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読書日記

いろいろな本のレビュー

島崎藤村短編集 大木志門編 岩波文庫

2022-09-26 09:40:40 | Weblog
 最近岩波文庫で明治以降の有名作家の短編小説を刊行して本好きの読者を喜ばせているが、本書もその一つ。島崎藤村の小説は『夜明け前』や『破戒』など長編が有名で、短編は読んだことがなかったので、新鮮な感じがした。これで藤村を読もうとする人が増えるといいなと思う。これが岩波書店の戦略でもあるのだろう。

 藤村は詩人として出発した。25歳のとき刊行した『若菜集』がそれである。中でも「初恋」は高校の教科書にもよく載せられていた。「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花ぐしの 花ある君と思ひけり」で始まる七五調の文語自由詩は、「初恋」の情緒をいかんなく表現して詩人の名を高からしめた。その他「千曲川旅情の歌」や「椰子の実」など歌うことのできる詩が多く、人気の原因ともなっている。でも最近は読んですぐわかる藤村の詩は教科書で見かけない。教室でこれを口ずさんで、各自の「初恋」の詩を作ってみましょうというような授業はほとんど顧みられない。大体、詩とか短歌・俳句は無視される傾向が強く、評論と小説に特化して授業が行われることが多い。これは大学共通テスト等の在り方と関係がある。漢文なども、共通テストに出るからやっているといっても過言ではない。漢文を味わうというレベルではなく。句法の暗記等々無味乾燥な授業が行われている。進学校といわれる学校ほどこの傾向が強い。

 現状がこうであるから、「現代文」の授業では、文脈の把握や心情の分析等が重んじられ、「この詩、この文章いいですねえ」とか言って終わったら生徒に嫌われる。生徒はプリントを使ってまとめるのがお好きだ。塾がこの傾向を助長している。ホントに何かが間違っている。さらにこれを助長するのが新学習指導要領だ。実用的な文章を読んで読む力をつけさせる。小説教材は載せてはならないという「現代語」の教科書編集指針は出版社を当惑させたことは耳に新しい。この文脈で考えると島崎藤村の詩の退場も理解ができるというものだ。

 その藤村の小説だが、どれも面白かったが登場人物が実在の人間をモデルにしているという意味で、私小説だと言える。逆に言うと小説に出来るほど劇的な人生を歩んできたということになる。彼の人生を概観すると次の通り、1881年に明治学院に入学してキリスト教の洗礼を受ける。1906年栄養失調により三人の娘が相次いで没し、後に『家』で描かれることになる。1910年妻・冬が四女を出産後に死去。このため次兄・広助の次女・こま子が家事手伝いに来る。1912年半ばころからこま子と愛人関係になり、やがて彼女は妊娠する。1913年神戸港より有島生馬の紹介でパリへ渡る。1916年帰国するもこま子との関係が再燃。その後、1928年56歳で加藤静子と再婚。そして1943年脳溢血のため71歳で死去。

 「初恋」の清廉さとは裏腹のドロドロした人生だったといえる。皮肉な言い方をすれば、これは作家としての成功に寄与したとも言える。本書に掲載された11編はどれも面白かったが、自分の家族との交流を描いた「子に送る手紙」と「嵐」が藤村の詩人としての資質が表れていて読ませる。前者は関東大震災に遭った家族の様子を描いたものだが、最後の破壊された東京の風景を隅田川に視点を当てた次の文章は素晴らしい。「だぶだぶだぶの音のする春の水、風をうけて走る帆、岸に光るバラックの屋根、===なにもかも、河口らしい空気と煙都の中に一緒になって、私の心を楽しませないものはなかった。流れよ、流れよ、ともいいたい隅田川には、およそ幾艘の船が動いていると言ってみることもできないくらいで、大きな都会の都会の気象が、一番よくその水の上に感じられた。そこには春の焔にまじって、もう一度この東京を破壊のどん底から甦らせるような、大きな力が溢れ、流れていた」この時、藤村51歳。これまでの苦難を乗り越えて、新しい人生に向かおうとする決意がうかがえる。やはり彼は詩人だ。

 詩人の感性に共感して作者の人生に迫り、自分のこれからを考えるというようなことが授業として無視されるとしたら、いったい国語として何を教えるというのか。入試問題などは問題集を与えて自習させておけばいいのだというのが私の持論である。

