諺や格言はいろいろあるが、
今思いつくものを。
情けは人の為ならず
善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや
我思う故に我あり
それでも地球は動いている
前ふたつは日本の、
後ふたつは欧州の、
であるが、
そこで思うのです、
…
・・・・・
あくまで私が思うことです。
それはいつも言うことだが、
大方義務教育に負っている。
そこから受けたもので心底に残っているもの、
それを掘り出しているだけ。
ちなみに大学は行ったが行っただけ。
そこはかとなく勉強にはなってるが。
・
情けは人の為ならず。
他人にかけた情けは回り回って自分に返ってくる、
と言うことだと理解している。
だがほかに、
人を甘やかすのはその人の為にならない、
との解釈もある。
初めに言った人の思いが、
その思いが本当だろうが、
言葉は一人歩きするもの、
意味が変わることもある。
この言には二元論のような対立関係はなく、
解釈に二面性があると言うだけ。
のことですかな。
・
善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや。
ここにも二面性がある。
善人悪人と謂うその言葉の受け取りかたに。
一つは文字通りに受け取るもの。
それを善人で言うなら、
それはまんまの善人となる。
一つはそこに自省心を加味するもの。
ならばそれはときに嘘つきともなる。
いわば偽善者と謂うことに。
なお酷い場合は表の善行で裏の悪行を隠すという、
そんな善悪の入れ替わりもありえる。
にしても善悪という対立的なものを、
二面性に換えるのです。
善と言いながらもそこに悪をも含ませる。
悪もまた同様。
これが日本語の妙味である。
てか親鸞のこの言葉は、
人すべて漏れなく往生するということで、
有り難や有り難や、
南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏。
・
我思う故に我あり。
このデカルトの言葉は大変印象深く、
現代社会を象徴していると。
この思うは言葉をもって思うことで、
つまりは考えることだと。
ならこれはあのパスカルの言葉、
人間は考える葦である、にも通じる。
考えるとは言葉でもって現実(世界)を切り刻むこと、
ときに脳内に切り刻んだ世界があらわれる。
それを意識という。
ときに知るのです、そこに私があると。
そういうことかな。
これはこれでいいのだが、
ときにその私が突出してきます。
これがそこにある二面性を忘れさせる。
意識はその表に幻想その裏に現実があるのに。
表ばかりに気を取られる。
この癖のお陰で、現下はまことに酷い状況。
幻想を現実にかぶせて顧みず。
自ら神になろうとしてるのか。
そんな感じかな。
そんなことでか、
ここでニーチェが思い浮かぶ。
彼は神は死んだと言ったとか。
なんかこれも符合していると。
てかこれらは皆、
当方の手前勝手な親父ギャグ、
どうかご勘弁を。
・
それでも地球は動いている。
これはガリレオが言ったという言葉です。
これが所謂地動説である。
でも本当は天動説が正しいと。
地球も含めて天体はすべてが動いているから。
でもガリレオは間違っていたのではない。
彼は知っていたでしょう。
彼が否定したのは当時の教会が言っていた天動説です。
それに天が動いて見える一番の理由は地球が動くから。
これも間違いなし。
なんか相対性理論的な話だが。
てかこんな話になんの意味があるんかい。
これも二面性の延長。
天動説と地動説とは言葉の上では対立していない。
どちらも一面の事実を言ってるだけ。
天体だけがと地球だけがなら対立していても。
要するにモノも言いようで、
対立的にも多面的にもなる、ということ。
そこで私は思うのです、
二元論も良いし二者択一も良いのだが、
それに引きずられての否定排除を嫌うのです。
否定排除はすべて言葉による幻想の技。
現実には否定も排除もありません。
現実は現実として現実にある。
そういうもの。
・・・・・
日本語は対立をきらう。
だから返答する言葉は中立なのだ。
それが「ハイ」である。
相手の肯定に答えれば肯定になる。
相手の否定に答えれば否定になる。
否「イナ」はその逆である。
同じような言葉に「結構」がある。
これも肯定的にも否定的にも使われる。
同じ言葉でも状況によって少しく変化する。
それもこれも相手のことを考えるから。
それに応えようとするからである。
為に言葉には含みを持たせる。
そこが欧米のイエスやノーなどとは違うところ。
彼らの言葉は初めから色が付いている。
それは先ず自分ありきだからです。
相手に応えることは同じでも、
そこが決定的に違うのだ。
だからか色が鮮明に。
これは良い悪いの問題ではありません。
長い年月の中での生き様の積み重ねの結果。
それを歴史伝統文化と謂う。
それを私はなお縮め文化と謂う。
それが凝縮されてるのが言語である。
そう思っている。
心魂の震えが発した音が声となり言葉となる。
人間世界はそこに作られる。
故それを大事にしよう。
日本人は日本語を。
ハイ!
