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読書日記

いろいろな本のレビュー

「男はつらいよ」を旅する 川本三郎 新潮選書

2023-02-04 12:53:57 | Weblog
 川本氏は昨年12月21日(水)の朝日新聞朝刊に「思い出して生きること 妻に先立たれ14年悲しみや寂しさは消えずに共にある」という文章を寄稿した。氏は1944年生まれで、今年78歳、朝日新聞記者を経て執筆活動に専念して多くの著作を出版されている。2008年に7歳年下の夫人を癌で亡くされ、子供がいない故、以来一人暮らしが続いている日常と感慨を述べたものだが、いい文章だった。著者紹介欄に最新作として『ひとり遊びぞ 我はまされる』(平凡社)が紹介されていたので、読んでみた。これは新聞原稿の元になったもので、妻へのオマージュというべきものだった。


 その中で氏は一人暮らしの徒然に鉄道旅行をして全国各地を回っているという記述があった。そして以前、映画「男はつらいよ」のゆかりの地を訪ねた本を出したことがあるというので読んだのが『「男はつらいよ」を旅する』である。初出は2017年5月で、北海道から沖縄まで、映画のロケ地をほとんどカバーしており、おまけに作品のコメントも面白くて、登場人物の個性も過不足なく描かれていて、一気に読んでしまった。山田洋次監督の手法をマンネリだと言って批判する向きもあったが、でもあれだけ長い年月、あれだけ人気を博すというのは、映画に共感する人が多かったということである。庶民の視線に立っての映画作りは山田監督ならではのものがあり、今も人気は衰えていない。私も退職後は寅さんが訪れた土地を旅したいと思っていたが、たまたま昨年12月に所属のハイキングクラブの例会で備中高梁を訪ねる日帰り旅、タイトルは「備中松山城と武家屋敷散策」というのがあり、参加した。その時のレポートを会報に載せてもらったので、ここで紹介したい。


                                 備中松山城と武家屋敷散策に参加して

 今回は青春18切符を使っての旅で、行き先が岡山県の高梁市と備中松山城とあって大いに興味が湧き参加した。備中高梁は前から行ってみたいと思っており、渥美清主演の映画「男はつらいよ」の第8作「寅次郎恋歌」(昭和46年)と第32作「口笛を吹く寅次郎」(昭和58年)の舞台にもなった静かなまちである。参加者は7名で、大阪から姫路までは新快速ですぐだったが、相生から岡山までは各停のゆっくりした旅になった。岡山で伯備線に乗り換えて高梁到着が12時8分。乗合タクシーで城の麓まで行く。あとは歩いて標高430メートルの松山城を目指す。かなりきつい。でも結構人が多い。山頂到着。石垣が美しい優美な城が見えてきた。500円を払って門をくぐると、猫城主の「さんじゅーろー」が出迎えてくれる。別に客に媚びるわけでもなく、泰然としている。城中はきれいに整備されていて、城の歴史がよく理解できた。目まぐるしい城主の交代が武家時代の厳しさを感じさせる。天守からの眺めは絶景であった。厳しい日程だったが、非常に充実した一日になった。(以上)


 この旅行で「青春18切符」はローカル線愛好者にとっては、有難いものだということが分かった。「青春」とあるが使っているのは「老人」が多いらしい。これから大いに利用したい。ちなみに第32作「口笛を吹く寅次郎」(昭和58年)のマドンナ役は竹下景子で、当時30歳。本書では言及されていないが、清楚なたたずまいといい、演技力といい、彼女の代表作ではあるまいか。彼女も今や69歳。時の流れは残酷だ。

天狗争乱 吉村昭 新潮文庫

2023-01-26 13:58:38 | Weblog
 本書は平成六年(1994)に朝日新聞社によって出版され、その年の「大佛次郎賞」を獲得した。その後、新潮文庫に入れられた。発刊から29年、以前読んだ記憶があるが、いま改めて読もうとしたのは、水戸藩の尊王攘夷の実態を「天狗党」を通して知りたいと思ったからである。そのきっかけは、最近読んだ『逆説の日本史27』(井沢元彦 小学館)で、井沢氏が水戸藩の「尊王攘夷」が朱子学に由来し、これが時代を混乱させたと書いておられたことだった。氏は夙に朱子学の弊害を『逆説の日本史』で説いており、このシリーズの特徴となっている。氏は日本史家の呉座勇一氏に素人が何を言ってるんだという感じで批判されることが多いが、歴史の読みものと割り切れば、結構楽しめる。