新疆ウイグル自治区 熊倉 潤 中公新書

2022-09-08 14:17:37 | Weblog
 副題は「中国共産党支配の70年」で、時系列で共産党のウイグル人に対する支配の実相が述べられている。1955年に自治区が成立したとき、共産党は少数民族の「解放」を謳ったが、最近はウイグル人に対する人権侵害が深刻さを増しており、西側諸国からは「ジェノサイド」という言葉で語られることが多い。新疆ウイグル自治区は中国全体の六分の一ほどの面積で、人口は約2500万人。そのうちウイグル族は1162万人、漢族は1092万人と拮抗している。ウイグル族は他の少数民族と違い、顔立ちや宗教からして、明らかにアジア人とは違っている。その民族を支配して、同化しようとするところに共産党の課題がある。

 そもそもこの地に漢族が進出を始めたのは、紀元前二世紀、前漢の時代である。以来王朝はここを「西域」として、中央から役人を派遣して統治してきた。唐の詩人王維の詩にも、「元二の安西に行くを送る」という有名な七言絶句がある。「西域」はシルクロードとも言われ、平山画伯の作品で一躍有名になった。今から40年ほど前の話である。当時はこの地に旅行することがブームになっていたと記憶するが、ということは、今のようなウイグル人に対する弾圧はあまりなかったのであろう。ところが最近の為政者の領土拡大主義と中華民族の復興というようなナショナリズムの鼓吹によって、状況はどんどん厳しくなっている。チベット、内モンゴル、そしてウイグル。これらが三大弾圧自治区だ。この地の共産党の書記は、「弾圧と支配」という汚れ仕事をうまくやることが、中央の政治局委員になるための必要条件になっている。

 ウイグルにおいてはテロ防止という名目で、監視カメラによる厳しい統制が日常化して、市民は窮屈な生活を強いられている。当初ウイグルの漢族の数は少なかったが、経済発展をさせるという名目でどんどん入植してきて今に至っている。そして監視強化の中、観光客がウイグル人のバザールに入るのも簡単ではない。これらはこの自治区の共産党書記が自分の点数稼ぎのためにやり始めたのだ。その新疆政策について著者は五項目にまとめているので紹介する。①産児制限の厳格化、不妊手術の奨励など、いわば次の世代を殺す措置。②「職業訓練センター」への収容、教育改造、労働者育成。③綿花畑での綿摘みへの動員、内地への集団就職の斡旋など、労働力を活用する措置。④先端技術、親戚制度などによる徹底的管理。⑤中国語(漢語)教育の普及、「中華民族共同体意識」の鋳造(確立)イスラームの中国化といった同化。

 おぞましい項目が並んでいるが、実際に行われているのだから寒気がする。私は④の「親戚制度」というのを、本書を読んで初めて知ったが、ウイグル人の家族に漢人が突然親戚になろうと言って突然やってきて、その家族と交流して相談に乗るという制度らしい。本当に支配のためには何でも考えるという、中央を「忖度」した制度を沢山作り出したようだ。これらの政策を実行した人物として有名なのが陳全国である。彼は習近平のご機嫌を取って出世しようとしていたが、そのあまりに過酷な統治が西側諸国から批判されて、結局政治局員になれず、閑職に追いやられた。過ぎたるはなお及ばざるがごとしとはこのことである。この中国共産党の成果主義というのも問題ありである。人治主義の極みというか、わかりやすいが、前時代的である。⑤の中国語の普及というのも、最近内モンゴル自治区でお触れが出て、モンゴル語の追放として批判されている。この①~⑤については本書で具体的に確認してもらえばと思う。とにかくひどい。習近平はあと五年居座ってウイグル同化と台湾併合をやるのだろうか。ちょっと目が離せない。

おいしいごはんが食べられますように 高瀬隼子 講談社

2022-08-26 08:57:36 | Weblog
 第167回芥川賞受賞作品。今回の芥川賞は五人の候補者全員が女性だったよし、新聞報道で知った。先にこの欄で、高瀬氏が受賞するのではないかと予想したが、その通りになった。他の候補者の作品を読んだうえでの予想ではなく、彼女の筆力を評価したうえでのことだった。今回の話題は会社における社員同士の関係性にスポットを当てたもので、結構面白く読めた。社員の日々の食生活の諸相がちりばめられていることが、表題からわかる仕組みになっている。物語は三人の社員、二谷(男)、芦川(女)、押尾(女)の三角関係をベースに進んでいく。三角関係とはいってもドロドロしたものではないので、作者はこれに拘泥していないことがわかる。主人公は押尾だが、場面によって主語が二谷になったり、芦川になったりする。技巧としてうまく使っている。

