何の始まりかと言うと、
人間の始まりである。
それはつまり言葉の始まりである。
そのことを聖書は、
ものがたりとして記している。
アダムとイヴのものがたりで、
楽園追放のものがたり、
として。
ヒトは人間になったのだが、
ときに楽園を追放されたと。
示唆に富んだものがたりである。
まことに、
まことに。
・・・・・
それは禁断の木の実を食べたことから始まる。
であるが、
これは宗教でもなく勿論科学でもない。
分かりようのないものを説明する為の、
苦肉の策であり、
それを日本では方便という。
方便とは嘘ではない、
やむを得ぬの生活の知恵であり、
必要なものなのです。
そしてここから宗教や哲学が起こり、
やがて科学が生まれるのである。
それらすべての基となって。
それがものがたりです、
総じて神話と言う。
神話は世界の始まりや人間のゆえんを語るもの、
すべては神話に始まるのです。
にしても私は神話に通じてる訳ではない。
知ってるのはほんの少し。
その中では言葉の起源は語らない。
てか言葉を持ったから語るのだが、
言葉は言葉を語らない。
唯一聖書はそれを遠まわしに言及する。
冒頭で言ったようなものがたりとして。
それをヨハネは、
新約聖書の中で、
初めから在ったと言い、
それは神そのものだと。
それを手に入れたのです人は。
にしても言葉はさておき、
こういう話は神なしでは語れないのか。
在るものを在るというだけなのに。
ともかくも、
始まりの始まりは困惑ばかり。
それを想う。
・・・・・
言葉の始まりは脳にある。
ときに全身全霊で感応した「いまのおもい」を、
音として発する。
ときにおもいが音に張り付く。
ときの「いまのおもい」がである。
それが念である。
それが脳内に留まる。
それが始まりだと。
一過性なら只の合図であり言葉にはならない。
にしても、そこには音(声)が関わる。
留まるには音が必要なのだ。
それも人の口から出る音が。
それが人が言葉を覚える初めだと。
現に赤ちゃんはそうしているのだろう。
なら耳の不自由な子は?
そこは微妙だが、
そこにも音の特性があろうと。
目は瞑れば見えない。
耳は24時間365日開かれている。
それに音は耳だけではない、
身体の全細胞に届いている。
眠っているときにもだ。
音(の波動)は常に届いている。
それが音の特性である。
そこで音を想う。
音には母音と子音がある。
母音は長く発せ続けられるが、
子音は破裂音であり瞬時で消える。
子音だけでは念にはならない。
それに言葉の初めは単音(短音)だろうと。
複雑な発音から始まるとは思えない。
ならそれは母音であったろう。
ちなみに母音の数は決まってる訳ではない。
日本では五つだが、
世界では四つや六つ七つのところも?
日本でも五つ以上あったことも。
その始まりが母音だったとして、
それでは余りに数が少なすぎる。
さりながら解決できるのである。
それは母音の前に子音を置けばいいと。
それだけで聞き分けられるオトの数は、
飛躍的に増える。
それが今の日本の50音図である。
ここに妙がある。
日本語は母音と子音+母音、
この2種のオトを重視する。
それを音の単位とする。
そして一文字をあてる。
それが先記の50音図。
これが言われるところの「一音一意」である。
オトの一つひとつに一つの意味があると謂う。
想えばこれこそ言葉の初めのような気がする。
日本語はそれを残している。
なんとも興味深いことです。
・・・・・
ところで、
一音一意である日本語は同時に一字一意である。
それが50音図であるがその本体はオトである。
でも日本には漢字もあるのです。
その起源は横に置いて、
もはや歴とした日本語、
これこそまさに一字一意である。
漢字はその主体はオトではない、それは絵である。
見ただけで意味が取れるのです。
そこが凄いところ。
一音一意かつ一字一意の日本語は、
音と絵を駆使するスーパー言語。
そんな言葉を平然と使い回す。
これが日本人の特典である。
こんな稀有なことはない。
ハイ!