 まず尊王攘夷を調べると、「天皇を敬い、外国人を排斥するということで、開国してしまった弱腰な幕府への反感と外国の侵略の恐怖により沸騰した思想で、そのエネルギーは倒幕の原動力になった」とある。そして「天狗党の乱」とは、「天狗党(水戸藩の後継者争いで徳川斉昭を支持した一派)が尊王攘夷を訴えるにあたって起こした暴動のこと」という説明がある。時系列によって乱を具体的にまとめると次のようになる。安政の大獄から桜田門外の変を経て、水戸藩は門閥派(守旧派)に藩政の実権を握られていた。激派(尊王攘夷派)は農民ら千人余りを組織し、筑波山で挙兵。しかし幕府軍の追討を受け、行き場を失っていく。最後に彼らは敬慕する徳川慶喜(斉昭の息子)を頼って京都に上ることを決意。そして信濃、美濃と進むが、頼みの慶喜に見放され越前に至ったところで加賀藩に降伏した。幕府に寛大な処置を嘆願したが、352名が処刑されるという無残な結果となった。

 その一部始終を描いたのが本書で、挙兵した若者の血気盛んで無軌道なさまを田中愿蔵(22歳)に、方や反乱軍の首領となったが一貫して分別のある人物として武田公雲斎(63歳)に焦点を当てて上記の行程が進んでいく。イデオロギー実践とそれに苦しめられる民衆の実相が各地で行われる略奪暴行の描写で示される。隊長田中愿蔵をここまで無軌道にする、尊王攘夷思想とはという著者の問いかけが感じられる。また立場上彼ら尊攘派に就かざるを得なかった武田公雲斎の苦悩も理解できる。いずれにしても反乱が成功するには多くの困難が伴う。政治の世界の闇を垣間見る思いだ。田中も武田も刑死したが、彼らが頼みにした徳川慶喜の裏切りがクローズアップされるが、腰の引けた自己保身に走る男のザマが淡々とした筆致で描かれるのが秀逸。

 吉村氏の歴史小説は、広く資料にあたって登場人物の表情がわかるほど精緻な描写をすることで多くの読者を得てきたと思う。宿場町で天狗党に金品を略奪される人々の苦悩と、略奪を意に介せず無慈悲に暴れる兵士。反乱(革命)の正義は人民を塗炭の苦しみに追い込む。これは時代を超えたテーマである。そして権力を持つものが己の利益で行動して他者を裏切り苦しめる。慶喜のような人物はどこにでも現れる。今世界で起きている問題の祖型はこの「天狗党の乱」にあると言えるだろう。降伏した天狗党を残酷に処刑した江戸幕府のやり方は、まさに政権末期の組織の悪弊がでたものだ。消滅する権力の姿がそこにある。

村八分 礫川全次 河出書房新社

2023-01-16 14:04:52 | Weblog
 「村八分」とは広辞苑によると、「江戸時代以降、村民に規約違反などがあった時、全村が申し合わせにより、その家との交際や取引などを断つ私的制裁」という定義を示している。「八分」は「ハツム」(撥撫=嫌ってのけ者にすること、仲間から外すこと)の転という説もある。これはムラ(村落共同体)が行う制裁の代表として、よく知られている。本書に引用されている竹内利美氏は「村の制裁」を九つの形態に分類した。重い順に並べると、①追放、②絶交、③財物没収ー過料、④禁足及謹慎、⑤体罰と暴行、⑥見懲しと賦役賦課、⑦諷示的制裁、⑧陳謝、⑨面罵と陰口となる。これらはいわば近世村法の一態様で、「村八分」は、「追放」に次ぐ重い制裁である。公儀の立場からは否定されるべきまさに「私的制裁」であった。しかし著者によると、この私的制裁は係争として表面化しない限り、名主は村が発動する「村八分」などの制裁を「黙許」していた。公儀もまた名主が「黙許」していることを「黙許」していたとして、広辞苑の定義の「私的制裁」の部分は「公権力から黙許された私的制裁」というべきと述べている。

 これらの私的制裁が旧習になじんだ時代ならともかく、明治を過ぎ、大正・昭和・平成を過ぎた、令和の時代においてもなくならないのはどうしてかという問いかけがなされる。そして江戸時代から現代に至るまでの「村八分」の具体例が示され、その後、これが「封建遺制」といったものではなく、近代の共同体の崩壊過程においてのみ生じるものであるという中村吉治氏の見解を紹介して賛同の意を表明している。その要点は、「緊密な不可分の一体としての共同体(例えば江戸時代の農村)では、成員をみだりに増したり減らしたりはできぬ。基本的には独立してきた農民(近代以降)が、感情や行事や祭りの面で村意識をもっているようなときに、祭りの仲間から除外するというごとき村八分が可能となる。農業をやめさせたり、学校へ行かせなかったりはできない。ところが行事・慣習の面で感覚的な強さがあるから、村八分は苦痛を与えるのである」ということである。少しわかりにくいが、かつての生産共同体が疑似共同体に代わっていく中で、近代的な個人意識が成員のなかに生まれるが、それでも公共的な場での共同体的規則は残存するわけで、そのようなときに村八分をやられるとダメージが大きいということだ思う。かつては共同体の中で自分の意思を通すことは難しかったが、今はその縛りが緩んで自我を通しやすくなった。しかし行き過ぎると仲間外れにされるわけで、これが逆にこたえるということだ。