 芦川は体調の関係で退社時間を早くしてもらっているが、同僚の押尾はそれが気に入らない。なんであの子だけがという思いがある。芦川は同僚の不満を抑えるために毎日、手作りのお菓子を持ってきて社員にふるまうということをやっている。そのお菓子をおいしいおいしいと喜ぶ社員(特にパートの主婦)がいるので、押尾は気に入らない。また芦川は同僚の二谷の家に時々泊まりに行って関係を続けている。押尾も二谷と関係を持っているのだが、彼をめぐっては芦川に先を越されている。その鬱屈した気分が悪意となって芦川に投げかけられる。女の戦いだ。結局主人公押尾は退社するのだが、二谷と芦川についてはここでは書かない(読んでからのお楽しみ)。

 おいしいお菓子を作って持参しふるまうことで、日ごろの働きの悪さを帳消しにするという女性のイメージ(美女タイプが多い)は既視感がある。こういうことって結構組織にはつきものなんじゃないか。大企業はどうかわからないが、中小企業の場合は部署の人間の数か比較的少ないので、こういう女性に支配されることが多い気がする。特にパートの主婦を取り込むと非常に有利になる。彼女たちは放送局とも呼ばれ、あることないこと他人に告げ口するので、ある種脅威的存在である。本書にも原田さんというパートの主婦が登場する。彼女はしょっちゅう芦川をほめる、曰く「気が利くし、私らパートにも優しいし、お菓子作りが趣味だし、かわいいしねえ、いい子よねえ。うちの息子のお嫁さんになってほしいくらい」。こういう人を味方につけたら勝負ありだ。

 芦川は自分のやっていることにいささかの逡巡も見せないところが逆に押尾の神経をいら立たせる。非常に難敵であるといえるだろう。結局押尾は退社して敗北する結果になったが、芦川がこの後会社でうまくやっていけるかどうかはわからないという余韻を残して終わる。仕事量の不平等をどう解消するか、今は性差によって差別をしてはいけないということになっているが、実際はスローガン通りにはいかないのが現実だ。そんな中で、かわいくて、お菓子作りが上手くて気が利くという、パートの原田さんが褒める芦川という造形は、この性差解消すべしという時代性に対する強烈なアンチテーゼと私は読んだ。その辺のシニシズムが文学的だと評価されたのだろうか。次作が楽しみだ。

 

日本共産党 中北浩爾 中公新書

2022-08-05 09:02:58 | Weblog
 新書ながら440ページのボリューム。読了までかなりの時間を要した力作だ。日本共産党は1922年7月15日の成立だから今年で創立100年を迎える。中国共産党は1921年7月23日の成立だから、両党ともほぼ同じ歴史を持つ。中国共産党は、ロシアと同じく、帝政を打倒して成立したので、一旦政権を握れば執政党として自由に政治が行える。共産党の理念は市民、平等に豊かな生活を保障することだが、これができずにソ連は崩壊、今や共産党政権をいただく国は少数派になっている。中国は共産党の指導の下、貧困国家を抜け出して今や世界第二位のGDPを誇る国になったが、14億のうち9億の農民はいまだ貧しいままだ。指導部は習近平のもと帝国主義的な覇権政治を恥ずかしげもなく推し進めて、今や世界の脅威となっている。習近平が10月の共産党大会で再び主席に選ばれるのかどうかが、注目の的である。選ばれたらさらに脅威は増すだろう。


 方や日本共産党だが、これは中国と違って一応議会があって国会議員を選挙で選ぶ(すべての人に選挙権が与えられていたわけではないが)という中で成立したので、資本主義体制下での共産党ということで、ソ連や中国とは自ずと戦略が異なる。本書によると、その戦略は、社会主義革命を直ちに目指すのではなく、民族主義革命を経て社会主義革命を実現するという二段階革命論を採用しているという。この理由として、「社会主義革命を遂行すべき労働者階級をを中核とすろ広汎な勤労大衆は、必然に民族独立闘争をも担当する」という主張をあげている。この背景には日本が先進資本主義国でありながら、アメリカに従属しているという共産党の見解がある。従って日米安保条約の解消が課題になるが、昨今の国際状況の中で、この課題が実現するにはいくつものハードルがある。さらに共産党が主張する憲法9条の堅持も同様で、国民の大部分は「それで大丈夫なの」という素朴な不安を抱いているがゆえに、大きな政治的潮流にはなりえないだろう。言ってみれば、共産党という看板ゆえに難題が立ちはだかるわけで、看板を変えてみれば、という悪魔のささやきが聞こえるが、これに耳を傾ける気はないようだ。自衛隊、天皇制、政権奪取の問題等々、課題は多い。国民もこういう状況をなんとなく不安に思って、共産党に投票しないのだろう。特に若い人は。


