依田勉三ら晩成社一行が帯広の地に入植したのは、明治16年。入植後の数年はトノサマバッタの大発生や冷害に見舞われ作物の収穫は皆無、ついには所持する食糧を食べ尽くし相次いで逃げ出す移住者が出てくるほどの悲運な状況であった。最初に入植した16戸が明治20年には6戸に減少したのである。
しかし勉三はそれに失望せず、明治19年、意を決し当縁郡オイカマナイに牧場地の貸下げを願い、畜産と農業を一体化した経営で社礎を固めようとした(前述)。
一方、晩成社幹部の渡邊勝、鈴木銃太郎もこれを契機に自らの土地を拓くべく物色し、十勝川の少し上流にあたるシュブシャリ(シブサラ、現芽室町西士狩、アイヌ語でウグイが産卵する深い川の意。サラは葦のこと)に白羽の矢を立てた。この地は十勝川の沿岸で沖積土壌、肥沃な土地であった。明治19年、彼らは社員の高橋利八とともに密林をかき分けこの地に入り開墾の準備に入った。銃太郎は14号付近、勝は16号、利八は17号付近で、これが芽室に和人が入った始まりであった。当初は帯広からの出作であったが、明治21年にはこの地に定住している。近くにはシブサラチャシがあり、この辺りからメムオロブト(芽室太)にかけてアイヌも多かった。彼らは原住のアイヌの人々とも親しく付き合い、雇用し、農業指導や児童の教育にも力を注いでいる。銃太郎は明治17年にアイヌの娘を妻に迎え常盤と名付け、後年は「シブサラの親方」と呼ばれるほど大きな存在であった。
西士狩には、西士狩神社の近くに「西士狩開拓七拾年記念碑」「西士狩開拓百年之碑」「芽室町発祥の地」などの記念碑がある。また、入植場所を示す標石(石柱)が建てられている。
◇鈴木重太郎、渡辺勝、高橋利八の入植地(明治25年当時)
芽室町八十年史(昭和57年刊)24ページに掲載されているシブサラ地域の図。記念碑の位置を追加した。現在は、北5線道路が現在道道75号、西15号に沿って帯広広尾自動車道が走っている。当時の十勝川は狭くて深い川だったと言うが、改修された現在は幅広の一級河川となっている。
◇西士狩開拓七拾年記念碑
芽室町西士狩地区福祉会館の駐車場脇(小学校跡地)、西士狩神社の隣に「西士狩開拓七拾年記念碑」が建っている。明治32年11月10日建立。碑の裏面には「・・・回顧すれば七十年前の明治19年6月シブサラ(西士狩)原野に渡邊勝、鈴木銃太郎、高橋利八(晩成社幹部)三氏始めて開墾の一鍬を打下したり 実に本町に於ける和人入地の最初にして 亦西士狩開拓の発祥なり・・・」と略歴が刻まれている。
◇西士狩開拓百年之碑
現在の道道75号に面して碑は建っている。昭和60年建立。
◇芽室町発祥の地
西士狩神社の隣に「芽室町発祥の地」記念碑がある。昭和54年9月21日建立。
◇鈴木銃太郎、渡邊 勝、高橋利八の入植地
鈴木銃太郎は安政3年、鈴木親長の長男として江戸に生まれ、旧藩士の城下信州上田で少年期を過ごし、漢学を修め、剣術や槍術を学んだ。17歳の時上京してワッデル塾に入り、この時依田勉三や渡邊勝と知り合う。後に米国人経営の築地神学校卒業後キリスト教伝道師として布教にあたっていたが、勉三とともに北海道開拓を決意。帰農武士の典型で、長身偉丈夫、磊落な性格だったと伝えられている。
渡邊勝は安政元年名古屋藩の家中に生まれる。明治3年上京し、築地の英語学校で語学を学び、後にワッデル塾に入り依田勉三、鈴木銃太郎と知り合う。依田佐二平(勉三の兄)が開いた豆陽中学校で教鞭をとっていたが、晩成社の結成に参加し北海道へ渡る。出発に先立ち、銃太郎の妹カネと結婚。カネは横浜のミッションスクールで英語と音楽を学び、卒業後は教鞭をとっていた才媛であるが、入植後は開墾の鍬をふるう傍ら晩成社の子弟やアイヌの子供たちの教育に当たるなど、開拓の礎づくりに一生を捧げた。
高橋利八は賀茂郡小野村の農家に生まれた。晩成社の一員として北海道にわたり、開拓に励んだ。性格は温厚、質実剛健、営農に範を示した。大村壬作が小学教育を計画した際、教室として住宅を貸与するなど最大の協力者でもあったと言う。
2018年7月初め、この地を訪れた。今年は日照不足で湿害や冷害が予想されるような天候が続いたため、作物の生育はやや停滞気味に見えたが、開拓から130年余り沃野は拓け当時の面影を探すのは難しい。数十年ぶりに訪れたこの地で、記念碑を写真に収めた。
参照:拓聖依田勉三伝、芽室町八十年史
私たちのブログ「十勝の活性化を考える会」も宜しく。晩成社3人の入植の碑も見てきました。