 村八分を含む「村の制裁」(村法)は現代社会においても生きている感じがする。例えば学校における規則、「校則」がそれだ。学校内では暴力禁止。破れば無期停学か退学。髪染め禁止etc.。原付バイクの免許取得禁止(国は免許取得を認めている)。学校をムラと考えると、社会のありようがよくわかる。今の学校はかつての農村以上に同調圧力が強いのではないか。全体の調和を強く求められる。例えば始業式の頭髪検査。これは主にパーマ・毛染めのチェックだ。これをやるのが担任と生徒指導部。外見を整える努力をしている中で、残念ながら、村八分ともいうべき「いじめ」が起こる。これは私的制裁ゆえに、係争が表面化しなければ黙許される。表面化しても一般の法律で生徒が裁かれることはない。これをもってしても、開かれた学校というのは絵空事に過ぎないことがわかる。以上「村八分」は極めて現代的なものである。


 

戦国武将、虚像と実像 呉座勇一 角川新書

2023-01-05 14:43:19 | Weblog
 呉座氏はベストセラー『応仁の乱』(中公新書)の著者で、日本中世史の研究者である。2022年度のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の時代考証を務めていたが、SNSの炎上問題をきっかけにして退任した。その余波で勤務先の「国際日本文化研究センター」の助教も解任された。発端はフエミニストとして批評活動していた女性との論争で、相手を誹謗中傷したことが挙げられている。現在は信州大学特任助教のようである。呉座氏の本は『応仁の乱』を始め何冊か読んだが、資料の扱い方がうまく読みやすいのが特徴だ。周辺の資料も広汎に当たっており、勉強家だなあというのが第一印象。資料に対するリゴリズムは相当のもので、『逆説の日本史』(小学館)の井沢元彦氏や『日本国紀(幻冬舎)の百田直樹氏などは、素人の論法などと手厳しく批判されている。SNSの炎上問題も呉座氏のそのような、いわば職人気質が表れたのかもしれない。まあ学者に多く見られるタイプではある。

 本書は戦国の武将、明智光秀、斎藤道三、織田信長、豊臣秀吉、石田三成、真田信繁(幸村)、徳川家康の世評について検討したもので、なかなか面白い。個人的には徳川家康の忍耐の人というイメージを定着させた「信康事件」の真相を解説した部分が良かったと思う。事件は織田信長の命令によって、家康が嫡男信康と信康の母(家康の妻)築山殿を殺したというものである。具体的には信康の正室徳姫(織田信長の娘)が信長に、信康が鷹狩の場で僧侶を縛り殺す、築山殿が武田氏と内通しているなどの不行状を訴えた。信長は酒井忠次・大久保忠世に尋ねて信康の不行状を事実と確認、信康は家康の後継ぎとしては不適任と怒り、家康は「信康を自害させます」と述べ、信長は「処分」は任せる」と返答した。信長から殺害指示が出て、家康が泣く泣く切腹させたというのはどうも後世の作り話のようだ。前から信康の行状に頭を痛め、築山殿と一緒に親武田路線を唱えていたので、この際二人を亡き者にしようと考えていたのが実際のところだったようだ。それに、家康と築山殿は前から別居しており、夫婦としての関係はほぼ破綻していたらしい。

 江戸時代、神君家康がわが子を殺したという不都合な真実を糊塗するために、信長から信康殺害を強要されたという物語が作られ、時代を経るにつれ悲劇性が強調されていったと著者は言う。ここら辺が狸おやじと評される所以なのかも知れない。最近『家康の正妻築山殿』(黒田基樹・平凡社新書)という本が出たが、これも呉座氏の見解とほぼ同じであった。さらに築山殿の人生を詳しくたどっていて、長年の別居状態に伴う家康との信頼関係の希薄化から、嫡男・信康に対する思いを強くしていくプロセスが語られる。今年のNHKの大河ドラマは「どうする家康」で、築山殿を有村架純が演じるらしい。この黒田氏の本を読んでおくと、ドラマへの興味も沸くだろう。悪女として描くか、善女として描くか。それとも善悪入り混じった女性として描くか。ここが見どころになるだろう。