 この日本共産党の歴史を編年体の手法で描いたのが本書である。膨大な資料を渉猟し一編の新書にまとめるのは至難の業であるが、著者はこれに成功している。歴代の執行部の面々のエピソードはリアルで読みごたえがある。本書を読んで初めて知ったのだが、元書記長の宮本顕治が、1933年に検挙され投獄された間も、官憲の拷問に屈せず完全黙秘を貫いたという。彼は未決のまま市ヶ谷刑務所から巣鴨刑務所に移され、1945年5月4日に無期懲役が確定すると網走刑務所へと移送された。その間非転向を貫いたのだが、著者によるとこのような例は極めて稀だという。宮本は、腸結核で倒れた際、遺書のつもりで調書をとってはどうかと検事に強く勧められても、「そのまま死んでも、本来の革命運動の歴史は、原則的な態度を貫くことが最大の闘争であるとする私の態度を理解するだろう」と考え拒否したという。この原則主義的な鉄の意志が戦後、カリスマの源泉になったということだ。さらに宮本は、東大在学中に芥川龍之介に関する文芸評論「【敗北】の文学」が雑誌【改造】の懸賞論文に小林秀雄を抑えて一等で入賞した。いわば一級のインテリであったということも紹介されている。「【敗北】の文学」は私も持っているが、小林秀雄を抑えて入賞とは知らなかった。最近の政治家には残念ながら、このような人はいない。学生であの小林秀雄の上を行くなんて、本当にスゴイ。

 この宮本顕治に登用されたのが、上田耕一郎と不破哲三(上田健二郎)兄弟である。そして不破哲三に登用されたのが、志位和夫である。みんな東大出身である。いわばエリート官僚出身者が政治家になったというか、共産党が官僚主義的なのか、その辺の評価は難しいが、共産党を語るうえで、何かの示唆を与えうると考える。共産党はどこへ行く?






水たまりで息をする 高瀬隼子 集英社

2022-07-07 13:18:33 | Weblog
 本書は『犬のかたちをしているもの』(集英社)に続くもので、昨年の第165回芥川賞の候補作である。高瀬氏は今年の第167回芥川賞の候補者にもなっており、今売り出しの作家である。ちなみに今回の候補作の題は『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)である。面白い題で興味をそそられる。『水たまりで息をする』は三十代の子供のいない夫婦の話で、事件は夫が風呂に入れなくなるというものだ。日本人は風呂好きなので、このテーマには意表を突かれた。小説は終始妻の視点で描かれるが、妻は夫を無理やり風呂に入れようとはしない。あくまでも夫の意思を尊重する姿勢だ。普通だったら臭いから近寄らないでというけんかになって、夫婦仲の悪化から離婚という話になるところ、そのようには展開しない。妻は辛抱強く見守るのだ。この辺がいささかシュールである。

 風呂に入れなくなる(シャワーも含む)ことで、問題になるのは体臭だ。会社員の夫は得意先との商談もあり、身ぎれいにすることを求められる。しかしそれが不可能となれば当然出社に及ばずということになる。現代社会はとにかく悪臭を嫌う。その証拠に体臭・口臭を防ぐ医薬品や部屋の匂いをごまかす芳香剤まで様々な製品が店にあふれている。その状況下で体臭がどんどんひどくなっていくが、風呂に入れないので解決策はない。当然夫は会社をクビになる。妻の母親まで心配になって、様子を見に来るが事態は好転しない。夫婦二人の悪臭問題が会社に移り、親戚にも波及する。この悪臭問題はいわば「差別問題」のアナロジーで、いろいろと身につまされることが多い。風呂に入れないという夫の問題がどう展開するのかと思っていたが、いろいろなテーマが隠されていることが読んでいるうちにわかってくる。「夫婦関係」の問題もいろいろ分析できそうだ。

 会社をクビになった夫とともに妻は自分の実家(四国の片田舎)に引っ越す。都市から田舎へ移っても夫の状況に変化はない。それでも妻はいつも通り夫に尽くす。夫は風呂には入らないが、川で水浴びをするようになる。川はカルキとは無縁だ。しかし大雨で氾濫したその川で夫は流されて死んでしまう。その時も妻は決して取り乱さない。あっけないといえばあっけないが、この結末を私は予想できなかった。風呂のカルキ臭い水に入れなかった夫が、カルキとは無縁の川の氾濫で流されてゆく。これで夫の「悪臭問題」が一挙に解決するが、肝心の妻にとっての献身対象がなくなるという空虚感をもたらす。夫婦関係も終わってしまった。でも妻は夫に関わった流れからすると気丈に生きていくだろうということを想像させる。なかなか面白い小説だった。水の諸相が人間に照射する問題を丁寧に掘り下げている。この様子では、近作『おいしいごはんが食べられますように』(群像1月号)は未読だが、芥川賞を取るんじゃないか。そんな気がする。まあ期待して待ちましょう。

