なぜなのか、
宇宙の力の大元を言葉としたのは。
聖書は詠う、
初めに神は天と地を創った、
その後に他の諸々を創っていった、
と。
その力とは、
それを神の口から出る言葉としたのだ。
だからかヨハネは言った、
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と。
ここに妙がある。
・・・・・
この世界は物事(ものごと)で出来ている。
物事はそも一体で切り離せない。
物だけで事が無ければ、この世界はない。
事だけで物が無ければ、これは意味不明。
事自体をこれまでは「変化の様」と言ってきた。
今はそれを「運動・振動・波動」と言っている。
ともかくも一体で、ここに物事がなり、
かくて世界がある。
例えばこの大宇宙、
惑星は動いている、円周軌道を描いて。
これを運動という。
惑星はその内部でも動いている。
これを振動という。
さらにそのもっと内部でも。
例えば原子の内部では、電子や陽子などの素粒子が。
これも振動と言っておこう。
ここからは、
学者や科学者でもないから、
実のところさっぱり分かりません。
だから多分に私の想像であります。
その微粒子である素粒子は振動するだけでなく、
運動もしている、
それも大々的に、
そして宇宙を駆け巡る。
その最たるものが光であり、これは電磁波の一種である。
そも電波がそうなのですが、だから波と表現されている。
それらはすべて波の性質を持っている。
ゆえに波動と言う。
この波動は運動振動のその根底に必ずある。
だから結局すべては波動と言うことになる。
ということで物には波動がある。
生命体であろうとなかろうとだ。
想えば、
生命とはときの波動の特殊な有様だと、
そう思うのです。
それはさておき、
波動はそも初めから在るもの、
しかもそれは満ち満ちていた。
大古の人は当然にそれを察知。
でもその発生源が分からない。
だが発生源は必ずある筈だと。
でも幾ら考えても分からない。
ときにそこに神を見たのです。
そこで冒頭の言だが、
力の大元を神の口から出る言葉としたのは、
それはつまりそれが波動だからかと。
また敢えて口からとしている。
それは声つまり音であるから。
字は動かないが音は動くのだ。
それに音はその主から発する。
ときにその主を神と命名した。
ときに主と言葉は一体である。
だから言葉は神そのものだと。
ということが冒頭の下りだが、
その感性には感嘆しかないと。
今の科学はそれに迫っている。
でも決して超えられはしない。
人の言葉は物事に名を付して認識する。
そして譬えと比喩を駆使して説明する。
人に伝えようとすればそうなるのです。
でもそれは実ではない、
すべて実に当てているだけ、
それを知ろう、
それを肝に銘じよう。
にしても冒頭の物語りは、
言い得て妙である。
まことにまことに。
・・・・・
物事は一体であるのだが、
人の言葉はそれを分ける。
物と事もだが物どうしでも事どうしでもだ。
違いを感じたらとにかく分ける、
分けて分けて分けまくる。
そういうものです。
そこには限界があるのは当然。
それを知るのが本物の科学者。
それを知って神の言葉に迫る。
神の言葉とは何か。
それは波動である。
波動の原点は素粒子にある。
総じて電磁波と言っている。
その最たるものは光である。
光は物の性質と波の性質を合せ持つと謂う。
物とは質量を有するもの、
波とは媒体が揺れ動く様、
音なら空気という媒体、波なら水という媒体が、
と理解している。
でも光には質量がないと言われる、
また宇宙には媒体が見当たらない、
これ如何に。
ないとは限りなくゼロであるがゼロではないと、
媒体がないのは自らが媒体を兼ねるからか、
はたまた未知の存在があるのだろうか。
にしても、
光は電磁波は物と事が一体化している。
分けようがないほどに一体化している。
なんと霊妙なことか。
想えば、
神がその言葉で創った最初のものが光であった。
ときの人のその感性は霊妙すぎる。
もう感嘆しかない。
ならその前に創った天地とは。
私はそれを物だとしていたが、
それは違うかも。
それは場(空間)であったと、
先ずは場を創り、その次に物事を成したと。
その成した初めが光であったのです。
その感性を想う。
嗚呼!