信仰の現代中国 イアン・ジョンソン 白水社

2022-12-13 09:12:58 | Weblog
 出版元の白水社は全体主義国家に生きる庶民の日常を描いたり、反権力の活動をする人間を描いたりという内容の本を多く出版しており、私の好きな本屋である。本書の副題は「心のよりどころを求める人々の暮らし」で、中国の庶民の宗教事情をルポしたものだ。内容は習近平が主席になった頃で、今から10年前のものである。2012年の春節から一年間の出来事を追っている。内容は七部構成で、中国の伝統的な暦に基づく二十四節季(「啓蟄」「清明」など)に振り分けられ、それぞれが「北京」「山西省」「成都」「しきたり」「実践」という五つのテーマに分けられている。

 「北京」の各章では、聖なる山である妙峰山への参拝客にお茶をふるまう香会を営む倪家、「山西省」の各章では、都市化の進む農村地域で道教の音楽を奏で、儀式や占いをする李家、そして「成都」では精力的なプロテスタントの牧師であるワンイーのことがそれぞれ取り上げられる。本書によると中国には仏教徒と道教徒がおよそ二億人、プロテスタントが5000万から6000万人、ムスリムが2000万から2500万人、そして約100万人のカトリックがいるという。合計すると3億人が信仰をもっていることになる。これ以外に、何らかの形の道教や民間信仰を行う人々が1億7500万人いるというから相当な数である。

 Uチューブなどで、中国農村散歩的なものが盛んに投稿されているが、貴州省の市場などで、「算命」(占いのこと)と書いた看板を掲げて商売しているのをよく見かける。貧しい生活の中で、自分の人生を気に掛ける人々がいかに多いかがわかる。江沢民時代に法輪功が弾圧されてから、宗教に対する締め付けが厳しくなったが、依然として魂の救済を求める人間が多いのは事実である。しかし共産党は信教の自由を認めておらず、法令で宗教は政治と結びつくべきではなく、国に規制されるべきものだと明確に定めている。地下の活動は黙認されるかもしれないが、違法である。外国の組織と関係を持つことも同様に禁じられている。

 中国共産党としては宗教は伝統的な儒教や道教由来の者は大目に見て黙許する傾向があるが、キリスト教に関しては厳しく抑え込んでいる。先般キリスト教会が当局によって破壊されるニュースを見たが、ひどいものである。従って未登録のキリスト教はマンションのような建物に拠点を置かざるを得なくなっている。これは習近平がキリスト教に敵意をいだいているという証明だと断定はできないが、仏教やその他の伝統的な宗教よりは厳しいことは確かだ。事実2016年に習近平は、宗教の中国化を求める会議の議長を務め、主流宗教を支持するのは、それらが中国の伝統的価値体系の再生に明確に結びついている場合に限定するという立場を明確にした。

 それもあってか、牧師のワンイーが2018年12月妻のチアンロンとともに逮捕され、教会も閉鎖された。妻は半年後に解放されたが、ワンイーは19年12月に禁固9年の刑を受けたという報告が訳者あとがきに書かれている。ちょうどキリスト教会が破壊される時期と符合する。習近平は何が何でも体制維持が大事で、それ以外のことは考えていない。今の地位を維持するために命を懸けている。逆に転落すれば、待っているのは死であるから生きてる間はこの圧政は続くであろう。しかしコロナ禍という難敵が彼の行く手に立ちはだかる可能性がある。相手はウイルスゆえに宗教弾圧・人権弾圧のようにはいかない。見えざる敵、いわば透明人間と戦うようなものだ。目が離せない。

アメリカの教会 橋爪大三郎 光文社新書

2022-12-05 09:45:10 | Weblog
 副題は「キリスト教国家」の歴史と本質。アメリカは世俗主義国家とはいえキリスト教の縛りが非常に強い国である。大統領の就任時の宣誓にしてもダーウインの進化論が教育段階で排除されるにしても神の存在を前提にした事例が多い。本書はこのアメリカのキリスト教について詳細な解説を施したもので、まるで百科事典を読んでいるようだった。それは極力感情的な表現を排し、客観的な記述を心掛けたためであろう。

 今回は本書を読んで、私の今まで理解が足りなかった事柄を取り上げたい。第一に、新大陸にはイングランド以外にスペイン、ポルトガル、フランス、オランダなどが植民地を持っていたが、それらの国はカトリックが唯一の教会であって(オランダは改革派)、本国の教会が植民地の教会になるのに、今のアメリカはそうなっていないという問題。これについては、フランスは、ルイジアナ(ミシシッピ河の流域)やカナダの一帯を、スペインはフロリダや北米大陸西部の一帯を植民地としていた。フランスもスペインもこれらの地域を手放したので、その影響はアメリカ合衆国にほとんど残っていないというのが著者の回答。

