日本はユニークだと言われていた。
てか勝手ながらにそう思っている。
てかそう思い込まされていた。
てかそれはその通りなのです。
今はそれを確信している。
只の思い込みではないと。
その歴史や文化を思えば、
それは明らかであろうと。
・・・・・
前にも言ったが、
私は世界をすべて知ってる訳ではない。
てかそんな奴はおらんやろ。
でも文明国なら何とか少しは…。
それも国より文明ということか。
これも前に言ったことだが、
文明とは文の明である。
文とは言葉であり、それが灯りとなる。
まさに字義の通りかと。
だから神話が基であり、
宗教がその上に載って、
最後は科学が仕上げる。
科学はひたすらに現実を究明するもの。
だから尤もなことかと。
ちょっと話がそれたが、
これらは本題を前にしての、
私の知識の浅さの言い訳である。
そも義務教育プラスαってとこ。
それはそうだが、
それでも思うのです、
日本はあきらかに違うと。
そしてそれを世界は知らない、
しかも当の日本人もである。
その仕掛けが教育にある。
ゆえ自虐史観に染まる。
現下の日本の揺らぎはここにある。
勿論それは偶然ではない。
戦後に仕組まれたもので、
未だにそれが解かれない。
むしろ強まっている。
それもこれに限らないと。
コロワクもポリコレもしかり。
それもこれも日本が邪魔だからで、
だから日本を隠したい、
だから日本を潰したい、
のである。
・・・・・
ここで本題である。
ときに聖書を想う。
創世記の楽園追放の物語。
追放の因は禁忌を犯したからである。
その象徴が「齧られた林檎」であり、
それがあのアップル社のロゴなのだ。
ときに言葉を得たのです。
だがまだ追放されてはいない。
そこで知ったのです自分が裸だと。
そして恥ずかしさを覚えたと。
ゆえに隠すものを身に着けた。
ボッチチェリのあの絵にも描かれている、
木の葉で局部を隠してるアダムとイヴを。
その後に罪を問われて罰を受けた。
それが楽園追放の物語である。
勿論合理的な話ではない。
想うに言葉は言葉を説明できない。
分からないものは分からないのだ。
だから象徴的な物語として語るのです。
神話の意味・意義はまさにここに。
ヒトの心魂の歴史を圧縮凝縮したもの。
実に人間の原点である。
ところでである、
ここに恥と罪がある。
恥が初めにあるが、これは内から発す。
後罪が問われるが、これは外から発す。
罰はどちらにもあるのだが、
ここに日本と世界の違いがある。
だから日本人は罰するのは自分なのだ。
だから世界では罰するのは他者なのだ。
自分も他者も人間であるが、
その根底には神を見ている。
言葉を持ったときから神はいる。
それは切っても切れないものだ。
私はそう思っている。
あの歴史家ケインズを想う、
神話を無くしたらその民族は亡ぶ、
…と言ったとか。
如何にも。
・・・・・
ここにその違いがハッキリと。
神は「在る」ものとするが、
ときに神はすべてである。
それが神話の大前提か。
世に一神教と多神教があるが、
そもそれは同じもの、
全体を一つとすればそれは一神教、
全体を部分の集合とすれば多神教、
何も違わない。
言葉の綾です。
だが一神教には闇がある。
てか闇を創った。
神はすべてだと言うが、
そこに自分はいない。
それが盲点になる。
先の物語では、
初めに恥を知ったと。
だから日本人は自分の内にも神を見る。
てか初めに知ったのが恥だから当然か。
でも彼らはそれを飛ばした。
だから神を外に見る。
唯一神だからそうなるは必然か。
ときに自分はそこにいない。
これが追放なのだろう。
この盲点が自我を膨らませる。
そして暴走させる。
決定的な違いはここにある。
なら他の多神教の国はどうだろう。
やはり自我が勝ってるようだが。
シナはそも神が見当たらない。
だからの中華思想だろうと。
無神論は闇が深いのです。
有難いのはこの国です、
言霊の幸はふ国です、