黒島伝治作品集 紅野謙介編 岩波文庫

2022-06-13 13:49:39 | Weblog
 最近、岩波文庫から明治・大正・昭和期の作家の作品集が出されていて、結構興味が湧く。初めに読んだのが、国木田独歩の『運命』で、その中の「画の悲しみ」は懐かしく読んだ。彼の「少年物」の作品群の代表的なものである。国木田の素朴な表現が、かえって新鮮に心に響く。そして表題の黒島伝治の作品集。これと並行して同じプロレタリア文学の『葉山嘉樹短編集』を読んだ。今なぜプロレタリア文学なのか。おそらく長引く不況の中で、生活苦にあえぐ庶民の心情にフイットする小説を読者に提供することで、為政者に対する批判的な視座を持ってもらいたいという岩波書店のメッセージでは?と思ったが、普通の市民が岩波文庫を手に取るかどうか、少し疑問だ。まして岩波文庫は小さな本屋には置いていないという現実もある。でもこの格差社会を批判的に見るためにもぜひ読んでおきたい作品集である。

 黒島伝治(1898~1943)は香川県小豆島の生まれ。旧制中学に進むことはなく、16歳で内海実業補習学校を卒業して、地元の醤油会社に醸造工として入社。19歳で上京して、一年後編集記者となり、同郷の壷井繁治(壷井栄の夫)と交遊して、早稲田大学高等予科の第二種生として入学するが、招集されてシベリア派遣となる。しかし、胸部疾患の悪化で内地に送還される。その後作家活動にいそしむが、昭和18年45歳で病没した。本書は彼の事跡に沿う形で並べられている。小説11編と随想7編、最後に壷井繁治の「黒島伝治の思い出」が載せられている。

 冒頭の「電報」は、村の貧しい自作農である源作とおきが息子を町の中学校へ行かせて学歴を付けさせようとするが、村会議員や周囲の村人たちの圧力に負けて、県立中学に合格していた息子を電報で呼び返すという話。その文面は「チチビョウキスグカエレ」であった。結局、二人は息子を入学させなかった。「息子は、今、醬油屋の小僧にやられている」という結びの一文が切ない。これは伝治自身の経験が投影しているのだろう。

 次の「老夫婦」は、東京の暮らしになじめない元「百姓」の老夫婦が描かれる。夫婦は東京の会社員である息子清三の誘いを受け、家財を処分して上京するが慣れない生活と都会の喧騒に疲れ、ばあさんは「やっぱり百姓の方がえい」とささやき、じいさんは「なんぼ貧乏しても村に居る方がえい」とため息をつく。息子・清三の妻は園子と言い、「村の旦那の娘で、郵便局の事務員をしていたが、田舎の風物を軽蔑して都会好みをする女だった。同じ村で時々顔を合わすが、近づきがたい女だった。二人は嫁がそばにいると、自分たち同士の間でも自由に口がきけなかった。変な田舎言葉を笑われそうな気がした」とある。この嫁・園子は田舎者のくせに都会人の恰好をつけたがる嫌なタイプである。じいさん・ばあさんはと言えば、「じいさん、うら(私)腹が減ったがの」「そんならなんぞ食うか」「うらあ鮨が食うてみたいんじゃ」のように方言丸出しで、恰好を付けている嫁の園子と接点を見出すことは不可能だ。結局二人は田舎に帰ることになる。なんだか小津安二郎の映画・「東京物語」を髣髴とさせるところがある。都会と田舎の問題、壊れやすい家族の問題等々、テーマは現代にも通じる。黒島の場合、小豆島方言の使い方が絶妙で、作品を身近なものに感じさせる。ある種の安定感がある。「二銭銅貨」「豚群」と田舎の農民の姿を描く作品が続く。これらも良い。その他、シベリアに派遣された兵士の苦悩を描く作品群が続く。

 これに対して『葉山嘉樹短編集』は現実の抽象度が黒島の作品に比べて高い気がする。二人はほぼ同世代であるが、葉山は福岡県の旧制中学から早稲田に進んでいるから、経済的に恵まれていたのであろう。葉山の抽象度の高さは逆に作為を凝らすという言い方も可能なわけで、黒島の土臭さと好対照を示す。社会批判の方法論としてどちらがいいとは言えない。最後は好みの問題になるだろう。葉山の「セメント樽の中の手紙」を読んでみてほしい。