宇宙の力の大元を言葉としたのは。
聖書は詠う、
初めに神は天と地を創った、
その後に他の諸々を創っていった、
と。
その力とは、
それを神の口から出る言葉としたのだ。
だからかヨハネは言った、
初めに言葉があった、
言葉は神とともにあった、
言葉は神であった、
と。
ここに妙がある。
・・・・・
この世界は物事(ものごと)で出来ている。
物事はそも一体で切り離せない。
物だけで事が無ければ、この世界はない。
事だけで物が無ければ、これは意味不明。
事自体をこれまでは「変化の様」と言ってきた。
今はそれを「運動・振動・波動」と言っている。
ともかくも一体で、ここに物事がなり、
かくて世界がある。
例えばこの大宇宙、
惑星は動いている、円周軌道を描いて。
これを運動という。
惑星はその内部でも動いている。
これを振動という。
さらにそのもっと内部でも。
例えば原子の内部では、電子や陽子などの素粒子が。
これも振動と言っておこう。
ここからは、
学者や科学者でもないから、
実のところさっぱり分かりません。
だから多分に私の想像であります。
その微粒子である素粒子は振動するだけでなく、
運動もしている、
それも大々的に、
そして宇宙を駆け巡る。
その最たるものが光であり、これは電磁波の一種である。
そも電波がそうなのですが、だから波と表現されている。
それらはすべて波の性質を持っている。
ゆえに波動と言う。
この波動は運動振動のその根底に必ずある。
だから結局すべては波動と言うことになる。
ということで物には波動がある。
生命体であろうとなかろうとだ。
想えば、
生命とはときの波動の特殊な有様だと、
そう思うのです。
それはさておき、
波動はそも初めから在るもの、
しかもそれは満ち満ちていた。
大古の人は当然にそれを察知。
でもその発生源が分からない。
だが発生源は必ずある筈だと。
でも幾ら考えても分からない。
ときにそこに神を見たのです。
そこで冒頭の言だが、
力の大元を神の口から出る言葉としたのは、
それはつまりそれが波動だからかと。
また敢えて口からとしている。
それは声つまり音であるから。
字は動かないが音は動くのだ。
それに音はその主から発する。
ときにその主を神と命名した。
ときに主と言葉は一体である。
だから言葉は神そのものだと。
ということが冒頭の下りだが、
その感性には感嘆しかないと。
今の科学はそれに迫っている。
でも決して超えられはしない。
人の言葉は物事に名を付して認識する。
そして譬えと比喩を駆使して説明する。
人に伝えようとすればそうなるのです。
でもそれは実ではない、
すべて実に当てているだけ、
それを知ろう、
それを肝に銘じよう。
にしても冒頭の物語りは、
言い得て妙である。
まことにまことに。
・・・・・
物事は一体であるのだが、
人の言葉はそれを分ける。
物と事もだが物どうしでも事どうしでもだ。
違いを感じたらとにかく分ける、
分けて分けて分けまくる。
そういうものです。
そこには限界があるのは当然。
それを知るのが本物の科学者。
それを知って神の言葉に迫る。
神の言葉とは何か。
それは波動である。
波動の原点は素粒子にある。
総じて電磁波と言っている。
その最たるものは光である。
光は物の性質と波の性質を合せ持つと謂う。
物とは質量を有するもの、
波とは媒体が揺れ動く様、
音なら空気という媒体、波なら水という媒体が、
と理解している。
でも光には質量がないと言われる、
また宇宙には媒体が見当たらない、
これ如何に。
ないとは限りなくゼロであるがゼロではないと、
媒体がないのは自らが媒体を兼ねるからか、
はたまた未知の存在があるのだろうか。
にしても、
光は電磁波は物と事が一体化している。
分けようがないほどに一体化している。
なんと霊妙なことか。
想えば、
神がその言葉で創った最初のものが光であった。
ときの人のその感性は霊妙すぎる。
もう感嘆しかない。
ならその前に創った天地とは。
私はそれを物だとしていたが、
それは違うかも。
それは場(空間)であったと、
先ずは場を創り、その次に物事を成したと。
その成した初めが光であったのです。
その感性を想う。
嗚呼!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます