二字熟語、
真実、分別、創造、知識、等々
まことまこと、わけるわける、つくるつくる、しるしる、等々
同じ意味を重ねる、
これは漢字の凄技の一つ、
そのことで意味に深みを与える、
しかして漢字は文字で目に訴えるもの、
それに比べての大和言葉、
ひとつの言葉に多くの含みを持たせる、
言葉は分けるものだが、
分けすぎないように留めて、
ものごとの本質を捉える、
それを全身で伝える、
それが凄技、
しかしてそれは音韻、
この二つは実に相性が良い、
ここに日本語がある、
そこで想う、
その発祥は知らず、
今や漢字は日本語そのもの、
むしろその初めからそうなのかもと、
今のシナには見られないし、
あるとすれば台湾、
その台湾は大和に会合した、
そも列島のつらなりの中にあった、
ゆえ台湾はシナではない、
そも台湾はシナではない、
・・・・・
漢字の立ち位置は、
それが音ではなく絵であること。
もとより話すには音だけで十分。
敢えて文字を使う必要はない。
それは特定の者だけが使えばいい。
多くは政治的理由であろうし、
庶民には必要がなかった。
簡体字になったのは、
これまた政治的理由であり、
それを庶民にも知ってもらおうとのこと。
ために表音文字的になってしまい、
漢字の良さが損なわれてしまった。
日本は音を借りたが、
その字義も徹底的に追及した。
そしてその意味を把握して、
それを大和言葉にあてる。
それが訓読みなのです。
かくて漢文をそのまま和語として読んだ。
句読点や返り点を付けて。
さらに「かな」もつくり、
日本語を日本語として表現する。
それが漢字かな交じり文である。
これが又凄いのである。
これは世界に類を見ない唯一無二のもの。
言葉はそも音である。
その波動が耳から入り脳で聞く。
その波動は音が同じでも強弱や高低それに震えなど、
あらゆる要素をもって人に伝わる。
これは言葉本来が持っているもの。
だが日本語にはそこにプラスαが加わる。
ときに音だけであっても、
漢字を日常的に使っていれば、
それが無意識に脳内に現れる、
目から入った光を見るように。
二字熟語には同音異義語が多いのだが、
それも何とか捉えられるのである。
そこで思うのです、
日本語は聞いても読んでも、
それを脳内で音的にも絵的にも捉えていると、
それもほとんど無意識の内に。
そこが凄いところ。
これは漢字かな交じり文の効果であると。
昨今はカタカナ語が氾濫しており、
ときには、
カタカナ語と「てにをは」だけの文章もあるが、
それも平然とやり過ごすのである。
それを私はカタカナかな交じり文と謂う。
これも漢字かな交じり文の延長か。
そんなわけで、
日本語は外来語を簡単に取り込む。
文字もそうである。
アルファベットだって最早日本の文字になってるし。
思えば日本語は言語のブラックホールのよう。
かく思えばである、
皇室と縁のある華頂博一先生が、
日本語は現今文明における最古の言語であると、
確信を持って言っておられるが、
真に興味深いことです。
・・・・・
和語はそれほど多くない語彙と、
「てにをは」で成っている。
言葉の最初は音である。
初めは短く単純なものだったか。
一音一意の和語には50音図と謂うのがある。
重なりがあってそれより少し少ないが。
だから基本語彙は多分50を超えない。
すべてはそこから派生し、
すべてはそこへとかえる。
それを繋ぐのが「てにをは」である。
それを(動詞の)活用が支えている。
簡潔にしてしかも複雑。
実に妙なり。
そこへ以って漢字です。
これは一字一意である。
これが加わって世界はさらに広がる。
絶妙である。
だから想うのです。
漢字を育てたのは日本だと。
その証もある。
その一つが書道である。
ために描くは主に漢字ひらがな。
それは字なのだが絵てきである。
現代の抽象画にも繋がっている。
音と絵、
これは言葉の二つの側面である。
してもその本貫は音にある。
音は身体全体に伝わるもの。
これは対面してこそのもの。
リモートはそこがやや弱い。
絵の場合は目にしか伝わらない。
その先は脳にまかせるしかない。
そういう違いがあると。
言わずもがな、
