ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

違いの根

2023-03-06 10:04:59 | 日記・エッセイ・コラム
日本はユニークだと言われていた。
てか勝手ながらにそう思っている。
てかそう思い込まされていた。
てかそれはその通りなのです。
今はそれを確信している。
只の思い込みではないと。
その歴史や文化を思えば、
それは明らかであろうと。
・・・・・
前にも言ったが、
私は世界をすべて知ってる訳ではない。
てかそんな奴はおらんやろ。
でも文明国なら何とか少しは…。
それも国より文明ということか。
これも前に言ったことだが、
文明とは文の明である。
文とは言葉であり、それが灯りとなる。
まさに字義の通りかと。
だから神話が基であり、
宗教がその上に載って、
最後は科学が仕上げる。
科学はひたすらに現実を究明するもの。
だから尤もなことかと。
ちょっと話がそれたが、
これらは本題を前にしての、
私の知識の浅さの言い訳である。
そも義務教育プラスαってとこ。
それはそうだが、
それでも思うのです、
日本はあきらかに違うと。
そしてそれを世界は知らない、
しかも当の日本人もである。
その仕掛けが教育にある。
ゆえ自虐史観に染まる。
現下の日本の揺らぎはここにある。
勿論それは偶然ではない。
戦後に仕組まれたもので、
未だにそれが解かれない。
むしろ強まっている。
それもこれに限らないと。
コロワクもポリコレもしかり。
それもこれも日本が邪魔だからで、
だから日本を隠したい、
だから日本を潰したい、
のである。
・・・・・
ここで本題である。
ときに聖書を想う。
創世記の楽園追放の物語。
追放の因は禁忌を犯したからである。
その象徴が「齧られた林檎」であり、
それがあのアップル社のロゴなのだ。
ときに言葉を得たのです。
だがまだ追放されてはいない。
そこで知ったのです自分が裸だと。
そして恥ずかしさを覚えたと。
ゆえに隠すものを身に着けた。
ボッチチェリのあの絵にも描かれている、
木の葉で局部を隠してるアダムとイヴを。
その後に罪を問われて罰を受けた。
それが楽園追放の物語である。
勿論合理的な話ではない。
想うに言葉は言葉を説明できない。
分からないものは分からないのだ。
だから象徴的な物語として語るのです。
神話の意味・意義はまさにここに。
ヒトの心魂の歴史を圧縮凝縮したもの。
実に人間の原点である。
ところでである、
ここに恥と罪がある。
恥が初めにあるが、これは内から発す。
後罪が問われるが、これは外から発す。
罰はどちらにもあるのだが、
ここに日本と世界の違いがある。
だから日本人は罰するのは自分なのだ。
だから世界では罰するのは他者なのだ。
自分も他者も人間であるが、
その根底には神を見ている。
言葉を持ったときから神はいる。
それは切っても切れないものだ。
私はそう思っている。
あの歴史家ケインズを想う、
神話を無くしたらその民族は亡ぶ、
…と言ったとか。
如何にも。
・・・・・
ここにその違いがハッキリと。
神は「在る」ものとするが、
ときに神はすべてである。
それが神話の大前提か。
世に一神教と多神教があるが、
そもそれは同じもの、
全体を一つとすればそれは一神教、
全体を部分の集合とすれば多神教、
何も違わない。
言葉の綾です。
だが一神教には闇がある。
てか闇を創った。
神はすべてだと言うが、
そこに自分はいない。
それが盲点になる。
先の物語では、
初めに恥を知ったと。
だから日本人は自分の内にも神を見る。
てか初めに知ったのが恥だから当然か。
でも彼らはそれを飛ばした。
だから神を外に見る。
唯一神だからそうなるは必然か。
ときに自分はそこにいない。
これが追放なのだろう。
この盲点が自我を膨らませる。
そして暴走させる。
決定的な違いはここにある。
なら他の多神教の国はどうだろう。
やはり自我が勝ってるようだが。
シナはそも神が見当たらない。
だからの中華思想だろうと。
無神論は闇が深いのです。
有難いのはこの国です、
言霊の幸はふ国です、
そこには闇はない。