ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ちゃんちゃん

2022-11-07 08:48:03 | 日記・エッセイ・コラム
ちゃんシリーズはお終い。
これはこれでちゃんちゃん。
あらためて言うまでもないが、
すべては「ものごと」であると。
世界はこの言葉の一言で表わせる。
それを私は日本語と聖書(創世記)で感得した。
そこにあるのは絶えることのない変化。
でも変化というのはちょっと?かなと。
それを運動振動波動とすればスッキリ。
なおそれを代表して波動とすればなお。
これは今の精神世界辺りとも符合する。
すべては波動にありと。
・・・・・
波動とは「こと」であるが、
これは「もの」と共にある。
そも「もの」が無ければ「こと」もなし。
直観ながらも疑いようなし。
「もの」と「こと」は一体で不可分なのだ。
本来は分けられない。
それを分けるのです。
それが言葉の癖であり言葉の技である。
ここに妙がある。
運動振動は物自体が動くのだが、
波動は物が動いてるとしても、
物そのものの動きではなく、
それは動きの流れであり、
物は媒体としてあると。
だから分けやすい。
だから分けられる。
言葉とは妙の固まりなのです。
でもやはり物なくしては無し。
そこは変わらない。
そこで聖書である。
初めに神は天と地を創られた。
これは「もの」であり、世界の基(場)である。
次に神は言葉によって、
先ず光をそれからそれを端緒に各種の万象を。
ときに「もの」と「こと」が繋げられた。
ここに世界がなり、
それからずっと創り続けられている。
それを私は変化とも言っている。
それは運動振動波動であり、
それをまとめて一言で、
波動と言うのです。
・・・・・
思えば、口から発せられる言葉はそも波動、
その波動が場に流れて「ものごと」が成る。
なら波動とは大本根源の力である。
故にかヨハネは言った、言葉は神そのものだと。
それを日本人は言霊ともいう。
言葉には物事を成す力がある。
言霊信仰である。
これは神の言葉にあるもの、
それが人の言葉にもあると。
確かにあると思う。
それは今の世界が示している。
歴史伝統文化、政治経済社会、宗教哲学科学。
これらはすべて言葉で成っている。
ここにあきらか。
このこと肝に銘じた日本人は、
だから言葉を大切にしてきた。
だから言葉を「こと」の「は」と言い、
だから言葉を「ま」の「こと」とする。
まこと(真言・誠)である。
とくに誠はそのまんまです。
それ「こと」が「なる」と。
それにしても・ふ・と想う。
言葉とは「こと」の「は」なのだが、
言葉とは「もの」の「は」ではない。
さながら一体の一方である「もの」、
それを「もの」の「は」とすればそれは「ものば」、
ここに物場と事端がそろう。
そして天地という物場に言葉という波動が出現して、
光を基とした現象(事端)が現れる。
これが天地創造である。
・・・・・
よくできた話である。
人類の思いの丈ここにあり。
と言うことだが、
これは実に的を射ていると思う。
「こと」は実に流れに違いなし。
それを「波動」と言うもしかり。
想えば「いのち」や「こころ」も同じ。
それは「こと」であり波動なのです。
しかして事は物とともにあるもの。
その物とは当然のこと身体です。
死ぬとはそれらが離れること。
しかれども離れても無くならない。
物が無くならないように事も無くならない。
形を変えた物に乗り移るだけ。
物の事としてあり続けるのだ。
日本人はそれを感得している。
それを踏まえて日本語は成る。
ゆえに波動を伝えようとする。
日本語はだから謡い詠み歌う。
ちなみに波動には隙間はない。
なのに人の言葉は波動から離れる。
そういう癖をもつ。
そして点(デジタル)になる。
それが現実をくっきり見せる。
これはときに有用有効なのだ。
それが今や全盛となっている。
その最たるものがコンピュータです。
まさにデジタルの化身であると。
しかれども実態は穴だらけ。
私はそれを想っている。
だから心配なのだ。
余計なお世話、
だろうな。
・・・・・
そんな私が、
肝に銘じていること、
「神の言葉は真理であり現実である」、
「人の言葉は仮想であり方便である」、
以上。
これにて一件落着、
これにて一切の迷いなし。
てか、
これこそ方便だろう、
うん!