今思いつくものを。
情けは人の為ならず
善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや
我思う故に我あり
それでも地球は動いている
前ふたつは日本の、
後ふたつは欧州の、
であるが、
そこで思うのです、
…
・・・・・
あくまで私が思うことです。
それはいつも言うことだが、
大方義務教育に負っている。
そこから受けたもので心底に残っているもの、
それを掘り出しているだけ。
ちなみに大学は行ったが行っただけ。
そこはかとなく勉強にはなってるが。
・
情けは人の為ならず。
他人にかけた情けは回り回って自分に返ってくる、
と言うことだと理解している。
だがほかに、
人を甘やかすのはその人の為にならない、
との解釈もある。
初めに言った人の思いが、
その思いが本当だろうが、
言葉は一人歩きするもの、
意味が変わることもある。
この言には二元論のような対立関係はなく、
解釈に二面性があると言うだけ。
のことですかな。
・
善人なおもて往生をとぐいわんや悪人おや。
ここにも二面性がある。
善人悪人と謂うその言葉の受け取りかたに。
一つは文字通りに受け取るもの。
それを善人で言うなら、
それはまんまの善人となる。
一つはそこに自省心を加味するもの。
ならばそれはときに嘘つきともなる。
いわば偽善者と謂うことに。
なお酷い場合は表の善行で裏の悪行を隠すという、
そんな善悪の入れ替わりもありえる。
にしても善悪という対立的なものを、
二面性に換えるのです。
善と言いながらもそこに悪をも含ませる。
悪もまた同様。
これが日本語の妙味である。
てか親鸞のこの言葉は、
人すべて漏れなく往生するということで、
有り難や有り難や、
南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏。
・
我思う故に我あり。
このデカルトの言葉は大変印象深く、
現代社会を象徴していると。
この思うは言葉をもって思うことで、
つまりは考えることだと。
ならこれはあのパスカルの言葉、
人間は考える葦である、にも通じる。
考えるとは言葉でもって現実(世界)を切り刻むこと、
ときに脳内に切り刻んだ世界があらわれる。
それを意識という。
ときに知るのです、そこに私があると。
そういうことかな。
これはこれでいいのだが、
ときにその私が突出してきます。
これがそこにある二面性を忘れさせる。
意識はその表に幻想その裏に現実があるのに。
表ばかりに気を取られる。
この癖のお陰で、現下はまことに酷い状況。
幻想を現実にかぶせて顧みず。
自ら神になろうとしてるのか。
そんな感じかな。
そんなことでか、
ここでニーチェが思い浮かぶ。
彼は神は死んだと言ったとか。
なんかこれも符合していると。
てかこれらは皆、
当方の手前勝手な親父ギャグ、
どうかご勘弁を。
・
それでも地球は動いている。
これはガリレオが言ったという言葉です。
これが所謂地動説である。
でも本当は天動説が正しいと。
地球も含めて天体はすべてが動いているから。
でもガリレオは間違っていたのではない。
彼は知っていたでしょう。
彼が否定したのは当時の教会が言っていた天動説です。
それに天が動いて見える一番の理由は地球が動くから。
これも間違いなし。
なんか相対性理論的な話だが。
てかこんな話になんの意味があるんかい。
これも二面性の延長。
天動説と地動説とは言葉の上では対立していない。
どちらも一面の事実を言ってるだけ。
天体だけがと地球だけがなら対立していても。
要するにモノも言いようで、
対立的にも多面的にもなる、ということ。
そこで私は思うのです、
二元論も良いし二者択一も良いのだが、
それに引きずられての否定排除を嫌うのです。
否定排除はすべて言葉による幻想の技。
現実には否定も排除もありません。
現実は現実として現実にある。
そういうもの。
・・・・・
日本語は対立をきらう。
だから返答する言葉は中立なのだ。
それが「ハイ」である。
相手の肯定に答えれば肯定になる。
相手の否定に答えれば否定になる。
否「イナ」はその逆である。
同じような言葉に「結構」がある。
これも肯定的にも否定的にも使われる。
同じ言葉でも状況によって少しく変化する。
それもこれも相手のことを考えるから。
それに応えようとするからである。
為に言葉には含みを持たせる。
そこが欧米のイエスやノーなどとは違うところ。
彼らの言葉は初めから色が付いている。
それは先ず自分ありきだからです。
相手に応えることは同じでも、
そこが決定的に違うのだ。
だからか色が鮮明に。
これは良い悪いの問題ではありません。
長い年月の中での生き様の積み重ねの結果。
それを歴史伝統文化と謂う。
それを私はなお縮め文化と謂う。
それが凝縮されてるのが言語である。
そう思っている。
心魂の震えが発した音が声となり言葉となる。
人間世界はそこに作られる。
故それを大事にしよう。
日本人は日本語を。
ハイ!