 第二に、イングランド植民地の宗教はどうかという問題。イングランドは国王が特許状(チャーター)を発行して誰か(個人や法人)に植民地の経営を任せるやり方を取った。入植が始まった頃はヨーロッパでは宗教をめぐる混乱が続いており、信仰の自由を求めて新大陸に渡る人が多かった。そのような状況下で、イングランド国教会を飛び出したピルグリム・フアーザーズ(分離派といわれる)をはじめいろんな派の人々が入植した。先述のように本国は植民地の教会のことまで干渉しなかったので、イングランドの植民地はさまざまの教会の展示場の様相を呈することになった。それは教会は民間の任意団体で自由に設立できるという事情と関わっている。これがアメリカが世俗国家であることを保障している。カトリックやイスラムが支配する国家とは違うのである。本書では各宗派の特徴をわかりやすく解説していて大いに参考になる。

 第三に、なぜアメリカでは共産主義(共産党)が認められないのかという問題。著者は言う、マルクス主義は宗教ではなくて政治思想である。そして、非暴力ではなくて暴力による革命思想である。しかも無神論である。宗教はアヘンだとする。マルクス主義は神の代わりに理性を信じ、科学を自称する。知的な人々の組織である共産党が世界の解釈権を握る。そして人々を統治する。要するに人の支配である。これは「神の支配」を当然視して神の王国の到来を待ち望むキリスト教と両立しない。よってアメリカはマルクス主義を受け入れない。アメリカは反共である。マッカーシズム(第二次大戦後の1950年に起こった共産主義者弾圧事件。上院議員のジョセフ・マッカーシーが非米活動委員会を舞台に、国務省など政府関係者、ハリウッドの映画関係者、マスメディアの人々を共産党員などの嫌疑で次々告発した)はその極端な表れである。これで共産党は非合法化された。ちなみにハリウッドの映画界で共産主義者の摘発に一役買ったのがロナルド・レーガンである。彼が後に大統領になれたのもこのことが影響している。

 以上三点、今まで不明な点がはっきりした。橋爪氏のおかげである。最後に「結論」としてまとめがついているのもうれしい。今話題の中国については、「世俗の政府と教会(中国共産党)が合体した、神聖政治になっている。自由や民主主義の余地はない。資本主義が発展すれば、そのうち民主化するかもという話ではない」とある。中国共産党は一神教を主催する教会であるがゆえにチベット仏教も、イスラム教も、カトリックもプロテスタントも法輪功も厳しく管理して抑え込んでいるのだ。スマホと監視カメラでの統治。そしてあの独裁者とその取り巻き連中。庶民はすべてわかっているはずだ。国の将来を。

 

伽羅を焚く 竹西寛子 青土社

2022-11-17 10:03:50 | Weblog
 本書は竹西氏が雑誌ユリイカに連載した「耳目抄」の301回から338回までの文章を収めたもの。時期的には2011年から2015年で、世相としては東北大震災で東京電力福島第一原発事故があって、民主党政権から自民党安倍政権になって強権を発動していた頃である。著者によると、毎月「主題」も「形式」も決めず「事」や「物」や「人」について書くということだったらしい。よって内容は文学的なものから世相に対する批評まで多岐に渡っているが、原発事故に対する国の対応や安倍政権の多数を恃んだ強引な政権運営を、主に国会の討議での言葉の使い方に小説家の視点から批評している。「伽羅を焚く」という表題は、亡父の命日に自分の好きなお香を焚いたという2013年3月号の記事から取ったものである。


 竹西氏は1929年広島市生まれ。ということは今年93歳である。私の母と同い年でともに元気で何よりである。氏は戦争末期には学徒動員で軍需工場などで勤労奉仕に従事したとある。母も女学校時代勤労動員で明石の三菱重工業で働いていた。氏は1945年8月6日の原爆投下の際は、動員先の工場をたまたま体調を崩して休み、爆心地から2,5㎞の自宅にいて助かったが、多くの級友が被爆死し、この時の体験が後の文学活動の原点になっている。氏が福島原発事故にこだわるのも、安倍政権の再軍備を視野に入れた憲法改正の企みに批判的なのも自身の戦争体験にあることは確かだ。母は一市井の人間だが、戦後再び戦争がなく子育てできたことが何よりありがたいといつも言っていた。もし息子を戦場へ送らななければならない状況になったら目も当てられないと。昨今の国際状況は全体主義的な独裁者が戦争を仕掛けるという中で、平和の有難さを理解せず戦争もやむをえないというような言説がクローズアップされがちだが、もう一度、頭を冷やして竹西氏のような戦争体験者の言葉に耳を傾ける必要があるのではないか。77年間平和憲法を守ってきたその歴史は重いのだ。


