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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

なぜ言葉なのか

2023-03-13 09:41:51 | 日記・エッセイ・コラム
なぜなのか、
宇宙の力の大元を言葉としたのは。
聖書は詠う、
初めに神は天と地を創った、
その後に他の諸々を創っていった、
と。
その力とは、
それを神の口から出る言葉としたのだ。
だからかヨハネは言った、
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と。
ここに妙がある。
・・・・・
この世界は物事(ものごと)で出来ている。
物事はそも一体で切り離せない。
物だけで事が無ければ、この世界はない。
事だけで物が無ければ、これは意味不明。
事自体をこれまでは「変化の様」と言ってきた。
今はそれを「運動・振動・波動」と言っている。
ともかくも一体で、ここに物事がなり、
かくて世界がある。
例えばこの大宇宙、
惑星は動いている、円周軌道を描いて。
これを運動という。
惑星はその内部でも動いている。
これを振動という。
さらにそのもっと内部でも。
例えば原子の内部では、電子や陽子などの素粒子が。
これも振動と言っておこう。
ここからは、
学者や科学者でもないから、
実のところさっぱり分かりません。
だから多分に私の想像であります。
その微粒子である素粒子は振動するだけでなく、
運動もしている、
それも大々的に、
そして宇宙を駆け巡る。
その最たるものが光であり、これは電磁波の一種である。
そも電波がそうなのですが、だから波と表現されている。
それらはすべて波の性質を持っている。
ゆえに波動と言う。
この波動は運動振動のその根底に必ずある。
だから結局すべては波動と言うことになる。
ということで物には波動がある。
生命体であろうとなかろうとだ。
想えば、
生命とはときの波動の特殊な有様だと、
そう思うのです。
それはさておき、
波動はそも初めから在るもの、
しかもそれは満ち満ちていた。
大古の人は当然にそれを察知。
でもその発生源が分からない。
だが発生源は必ずある筈だと。
でも幾ら考えても分からない。
ときにそこに神を見たのです。
そこで冒頭の言だが、
力の大元を神の口から出る言葉としたのは、
それはつまりそれが波動だからかと。
また敢えて口からとしている。
それは声つまり音であるから。
字は動かないが音は動くのだ。
それに音はその主から発する。
ときにその主を神と命名した。
ときに主と言葉は一体である。
だから言葉は神そのものだと。
ということが冒頭の下りだが、
その感性には感嘆しかないと。
今の科学はそれに迫っている。
でも決して超えられはしない。
人の言葉は物事に名を付して認識する。
そして譬えと比喩を駆使して説明する。
人に伝えようとすればそうなるのです。
でもそれは実ではない、
すべて実に当てているだけ、
それを知ろう、
それを肝に銘じよう。
にしても冒頭の物語りは、
言い得て妙である。
まことにまことに。
・・・・・
物事は一体であるのだが、
人の言葉はそれを分ける。
物と事もだが物どうしでも事どうしでもだ。
違いを感じたらとにかく分ける、
分けて分けて分けまくる。
そういうものです。
そこには限界があるのは当然。
それを知るのが本物の科学者。
それを知って神の言葉に迫る。
神の言葉とは何か。
それは波動である。
波動の原点は素粒子にある。
総じて電磁波と言っている。
その最たるものは光である。
光は物の性質と波の性質を合せ持つと謂う。
物とは質量を有するもの、
波とは媒体が揺れ動く様、
音なら空気という媒体、波なら水という媒体が、
と理解している。
でも光には質量がないと言われる、
また宇宙には媒体が見当たらない、
これ如何に。
ないとは限りなくゼロであるがゼロではないと、
媒体がないのは自らが媒体を兼ねるからか、
はたまた未知の存在があるのだろうか。
にしても、
光は電磁波は物と事が一体化している。
分けようがないほどに一体化している。
なんと霊妙なことか。
想えば、
神がその言葉で創った最初のものが光であった。
ときの人のその感性は霊妙すぎる。
もう感嘆しかない。
ならその前に創った天地とは。
私はそれを物だとしていたが、
それは違うかも。
それは場(空間)であったと、
先ずは場を創り、その次に物事を成したと。
その成した初めが光であったのです。
その感性を想う。
嗚呼!

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