ブルシット・ジョブの謎 酒井隆史 講談社現代新書

2022-06-01 11:51:22 | Weblog
 本書はデヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(岩波書店)の訳者である酒井氏がグレーバー氏の本をパラフレイズしたもので、日本の現状にも言及されていて面白い。本書を読んでから原典へ向かえば、内容の理解が容易になるだろう。本書の副題は「クソどうでもいい仕事はなぜ増えるのか」で、これに日々悩まされている人は多い。例えば飛行機の女性添乗員、接客は大変だが、さらに愛想よくすることを求められることが多く、過度の感情労働の側面がブルシット・ジョブだと書かれている。しかし、日本では接客は愛想よくすることが当然で、添乗員もこれを唯々諾々と実行している。欧米の航空会社では中年の女性が多く、客に媚びを売るなどとんでもないという感じだが、日本ではそうはいかない。「お客様は神様です」的な仕事ぶりがサービス業では当然という発想が浸透している。

 どういう業種がブルシット・ジョブになるのか。本書ではイギリス映画の『わたしは、ダニエル・ブレイク』(ケン・ローチ監督)を例に出している。長年大工仕事をしてきた主人公が心臓発作で失職して、失業保険や給付金獲得のために煩雑な手続きを強制されて、慣れぬパソコンをいじらされたりして書類を提出するが却下されるという残酷な目に遭うという話だが、私もこの映画を見て厳しいなあという感想を持った記憶がある。著者の「価値ある仕事を地道に積み上げてきた労働者に対する、ある種の残酷な懲罰的サディズムにも見える」という言葉は大いに共感できる。役所の担当の女性職員は誠実に淡々と仕事をこなすが、それが主人公ダニエル・ブレイクを追い詰めていく過程が恐ろしい。このような失業者にいろんな書類を提出させた挙句、却下するという仕事もブルシット・ジョブだと言っている。

 イギリスの生活保護の捕捉率(実際利用している割合)は87%だが、日本では20%弱。これは正確な情報が伝えられていないのと、悪名高い窓口であれこれの嫌がらせを受けて追い返される「水際作戦」が一因で、さらに生活保護を受けるのが恥ずかしいという意識があるからだと著者は指摘する。この原因について著者は、人間は放っておくと怠けてしまうという人間観の日本における独特の根深さ、さらにそういう「怠け者」に見られたくないという精神的呪縛の強さがある。また子供や未成年に対する束縛は部活、校則、宿題等々を通してルール遵守の気風の醸成に繋がっており、それが無意味な規制や行動を長時間強いられることで「ブルシット・ジョブ」への耐性がよその国よりもあるかもしれないと言っている。このことはさらに「石の上にも三年」等のことわざによって助長されると言える。

 何が「ブルシット・ジョブ」かということになるとセンシティブでなかなか難しいところがある。「職業に貴賎なし」というのが通奏低音として流れている日本では、差別問題に抵触しかねないからだ。よって職業のカテゴライズではなく、それぞれの仕事の労働形態と時間管理の問題等が議論の対象になるのだが、扱っている問題が大きいのでうまくまとめきれない。一読をお願いします。私も原典を当たります。

無月の譜 松浦寿輝 毎日新聞出版

2022-05-17 09:45:38 | Weblog
 本書は将棋の駒にまつわる一大ロマン小説で、毎日新聞に連載されたもの。最近将棋界は藤井聡太八段の活躍で世間の注目を浴びて、日本将棋連盟も笑いが止まらない。かつて坂田三吉をモデルにした村田英雄のヒット曲「王将」の世界から見ると隔世の感がある。棋士が世間的に認められた感が強く、勝負師として世間の裏街道を行くというイメージはもはやない。具体的にいうと、升田幸三のような棋士は今はいなくて、サラリーマン化している印象は否めない。

 将棋界でプロになるためには、奨励会に入会後四段に昇段することが条件だが、満26歳の誕生日を迎えるまでに三段リーグ戦を勝ち抜いて上位二位以内に入らなければならない。このリーグ戦は年二回行われ一年間でプロになれるのは4人ということになる。天才が集うこのリーグ戦を勝ち抜くのは容易ではなく、泣く泣く将棋界を去った者は多い。本書の主人公の小磯竜介も夢破れた一人である。逆に、先述の藤井八段は中学生でプロになった天才中の天才である。竜介は故郷の長野県上田市に帰省するが、その時若くして戦死した大叔父(祖父の弟)が駒師だったことを知る。どんな人物だったのか興味を覚え、大叔父の商業学校の同級生だった老人田能村淳造を訪ねて話をきくのだが、、、、、。

