師を斡旋するよう申し出る(単にメイドの斡旋依頼だったかもしれない)。幕府は,妾の斡旋依頼と誤解し,交渉事を円滑にするためにも情報を得るためにもこれ幸いと,多額の支度金と給金を与え因果を含め,お吉を駕籠でハリスのもとへ赴かせた。病に倒れたハリスが,健気なお吉に心を開いたことは想像に難くない。

しかし一方,ハリスは下田に着任したとき既に53歳と高齢だったこと,道徳規律の厳しい清教徒であったことなどから侍妾論を否定する説がある。また,戦時中には国辱ものだとして,戦後は宗教上や教育上の視点からお吉抹殺論まで論じられた。

敬虔なクリスチャンである新渡戸稲造も,当初はお吉を創作的人物と受け止めていたようだが,下田に来て菩提寺の過去帳や古老の話を聞いて実在の人物であると認識することになる(竹岡範男「唐人お吉物語」)。そこで,新渡戸は自らの間違いを潔く認め,陰ながら日米間の融和に貢献した一人の女,国策に翻弄された悲劇の人物として,お吉を供養したいと考えたのではあるまいか。

4月中旬この地を訪れたとき,オキチザクラ(大島早生)は既に葉桜だったが,フリージアが地蔵尊の周りに咲いていた。百日紅の木陰に立つ「お吉地蔵」は,今の世に何を思うや?


参照:竹内範男(1983)「唐人お吉物語」,肥田喜左衛門(1985)「下田の歴史と史跡」,十和田市立新渡戸記念館HP2014),村上文樹(2008)「開国史跡玉泉寺」

 

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写真:お吉が淵の祠と遊歩道