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「韮山反射炉」再訪

2019-06-02 19:08:50 | 伊豆だより<歴史を彩る人々>

2019年5月の或る日、河津から天城峠を乗合バスで越え、修善寺で伊豆箱根鉄道に乗り換え伊豆長岡を訪れた。「韮山反射炉」を70年ぶりに訪ね、江川太郎左衛門英龍の足跡に触れて見ようと思ったのが旅の始まり。前日は季節外れの暴風雨で天城峠は交通止めになっていたが当日は天候も回復し、緑滴る天城路は爽やかだった。

伊豆長岡駅の蕎麦屋で椎茸そば(美味)を食べ、1日乗り放題の周遊バス「歴バスのるーら」に乗車。韮山反射炉バス停まで10分。当日は、5月だと言うのに外は30度を超える暑い日であった。

先ず、平成28年(2016)にオープンした韮山反射炉ガイダンスセンターで歴史を学び、修復なった韮山反射炉を見学する。隣接する物産館に立ち寄る。

 

 

◆旅の動機

小学生の頃、下田へ出る途中に「反射炉跡」と呼ぶバス停があった。下田街道(国道414号)を下田に向かって走り「お吉が淵」の信号を右手に別れる道路が旧国道で、山裾を這うように曲がりくねった細い道が稲生沢川に沿って「河内」「中ノ瀬」「本郷」地区を抜け、伊豆急下田駅前(本郷交差点)まで続いている。当時はこの道をバスが走っていた。現在もこの沿線(東海バス06門脇経由、逆川・蓮台寺・大沢口行き)に「反射炉跡」のバス停が残っている。バス停の周辺は静かな住宅地で反射炉の痕跡はない(当時は反射炉築造に使用した伊豆石がいくつか残っていたように思うが定かでない)。

子供心に「反射炉とは何だ?」と聞くと、「鉄を溶かす溶鉱炉で、江川太郎左衛門という人が大砲を作るために建てたもので、ペリーが下田に来た頃の話だ」と言う。この下田にも「偉い人がいたものだ」と感じたような気がする。その後、韮山反射炉を見る機会があり、江川太郎左衛門の名前は頭の片隅にずっと留まることになる。

◆韮山反射炉

韮山反射炉は、韮山代官江川英龍と英武親子が築造にあたり、砲数百門を鋳造したという耐火レンガ製の反射炉。煙突と炉跡が残っている。近代鉄鋼業発祥のシンボル。国指定史跡、近代化産業遺産。平成27年度に世界文化遺産「明治日本の産業革命遺産製鉄・製鋼・造船・石炭産業(日本国内8エリア、23資産から構成)」登録。

反射炉本体は連双2基(4炉)から構成され、高さ15.7m、外部は凝灰岩(伊豆石)の石積み、内部は耐火煉瓦積み、煙突部は煉瓦組石。溶解量は1炉500-700貫(1.9-2.6t)だと資料にある。九州佐賀藩と技術を交換しながら完成させた先端技術の溶鉱炉。その後、全国各地で建設された反射炉の原型ともなっている。

 

◆築造に至る歴史的背景

築造に至る歴史的背景に触れよう。案内栞から引用する。「アヘン戦争を契機に、日本では列強諸国に対抗するため軍事力の強化が大きな課題となった。それを受けて、薩摩や佐賀などの各藩では、西洋の先進的な技術の導入が積極的に行われるようになる。幕府においても、韮山代官江川太郎左衛門英龍(坦庵)をはじめとする蘭学に通じた官僚たちにより、近代的な軍事技術や制度の導入が図られ始めた。江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城術を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言している。このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが反射炉であった。嘉永6年(1853)、ペリー艦隊の来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。そこで、以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたのである。(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」平成31年発行栞)」

◆築造の経過

築造の経過は年表にも示したが、案内栞には以下のように記されている。「反射炉は、当初伊豆下田港に近い賀茂郡本郷村(現下田市)で着工し、基礎工事などが行われていた。しかし、安政元年(1854)3月、下田に入港していたペリー艦隊の水兵が敷地内に侵入する事件が起きたため、急きょ韮山の地に建設地を変更することになった。下田での建設のために用意されていた煉瓦や石材は韮山に運ばれ、改めて利用された。また、千数百度という高温に耐える良質の耐火煉瓦は、賀茂郡梨本村(現河津町)で生産されていた。韮山での反射炉建設は順調には進まず、江川英龍は、その完成を見ることなく安政2年(1855)に世を去っている。跡を継いだ息子の英敏が建設を進め、安政4年(1857)、連双2基4炉の反射炉本体とその周辺の関連施設からなる韮山反射炉を完成させた。(引用:伊豆の国市教育部文化財課「韮山反射炉」平成31年発行栞)」

◆韮山代官江川英龍(坦庵)

見学後に感じるのは、反射炉建設を建議し責任者として苦労を惜しまなかった江川英龍(坦庵)の偉大なる生き様である。

 

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