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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

二つの側面

2023-10-09 09:39:14 | 日記・エッセイ・コラム
二字熟語、
真実、分別、創造、知識、等々
まことまこと、わけるわける、つくるつくる、しるしる、等々
同じ意味を重ねる、
これは漢字の凄技の一つ、
そのことで意味に深みを与える、
しかして漢字は文字で目に訴えるもの、
それに比べての大和言葉、
ひとつの言葉に多くの含みを持たせる、
言葉は分けるものだが、
分けすぎないように留めて、
ものごとの本質を捉える、
それを全身で伝える、
それが凄技、
しかしてそれは音韻、
この二つは実に相性が良い、
ここに日本語がある、
そこで想う、
その発祥は知らず、
今や漢字は日本語そのもの、
むしろその初めからそうなのかもと、
今のシナには見られないし、
あるとすれば台湾、
その台湾は大和に会合した、
そも列島のつらなりの中にあった、
ゆえ台湾はシナではない、
そも台湾はシナではない、
・・・・・
漢字の立ち位置は、
それが音ではなく絵であること。
もとより話すには音だけで十分。
敢えて文字を使う必要はない。
それは特定の者だけが使えばいい。
多くは政治的理由であろうし、
庶民には必要がなかった。
簡体字になったのは、
これまた政治的理由であり、
それを庶民にも知ってもらおうとのこと。
ために表音文字的になってしまい、
漢字の良さが損なわれてしまった。
日本は音を借りたが、
その字義も徹底的に追及した。
そしてその意味を把握して、
それを大和言葉にあてる。
それが訓読みなのです。
かくて漢文をそのまま和語として読んだ。
句読点や返り点を付けて。
さらに「かな」もつくり、
日本語を日本語として表現する。
それが漢字かな交じり文である。
これが又凄いのである。
これは世界に類を見ない唯一無二のもの。
言葉はそも音である。
その波動が耳から入り脳で聞く。
その波動は音が同じでも強弱や高低それに震えなど、
あらゆる要素をもって人に伝わる。
これは言葉本来が持っているもの。
だが日本語にはそこにプラスαが加わる。
ときに音だけであっても、
漢字を日常的に使っていれば、
それが無意識に脳内に現れる、
目から入った光を見るように。
二字熟語には同音異義語が多いのだが、
それも何とか捉えられるのである。
そこで思うのです、
日本語は聞いても読んでも、
それを脳内で音的にも絵的にも捉えていると、
それもほとんど無意識の内に。
そこが凄いところ。
これは漢字かな交じり文の効果であると。
昨今はカタカナ語が氾濫しており、
ときには、
カタカナ語と「てにをは」だけの文章もあるが、
それも平然とやり過ごすのである。
それを私はカタカナかな交じり文と謂う。
これも漢字かな交じり文の延長か。
そんなわけで、
日本語は外来語を簡単に取り込む。
文字もそうである。
アルファベットだって最早日本の文字になってるし。
思えば日本語は言語のブラックホールのよう。
かく思えばである、
皇室と縁のある華頂博一先生が、
日本語は現今文明における最古の言語であると、
確信を持って言っておられるが、
真に興味深いことです。
・・・・・
和語はそれほど多くない語彙と、
「てにをは」で成っている。
言葉の最初は音である。
初めは短く単純なものだったか。
一音一意の和語には50音図と謂うのがある。
重なりがあってそれより少し少ないが。
だから基本語彙は多分50を超えない。
すべてはそこから派生し、
すべてはそこへとかえる。
それを繋ぐのが「てにをは」である。
それを(動詞の)活用が支えている。
簡潔にしてしかも複雑。
実に妙なり。
そこへ以って漢字です。
これは一字一意である。
これが加わって世界はさらに広がる。
絶妙である。
だから想うのです。
漢字を育てたのは日本だと。
その証もある。
その一つが書道である。
ために描くは主に漢字ひらがな。
それは字なのだが絵てきである。
現代の抽象画にも繋がっている。
音と絵、
これは言葉の二つの側面である。
してもその本貫は音にある。
音は身体全体に伝わるもの。
これは対面してこそのもの。
リモートはそこがやや弱い。
絵の場合は目にしか伝わらない。
その先は脳にまかせるしかない。
そういう違いがあると。
言わずもがな、
かな。