かな。
真実、分別、創造、知識、等々
まことまこと、わけるわける、つくるつくる、しるしる、等々
同じ意味を重ねる、
これは漢字の凄技の一つ、
そのことで意味に深みを与える、
しかして漢字は文字で目に訴えるもの、
それに比べての大和言葉、
ひとつの言葉に多くの含みを持たせる、
言葉は分けるものだが、
分けすぎないように留めて、
ものごとの本質を捉える、
それを全身で伝える、
それが凄技、
しかしてそれは音韻、
この二つは実に相性が良い、
ここに日本語がある、
そこで想う、
その発祥は知らず、
今や漢字は日本語そのもの、
むしろその初めからそうなのかもと、
今のシナには見られないし、
あるとすれば台湾、
その台湾は大和に会合した、
そも列島のつらなりの中にあった、
ゆえ台湾はシナではない、
そも台湾はシナではない、
・・・・・
漢字の立ち位置は、
それが音ではなく絵であること。
もとより話すには音だけで十分。
敢えて文字を使う必要はない。
それは特定の者だけが使えばいい。
多くは政治的理由であろうし、
庶民には必要がなかった。
簡体字になったのは、
これまた政治的理由であり、
それを庶民にも知ってもらおうとのこと。
ために表音文字的になってしまい、
漢字の良さが損なわれてしまった。
日本は音を借りたが、
その字義も徹底的に追及した。
そしてその意味を把握して、
それを大和言葉にあてる。
それが訓読みなのです。
かくて漢文をそのまま和語として読んだ。
句読点や返り点を付けて。
さらに「かな」もつくり、
日本語を日本語として表現する。
それが漢字かな交じり文である。
これが又凄いのである。
これは世界に類を見ない唯一無二のもの。
言葉はそも音である。
その波動が耳から入り脳で聞く。
その波動は音が同じでも強弱や高低それに震えなど、
あらゆる要素をもって人に伝わる。
これは言葉本来が持っているもの。
だが日本語にはそこにプラスαが加わる。
ときに音だけであっても、
漢字を日常的に使っていれば、
それが無意識に脳内に現れる、
目から入った光を見るように。
二字熟語には同音異義語が多いのだが、
それも何とか捉えられるのである。
そこで思うのです、
日本語は聞いても読んでも、
それを脳内で音的にも絵的にも捉えていると、
それもほとんど無意識の内に。
そこが凄いところ。
これは漢字かな交じり文の効果であると。
昨今はカタカナ語が氾濫しており、
ときには、
カタカナ語と「てにをは」だけの文章もあるが、
それも平然とやり過ごすのである。
それを私はカタカナかな交じり文と謂う。
これも漢字かな交じり文の延長か。
そんなわけで、
日本語は外来語を簡単に取り込む。
文字もそうである。
アルファベットだって最早日本の文字になってるし。
思えば日本語は言語のブラックホールのよう。
かく思えばである、
皇室と縁のある華頂博一先生が、
日本語は現今文明における最古の言語であると、
確信を持って言っておられるが、
真に興味深いことです。
・・・・・
和語はそれほど多くない語彙と、
「てにをは」で成っている。
言葉の最初は音である。
初めは短く単純なものだったか。
一音一意の和語には50音図と謂うのがある。
重なりがあってそれより少し少ないが。
だから基本語彙は多分50を超えない。
すべてはそこから派生し、
すべてはそこへとかえる。
それを繋ぐのが「てにをは」である。
それを(動詞の)活用が支えている。
簡潔にしてしかも複雑。
実に妙なり。
そこへ以って漢字です。
これは一字一意である。
これが加わって世界はさらに広がる。
絶妙である。
だから想うのです。
漢字を育てたのは日本だと。
その証もある。
その一つが書道である。
ために描くは主に漢字ひらがな。
それは字なのだが絵てきである。
現代の抽象画にも繋がっている。
音と絵、
これは言葉の二つの側面である。
してもその本貫は音にある。
音は身体全体に伝わるもの。
これは対面してこそのもの。
リモートはそこがやや弱い。
絵の場合は目にしか伝わらない。
その先は脳にまかせるしかない。
そういう違いがあると。
言わずもがな、
かな。