そこには闇はない。
てか勝手ながらにそう思っている。
てかそう思い込まされていた。
てかそれはその通りなのです。
今はそれを確信している。
只の思い込みではないと。
その歴史や文化を思えば、
それは明らかであろうと。
・・・・・
前にも言ったが、
私は世界をすべて知ってる訳ではない。
てかそんな奴はおらんやろ。
でも文明国なら何とか少しは…。
それも国より文明ということか。
これも前に言ったことだが、
文明とは文の明である。
文とは言葉であり、それが灯りとなる。
まさに字義の通りかと。
だから神話が基であり、
宗教がその上に載って、
最後は科学が仕上げる。
科学はひたすらに現実を究明するもの。
だから尤もなことかと。
ちょっと話がそれたが、
これらは本題を前にしての、
私の知識の浅さの言い訳である。
そも義務教育プラスαってとこ。
それはそうだが、
それでも思うのです、
日本はあきらかに違うと。
そしてそれを世界は知らない、
しかも当の日本人もである。
その仕掛けが教育にある。
ゆえ自虐史観に染まる。
現下の日本の揺らぎはここにある。
勿論それは偶然ではない。
戦後に仕組まれたもので、
未だにそれが解かれない。
むしろ強まっている。
それもこれに限らないと。
コロワクもポリコレもしかり。
それもこれも日本が邪魔だからで、
だから日本を隠したい、
だから日本を潰したい、
のである。
・・・・・
ここで本題である。
ときに聖書を想う。
創世記の楽園追放の物語。
追放の因は禁忌を犯したからである。
その象徴が「齧られた林檎」であり、
それがあのアップル社のロゴなのだ。
ときに言葉を得たのです。
だがまだ追放されてはいない。
そこで知ったのです自分が裸だと。
そして恥ずかしさを覚えたと。
ゆえに隠すものを身に着けた。
ボッチチェリのあの絵にも描かれている、
木の葉で局部を隠してるアダムとイヴを。
その後に罪を問われて罰を受けた。
それが楽園追放の物語である。
勿論合理的な話ではない。
想うに言葉は言葉を説明できない。
分からないものは分からないのだ。
だから象徴的な物語として語るのです。
神話の意味・意義はまさにここに。
ヒトの心魂の歴史を圧縮凝縮したもの。
実に人間の原点である。
ところでである、
ここに恥と罪がある。
恥が初めにあるが、これは内から発す。
後罪が問われるが、これは外から発す。
罰はどちらにもあるのだが、
ここに日本と世界の違いがある。
だから日本人は罰するのは自分なのだ。
だから世界では罰するのは他者なのだ。
自分も他者も人間であるが、
その根底には神を見ている。
言葉を持ったときから神はいる。
それは切っても切れないものだ。
私はそう思っている。
あの歴史家ケインズを想う、
神話を無くしたらその民族は亡ぶ、
…と言ったとか。
如何にも。
・・・・・
ここにその違いがハッキリと。
神は「在る」ものとするが、
ときに神はすべてである。
それが神話の大前提か。
世に一神教と多神教があるが、
そもそれは同じもの、
全体を一つとすればそれは一神教、
全体を部分の集合とすれば多神教、
何も違わない。
言葉の綾です。
だが一神教には闇がある。
てか闇を創った。
神はすべてだと言うが、
そこに自分はいない。
それが盲点になる。
先の物語では、
初めに恥を知ったと。
だから日本人は自分の内にも神を見る。
てか初めに知ったのが恥だから当然か。
でも彼らはそれを飛ばした。
だから神を外に見る。
唯一神だからそうなるは必然か。
ときに自分はそこにいない。
これが追放なのだろう。
この盲点が自我を膨らませる。
そして暴走させる。
決定的な違いはここにある。
なら他の多神教の国はどうだろう。
やはり自我が勝ってるようだが。
シナはそも神が見当たらない。
だからの中華思想だろうと。
無神論は闇が深いのです。
有難いのはこの国です、
言霊の幸はふ国です、
そこには闇はない。