 話は大叔父の作った幻の駒「無月」を訪ねてシンガポール、マレーシア、ニューヨークと旅する話である。そして26歳で奨励会を退会して48歳で子供に恵まれた家族を築き上げるまでの自分史が描かれる。最後はハリウッド映画のようなハッピーエンドだ。新聞小説の型を踏襲しているという意味ではある種ありきたりと言えるが、これは構造上そうならざるを得ないという宿命を背負っている。この小説と並行して最近映画になった重松清の『とんび』(角川書店)も読んでみたが、これも新聞小説で、主人公の一代記。その中で希望と失意と再生が描かれる。それが市民の目線で描かれているので読者の共感を得やすい。それだから映画にもなるのだろう。

 しかし新聞小説は逆に一日一日の積み重ねであるから、毎回山あり谷ありの構成にしないと読者に飽きられる危険がある。それを挿絵がカバーするということもあるが、なかなか難しい。かつてドイツ文学者の高橋義孝氏は、新聞小説を、「あんな細切れの文章を載せて意味あるんでしょうかねえ」とテレビで言っておられたのを思い出す。夏目漱石は朝日新聞社に入社して連載小説を書いたが、その当時の新聞の読者は今とは違ってインテリが多かった。だから読者層が明確なので、書きやすかったこともあるだろう。しかし今は大衆化して、新聞を読まない人も多い中で読者をつなぎとめるのは至難の業である。よって俗な話題で書かざるをえない。ここが辛いところだ。

 著者の松浦氏はフランス文学の研究家で元東大教授。詩人・評論家・小説家でもある多才な人で、芥川賞の選考委員もされていが、昨年の芥川賞の選評がおもしろかった。氏曰く、重要なことは「小説で何をやろうとしているか」という問いだと思う。それも実際に何を「やり遂げたか」より何を「やろうとしたか」のほうに意味がある。(中略)少なくとも何ごとかをやろうと試みたという気概と意欲が伝わってくる作品を読みたいと。これは新人作家に対する要望であるが、かなりハードルが高い要望である。新人に要望した手前、自作の小説にも当然その考え方を反映させていると拝察するが、それを頭に入れながら本書を読むと面白さが倍増するかもしれない。

黒牢城 米澤穂信 角川書店

2022-05-02 14:19:10 | Weblog
 第166回 直木賞受賞作で今村翔吾の『塞王の楯』と同時受賞。著者は推理小説作家で『満願』(新潮文庫)が有名。それを読んでいたので、どういう時代小説になるのか興味が湧いて読んでみた。結論からいうとあまり面白くなかった。何か冗漫な感じで『満願』のような切れがない。まあ『満願』は推理短編集であるから当然と言えば当然なのだが。 話は戦国時代の武将荒木村重が織田信長に反逆して有岡城(尼崎城)に一年間立て籠り、その間羽柴秀吉が村重を翻意するために使者として遣わした黒田官兵衛を地下牢に押し込めて、場内の謀反を図る一味と戦う中で、いろいろアドバイスを受けるというもの。約一年のも及んだ籠城の顛末を記したのが本作品である。

 この流れで推理小説に仕立てるわけだが、ここでは信長の内通工作に応じたものを、確定して処罰するという事件を複数用意して、それぞれの事件について誰が誰を殺したかということなどを描く手法で、その犯人を黒田官兵衛が推論して村重に答えるというもの。基本的に場内における仲間割れの首謀者を見つけ出すという作業になるわけだが、それがいまいちまどろしくて薄っぺらくて、歴史小説にする必要があるのかなという疑問が湧いた。

 荒木村重は約一年間の籠城後、天正7年(1579) 9月密かに有岡城を脱出して尼崎城に逃れた。11月に有岡城は落城し村重の妻子ら30余人が信長に捕らえられた。村重は信長から降伏するよう説得されるが受け入れなかった。怒った信長は京都で妻子36人を斬殺し、家臣およびその妻女600余人を磔刑・火刑という極刑に処した。村重は尼崎城を離れ、花隈城へ逃亡、妻子が悲惨な目に遭いながらも、しぶとく抵抗し続けた。天正8年(1580) 7月に花隈城が落城すると村重はついに毛利氏の下に逃げ込んだという。一説によると尾道に潜んでいたというが、その後の動静は不明。天正10年(1582) 6月の本能寺の変後、村重は境に舞い戻り、千利休から茶を学ぶ。後に村重は茶の宗匠として豊臣秀吉に起用されるという皮肉な運命をたどった。そして51歳で激動の人生を終えた。因みに村重の末子が画家の岩佐又兵衛である。彼は有岡城落城時は2歳であったが奇跡的に生き延びた。黒田官兵衛は天正7年10月19日、本丸を残すのみとなっていた有岡城から栗山利安に救出さた。