 竹西氏の怒りは平成二十七年(2015)安倍政権によって、憲法九条の解釈が変えられ、集団的自衛権の行使を認める安全保障関連法案が強行採決された国会中継を見たときに爆発する。首相が「世界のリーダーに」「世界への貢献を」「国民の生命と財産を守るのが私の責任」と唱え続けて、質疑応答が一向に要領を得ない自己主張の繰り返しで、まともに野党の質問に答えないことが常態化していた。氏は俵万智氏の短歌、「天ぷらは和食ですよね」「繰り返し申し上げます。寿司が好きです」を例に挙げて、誰でもわかる易しい言葉にユーモアを漂わせた政権批判だと絶賛している。これはご飯論法と言われるもので、「朝ごはん(朝食)は食べましたか?」という質問に対して、実際はパンを食べたにもかかわらず「ご飯(米)は食べていない」と答えることを指す。首相やその側近がこのような語法を使って答弁していたことを昨日のことのように思い出す。内閣法制局長官まで首相を忖度してこの語法を使っていた。これが民主主義国家かと怒った国民は多かったはずだ。


 氏はこのような言葉の本質を認識しない為政者が作り出した「法」の中で生きざるを得ない苦しさを戦争体験者として危惧している。曰く、「法」の成立と運用に関する限られた為政者の、言葉の揺れについての気持ち悪さがある。国の内外に、政道の諫めを詩作にかねた為政者も少なくはないが、為政者は言葉の専門家であるべしなどとは思っていない。ただ、「法」の運用者である以上、できるだけいい加減でない言葉遣いをしてほしいのであると。言葉で世界を組み立てる小説家からしたら最近の政治家の言葉の貧困は見ちゃおれないのであろう。


 このように竹西氏は自己の戦争体験をもとに優れた作品を生み出してきた。戦争によって壊される市井人の生活をリアルに描いたものが多い。その中で、個人的には「蘭」という短編が、戦時の家族やその周辺の人間模様をひさしという少年の目を通して描いて読みごたえがある。庶民の戦時の生活の断面が鮮やかに切り取られている。是非一読を。今G20に出席中の岸田首相も広島出身だが、この際郷土の大先輩竹西氏に自分の弁舌についてコメントしてもらったらどうか。私の見解は、「言葉は一応すらすら流れているが、陳腐な言い回しが多く人に感銘を与えるレベルではない」である。どうだろうか。

嘉吉の乱 渡邊大門 ちくま新書

2022-11-07 13:00:02 | Weblog
 「嘉吉の乱」とは、室町時代の嘉吉元年(1441年)に播磨・備前・美作の守護・赤松満祐が室町幕府六代将軍足利義教を殺害し、領国の播磨で幕府の討伐軍に敗れて討たれるまでの一連の争乱である。本書は乱前後の赤松氏の歴史を詳細に述べて、足利将軍との関係等の実相を描いているところが特徴である。P35に赤松氏の略系図があり、満祐をはじめとして主な人物が紹介されている。本書の腰巻に、「前例のない犬死」「自業自得」とまでいわれた暗殺の全貌。守護・赤松満祐はなぜ将軍・義教にキレたのか?とある。この義教という将軍は籤引きで選ばれたことで有名だ。つとに今谷明氏が『籤引き将軍足利義教』(講談社選書メチエ 2003)で述べておられるが、石清水八幡宮で籤が引かれて将軍職が決定された。籤の詳しい内容まで書かれており、大変興味をそそられた。籤引きの根底には、籤は神慮であるという思想があるということをここで知った次第。

 四代将軍足利義持は、応永35年(1428)に後継者を定めぬうちに死去した。(嫡男の五代将軍義量は早世していた)。義持が後継者を決めなかった理由はP82に書かれている。重臣たちは合議の結果、出家していた義持の四人の弟たちの中から「籤引き」で後継者が選ばれることになった。その結果天台座主の義円が還俗して義宣(のちに義教と改名)、六代将軍に就任した。当初は有力守護大名による衆議で政治を行っていたが、長老格の畠山満家、三宝院満済などが死ぬと政治力を発揮して守護大名の家督相続にまで干渉するようになり、意中の者を家督に据えさせた。以後自分の意に背くものをことごとく誅殺したので「万人恐怖」といわれるようになった。

 出家していたものが、還俗して権力を握り、かくまで恐怖政治を実行するとは驚きだが、逆に言うとこれが権力の恐ろしさともいえる。守護大名に対する牽制は赤松満祐にもおよぶ。最初二人の関係は良好で義教は満祐の屋敷を訪問して満祐主催の連歌会に出席などしていたが、その後風向きが変わって義教に疎まれるようになり、永享九年(1437)には播磨・美作の所領を没収されるという噂が流れた。義教は赤松氏庶流の赤松貞村を寵愛し、永享十二年(1440)3月に摂津の赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。このため満祐は五月頃に病気と称して出仕しなくなった。いつ義教にやられるかと思って精神的に参っていた模様である。そんな中、六月二十四日に乱が起こった。やられる前にやってしまえということである。

