ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

二面性のに

2023-10-02 07:13:03 | 日記・エッセイ・コラム
諺や格言はいろいろあるが、
今思いつくものを。
情けは人の為ならず
善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや
我思う故に我あり
それでも地球は動いている
前ふたつは日本の、
後ふたつは欧州の、
であるが、
そこで思うのです、

・・・・・
あくまで私が思うことです。
それはいつも言うことだが、
大方義務教育に負っている。
そこから受けたもので心底に残っているもの、
それを掘り出しているだけ。
ちなみに大学は行ったが行っただけ。
そこはかとなく勉強にはなってるが。

情けは人の為ならず。
他人にかけた情けは回り回って自分に返ってくる、
と言うことだと理解している。
だがほかに、
人を甘やかすのはその人の為にならない、
との解釈もある。
初めに言った人の思いが、
その思いが本当だろうが、
言葉は一人歩きするもの、
意味が変わることもある。
この言には二元論のような対立関係はなく、
解釈に二面性があると言うだけ。
のことですかな。

善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや。
ここにも二面性がある。
善人悪人と謂うその言葉の受け取りかたに。
一つは文字通りに受け取るもの。
それを善人で言うなら、
それはまんまの善人となる。
一つはそこに自省心を加味するもの。
ならばそれはときに嘘つきともなる。
いわば偽善者と謂うことに。
なお酷い場合は表の善行で裏の悪行を隠すという、
そんな善悪の入れ替わりもありえる。
にしても善悪という対立的なものを、
二面性に換えるのです。
善と言いながらもそこに悪をも含ませる。
悪もまた同様。
これが日本語の妙味である。
てか親鸞のこの言葉は、
人すべて漏れなく往生するということで、
有り難や有り難や、
南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏。

我思う故に我あり。
このデカルトの言葉は大変印象深く、
現代社会を象徴していると。
この思うは言葉をもって思うことで、
つまりは考えることだと。
ならこれはあのパスカルの言葉、
人間は考える葦である、にも通じる。
考えるとは言葉でもって現実(世界)を切り刻むこと、
ときに脳内に切り刻んだ世界があらわれる。
それを意識という。
ときに知るのです、そこに私があると。
そういうことかな。
これはこれでいいのだが、
ときにその私が突出してきます。
これがそこにある二面性を忘れさせる。
意識はその表に幻想その裏に現実があるのに。
表ばかりに気を取られる。
この癖のお陰で、現下はまことに酷い状況。
幻想を現実にかぶせて顧みず。
自ら神になろうとしてるのか。
そんな感じかな。
そんなことでか、
ここでニーチェが思い浮かぶ。
彼は神は死んだと言ったとか。
なんかこれも符合していると。
てかこれらは皆、
当方の手前勝手な親父ギャグ、
どうかご勘弁を。

それでも地球は動いている。
これはガリレオが言ったという言葉です。
これが所謂地動説である。
でも本当は天動説が正しいと。
地球も含めて天体はすべてが動いているから。
でもガリレオは間違っていたのではない。
彼は知っていたでしょう。
彼が否定したのは当時の教会が言っていた天動説です。
それに天が動いて見える一番の理由は地球が動くから。
これも間違いなし。
なんか相対性理論的な話だが。
てかこんな話になんの意味があるんかい。
これも二面性の延長。
天動説と地動説とは言葉の上では対立していない。
どちらも一面の事実を言ってるだけ。
天体だけがと地球だけがなら対立していても。
要するにモノも言いようで、
対立的にも多面的にもなる、ということ。
そこで私は思うのです、
二元論も良いし二者択一も良いのだが、
それに引きずられての否定排除を嫌うのです。
否定排除はすべて言葉による幻想の技。
現実には否定も排除もありません。
現実は現実として現実にある。
そういうもの。
・・・・・
日本語は対立をきらう。
だから返答する言葉は中立なのだ。
それが「ハイ」である。
相手の肯定に答えれば肯定になる。
相手の否定に答えれば否定になる。
否「イナ」はその逆である。
同じような言葉に「結構」がある。
これも肯定的にも否定的にも使われる。
同じ言葉でも状況によって少しく変化する。
それもこれも相手のことを考えるから。
それに応えようとするからである。
為に言葉には含みを持たせる。
そこが欧米のイエスやノーなどとは違うところ。
彼らの言葉は初めから色が付いている。
それは先ず自分ありきだからです。
相手に応えることは同じでも、
そこが決定的に違うのだ。
だからか色が鮮明に。
これは良い悪いの問題ではありません。
長い年月の中での生き様の積み重ねの結果。
それを歴史伝統文化と謂う。
それを私はなお縮め文化と謂う。
それが凝縮されてるのが言語である。
そう思っている。
心魂の震えが発した音が声となり言葉となる。
人間世界はそこに作られる。
故それを大事にしよう。
日本人は日本語を。
ハイ!