 この数奇な運命を生き抜いた荒木村重を主人公にするならば、なぜ信長に謀反を起こしたのか、妻子を捨てて一人逃げたのはなぜか、後世から卑怯者という汚名を着せられるのはわかっていても生に執着した理由等々、小説としての面白い素材が満載だと思うのだが、それを捨てて籠城一年間の場内の描写に限定したその評価を選考委員に聴きたい気がする。その時々の村重の心情を追っていくだけでも面白い小説が書けると思うのだが。私としてはとにかく生き延びること、生きていればこその人生だという激励を村重の生き方から教えられた気がする。


ナショナリズムの美徳 ヨラム・ハゾニー 東洋経済新聞社

2022-04-21 13:31:05 | Weblog
 まずナショナリズムの定義を辞書的に書いておくと、「ある民族や複数の民族が、その生活・生存・の安全、民族や民族間に共通する伝統・歴史・文化・言語・宗教などを保持・発展させるために民族国家あるいは国民国家(ネーション・ステート)と呼ばれる近代国家を形成し、国内的にはその統一性を、対外的にはその独立性を維持・強化することを目指す思想原理・政策ないし運動の総称」(日本百科全書)とある。普通ナショナリズムが強調されることは、他国との軋轢が増すことが危惧されて、好ましくないという評価だが、作者はこれを肯定的に見ていることが本書の特徴である。というのも著者はイスラエル人で母国がシオニズムの結果生まれた歴史を背負っていることが大きい。イスラエルが中東諸国との軋轢の中で、アメリカとの強固な関係を維持することで国を維持してきた原動力はナショナリズムなのだ。

 そのために核兵器をはじめとする軍事力を強化し、他国との戦争に備える体制を下支えするのがナショナリズムである。逆にいうとユダヤ人の文化や期限、宗教を堅固に共有しているので、国としてまとまりやすいのだ。本書では「ネイション」言葉が出てくるが、これを著者は「共通の言語や信仰を持ち、防衛やその他大規模な事業のために一丸となって活動した過去を共有する、多数の部族」からなる集団のことだと定義している。「信仰」を「なんらかの文化的価値」と置き換えれば、冒頭の「ナショナリズム」の定義と同じになる。

 著者は無政府状態と帝国主義を両極に置き、その中間的なものとして国民国家を置いている。そして国民国家が、最も個人の自由や多様性を擁護し発展させることができる政治体制だと指摘して」いる。著者曰く、「帝国主義者は、自分たちの支配が人類に平和と経済的繁栄をもたらすのだから、領土拡大こそが正しいと主張し、ナショナリストは、正しいのはネイションの自由と自決であると強調する。どちらの主張にもある程度の妥当性はある。しかし、国民国家樹立の政治的理想の大義であり成果でもある、限りない拡大を目的とする戦争に価値を置かないとする姿勢自体が、この二つの見解の間の論争に決着をつけられるほどの大きな利点であるかもしれない」と。ロシアのウクライナ侵攻を目の当たりにしている身にとって、著者の指摘は誠に正鵠を得たものと言える。

 最後に著者は「普遍的機関への政府の権限の非移譲」を挙げている。すなわち普遍的な平和と繁栄の名の下に、国民国家から自主的な判断力と行動力を取り上げることを目的とした国際機関の設立の問題である。具体的にはEUが例に出されている。著者曰く、「国際機関が加盟国に対して強制力を持つならば、それは帝国政治秩序の機関以外の何ものでもない。こうした機関へ権限を移譲すれば、必ず国民国家からなる秩序は崩壊して帝国秩序と化すしかなくなる」と。そしてカントの『永久平和のために』の、国際国家や帝国主義国家の樹立こそ理性が唯一命じることができるという主張を批判している。このあたりの論も、著者がイスラエル国民であるということが影響している気がする。これは第二十一章の「普遍帝国からの解放」に詳しく述べられている。

 ナショナリズムに裏打ちされた国民国家が近代的な自由民主主義の政治制度や市場経済も機能させられるという著者の論は理解できたが、独裁者プーチンのロシア帝国が無法の戦争をウクライナに仕掛けている現状をどう見るかが重要な問題である。非力な国民国家はNATOのような軍事同盟に頼らざるを得ない側面もある。NATOも国際機関の一種と言えないこともないので、加盟国は必然的に帝国主義的秩序に縛られることになる。ロシアや中国のような全体主義的抵抗主義と国民国家がいかに対峙するか。そして西洋的・普遍主義的価値観とロシア的価値観、中国的中華思想的価値観のはざまで日本かこれからどう動いていくのか、難しい問題である。