 本書の記述を引用する。「四月に結城合戦の戦勝が報告され、諸家で招宴が催された。満祐の子・教康は自邸で義教を招き招宴を催した。招かれたのは管領の細川持之、山名持豊、大内持世、畠山持永、京極高数という面々だった。満祐の姿がなかったのは、心身を病んでいたからである。この招宴では、酒宴とともに赤松氏が贔屓にした観世流の能楽師により、猿楽が演じられていた。宴たけなわの頃、突如として甲冑に身を包んだ武者十数人が乱入し、あっという間に義教を斬殺した。居合わせた諸大名はすぐさま逃げ出し、反撃することはなかった。わずかに大内持世、京極高数が抜刀し、防戦したという。(中略)義教の首は赤松氏の手に渡った」。簡潔な描写だが、緊迫感が伝わってくる。「万人恐怖」の主体があっという間に消え去った瞬間である。暴力で弾圧するものは必ず暴力で倒される。我々が歴史に学ぶことはこれである。

 幕府の権力を高めるために守護大名を抑えることは室町幕府の将軍としては当然の責務だが、義教の場合は度が過ぎた。自分が押した分だけ押し返された。これを作用・反作用の法則という。義教が還俗せずそのまま天台座主でおれば、おそらく天寿を全うできただろう。死の瞬間義教の脳裏に浮かんだものは何だったか。いや、それを考える暇もなかったというのが実際だったかもしれない。宗教者が俗世で権力に就いたとき、人の道を説くというモットーは簡単に捨てられ、やすやすと恐怖政治の主体になるというのが不思議だ。さて現代に眼を移すと、噂の中国共産党の指導者も政敵を弾圧してプチ義教的だが、押した分だけ跳ね返ってくることを肝に銘じた方がよい。その時は案外近いかもしれない。隣国のミサイル打ちまくり指導者も同じだ。
 

40歳からは自由に生きる 池田清彦 講談社現代新書

2022-10-22 14:17:34 | Weblog
 副題は「生物学的に人生を考察する」。池田氏の本は何冊か読んだが、結構面白い。ご自身が生物学者だということもあり、発言に説得力がある。本の腰巻にこうある、「人の生物としての寿命は38歳。だから40歳を過ぎたら上手に楽しく生きよう。世間の常識より自分優先!【おまけ】の人生だから社会の束縛や拘束から解放されて、楽しく面白く生きる」と。これだけでも十分という感じだが、中身は生物学的蘊蓄に基づく人生論という感じ。

 昔は「人生どう生きるか」という本がほとんどで、老後をどうするこうするというのはほとんど見かけなかった。大体55歳で定年という時代だったので、60過ぎで死ぬ人が多かった。私は昭和43年に高校に入学したが、その時習った国語の先生は58歳で入れ歯をしておられた。見るからに年寄りという感じで、こんな爺さんいやだなあと思った記憶がある。今は70歳まで働けという時代になって、この変化は感慨深いものがある。そのため最近の本屋で並ぶ本は70歳、,80歳代をどう生きるかというテーマで、具体的な処方箋をあれこれ示して人気を博している。

 本書はそれらの本ほど俗ぽっさはないが、高齢者の生き方指南という点では共通している。高齢書の生き方というのは、最後はどう死ぬかという問題を避けて通れない。いくら楽しい70,80歳代を過ごしても最後は死の問題と向き合わなければならない。古来「死とは何か」というのは重要なテーマで、哲学の課題でもあった。でもそれが解決されたという話は聞かない。テレビやUチューブで野生動物の生態を記録したものが多く流されているが、多くは弱肉強食がテーマで、食物連鎖の頂点に立つライオンやトラ、豹などが獲物を狩るシーンが多い。餌にされる草食動物は食われるために生きているという言い方もできるわけで、人間の感性からするとやってられないということになる。生きがいもくそもないのだ。それでも彼らは子孫を残すべく黙々と草を食んでいる。そして年を取ると群れから離れてしまい、あっという間に肉食獣に狩られてしまう。厳しい。老後の生き方もくそもない。