人間の始まりである。
それはつまり言葉の始まりである。
そのことを聖書は、
ものがたりとして記している。
アダムとイヴのものがたりで、
楽園追放のものがたり、
として。
ヒトは人間になったのだが、
ときに楽園を追放されたと。
示唆に富んだものがたりである。
まことに、
まことに。
・・・・・
それは禁断の木の実を食べたことから始まる。
であるが、
これは宗教でもなく勿論科学でもない。
分かりようのないものを説明する為の、
苦肉の策であり、
それを日本では方便という。
方便とは嘘ではない、
やむを得ぬの生活の知恵であり、
必要なものなのです。
そしてここから宗教や哲学が起こり、
やがて科学が生まれるのである。
それらすべての基となって。
それがものがたりです、
総じて神話と言う。
神話は世界の始まりや人間のゆえんを語るもの、
すべては神話に始まるのです。
にしても私は神話に通じてる訳ではない。
知ってるのはほんの少し。
その中では言葉の起源は語らない。
てか言葉を持ったから語るのだが、
言葉は言葉を語らない。
唯一聖書はそれを遠まわしに言及する。
冒頭で言ったようなものがたりとして。
それをヨハネは、
新約聖書の中で、
初めから在ったと言い、
それは神そのものだと。
それを手に入れたのです人は。
にしても言葉はさておき、
こういう話は神なしでは語れないのか。
在るものを在るというだけなのに。
ともかくも、
始まりの始まりは困惑ばかり。
それを想う。
・・・・・
言葉の始まりは脳にある。
ときに全身全霊で感応した「いまのおもい」を、
音として発する。
ときにおもいが音に張り付く。
ときの「いまのおもい」がである。
それが念である。
それが脳内に留まる。
それが始まりだと。
一過性なら只の合図であり言葉にはならない。
にしても、そこには音(声)が関わる。
留まるには音が必要なのだ。
それも人の口から出る音が。
それが人が言葉を覚える初めだと。
現に赤ちゃんはそうしているのだろう。
なら耳の不自由な子は?
そこは微妙だが、
そこにも音の特性があろうと。
目は瞑れば見えない。
耳は24時間365日開かれている。
それに音は耳だけではない、
身体の全細胞に届いている。
眠っているときにもだ。
音(の波動)は常に届いている。
それが音の特性である。
そこで音を想う。
音には母音と子音がある。
母音は長く発せ続けられるが、
子音は破裂音であり瞬時で消える。
子音だけでは念にはならない。
それに言葉の初めは単音(短音)だろうと。
複雑な発音から始まるとは思えない。
ならそれは母音であったろう。
ちなみに母音の数は決まってる訳ではない。
日本では五つだが、
世界では四つや六つ七つのところも?
日本でも五つ以上あったことも。
その始まりが母音だったとして、
それでは余りに数が少なすぎる。
さりながら解決できるのである。
それは母音の前に子音を置けばいいと。
それだけで聞き分けられるオトの数は、
飛躍的に増える。
それが今の日本の50音図である。
ここに妙がある。
日本語は母音と子音+母音、
この2種のオトを重視する。
それを音の単位とする。
そして一文字をあてる。
それが先記の50音図。
これが言われるところの「一音一意」である。
オトの一つひとつに一つの意味があると謂う。
想えばこれこそ言葉の初めのような気がする。
日本語はそれを残している。
なんとも興味深いことです。
・・・・・
ところで、
一音一意である日本語は同時に一字一意である。
それが50音図であるがその本体はオトである。
でも日本には漢字もあるのです。
その起源は横に置いて、
もはや歴とした日本語、
これこそまさに一字一意である。
漢字はその主体はオトではない、それは絵である。
見ただけで意味が取れるのです。
そこが凄いところ。
一音一意かつ一字一意の日本語は、
音と絵を駆使するスーパー言語。
そんな言葉を平然と使い回す。
これが日本人の特典である。
こんな稀有なことはない。
ハイ!