 しかし、肉食獣も年を取ると餌が捕れなくなって、飢え死にをすることになる。ライオンなどは群れで生活しているので、ある程度老後は保証されているかもしれないが、オスの場合は他の個体にボスの座を奪われて群れを離れると厳しい未来が待ち受けている。彼らは死をどう受け入れているのだろうか。この点に関して池田氏は次のように述べている「人間以外の生物は前頭葉が発達していないため、確固たる自我を持たず未来というものを考えることができません。過去についても、記憶はあるけれど、時間の感覚が希薄なため、いつから自分がこの家に飼われているかとかわかっていないはずです。(中略)何よりうらやましいのは、未来がない動物たちには、自分の死という概念が存在しないため、死への不安や恐怖と無縁でいられることです。イヌやネコはは死の間際になっても、死の影に怯えるなんてことは全くなく、{今、ここで、自分は苦しい}という感覚があるだけですから、少しでも苦痛を和らげようと、自分にとって一番ラクなところを選んで、じっとうずくまってやり過ごそうとするわけです」と。そして生物はエサや縄張りや異性をめぐって残酷な殺し合いをすることがあるが、少なくとも国家や愛国心やイデオロギーといった概念のために命を張るようなことは間違ってもしない。楽しく生きるには、こういった概念に取り込まれないことが大切と述べている。これで少し気が楽になった。これをどこかの国の69歳の何とか主席に教えてやったらいいのではないか。本書はいろいろな事例を挙げて老後の生き方を指南してくれているので、興味関心のある部分にヒットするだろう。

最後の海軍兵学校 菅原 完 光人社NF文庫

2022-10-11 09:33:00 | Weblog
 NFとはノンフイクションのこと。光人社NF文庫は第二次世界大戦(太平洋戦争)関係のものを中心に刊行しているが、元兵士の体験を書いたものも多くある。しかし元兵士も高齢化しており、その体験を書くことが困難になりつつある。今後は残された資料を第三者がまとめるという方向にならざるを得ないだろう。本書の著者の菅原氏も1929年生まれで今年93歳、最後の著作になりそうだ。

 この光人社NF文庫の版元は潮書房光人新社で、同社は雑誌『丸』も出している。雑誌『丸』は1948年の創刊で、今も生き残っている。私はこの雑誌を小学生時代(1960年代前半)に購読していた記憶がある。その頃はプラモデルが大流行で、戦艦大和、ゼロ戦等々を組み立てて楽しんでいた。『丸』はそれらの写真が豊富に載っていたので、喜んで買っていたのだ。小学生だから戦争の実相もわからずに。今もこの雑誌は刊行を続けているが、廃刊になってないということは、それなりに読者がいるということになる。多分高齢者がかつてのプラモデル少年時代を懐かしんでいるのだろう。その辺、興味が湧く。

 さて本書は太平洋戦争末期の昭和20年4月に兵学校入校の77期3115名の記録である。その年の8月15日に終戦なるので僅か四か月の兵学校生活である。記録によると太平洋戦争中盤、海軍兵学校は江田島に加え岩国、大原に分校を開校し、終戦時は75~77期まで一万名を超える士官の卵が学んでいた。著者は岩国分校に配属された341名の1人で、そこでの日々の生活ぶりを記録したものである。終戦が確実視される中での軍人になる教育を受けるというのも、何か不思議な感じがする。


 著者は昭和19年7月に受験したが、受験者数四万7802名、合格者3115名で合格率6,5%で15人に1人の難関である。著者によると、学科試験の内容は総合点で合否を決めるのではなく、国語漢文、歴史、数学、理科物象、英語で、科目ごとに決められた点数を取る必要があった。試験は毎日午前中に行われ、午後になるとその日の結果が発表され、不合格者はそれで終わり。合格者は翌日に次の学科を受ける。難関は数学で、これで失敗した者が多かった。最終日が英語で、これに受かれば面接と続く。これをクリアーして合格発表を待つ。英語が試験に入っているというのが兵学校らしい。これは前校長の井上成美の教育方針であった。英語ができなくてどうするかという感じだろう。

 この英語を学ばせて国際的な視野を植え付けるという海軍の方針は、兵学校生徒を日本の資産と考えて敗戦後の祖国再生を期していたことがうかがわれる。終戦末期に三学年で一万名もの生徒を受け入れたことがそれを証明している。優秀な人材を兵学校で確保して戦場から隔離して命を守るということだろう。これは大っぴらにできないのでこのような方法を取ったのであろう。とにかく海兵、陸士といえば日本中の俊才が集まる学校だったのだから。かつて作家の小松左京が、「太平洋戦争で海兵、陸士出身の秀才が大方死んでしまい、私のような鈍才が生き残ったのが悲しい」と言っていたが、ある種の真実を語っている。


 著者も最後に次のように言っている、「当時の情勢から考え合わせると、海軍は筆者たちを敗戦後の日本の再建要員として温存しようとしたのではなかろうか。普通学が多く、時間数は少なかったが英語もあった。当時、英語を教えていた学校は他になかったはずである。もしも再建要員だったとすれば、筆者たちは戦後、各界で活躍して日本の再建に微力ながら貢献し、海軍当局の深謀遠慮に応えましたと誇りをもって言えると思う。戦艦大和やゼロ戦を造った技術と同様、兵学校生徒は海軍の大いなる遺産だったと言えるのではないだろうか」と。心にしみる言葉である。将来を見据えた人材教育、今の日本に欠けているのはこれである。ただ為政者に教養と見識がないのが悲しい。