ちゃんシリーズはお終い。
これはこれでちゃんちゃん。
あらためて言うまでもないが、
すべては「ものごと」であると。
世界はこの言葉の一言で表わせる。
それを私は日本語と聖書(創世記)で感得した。
そこにあるのは絶えることのない変化。
でも変化というのはちょっと?かなと。
それを運動振動波動とすればスッキリ。
なおそれを代表して波動とすればなお。
これは今の精神世界辺りとも符合する。
すべては波動にありと。
・・・・・
波動とは「こと」であるが、
これは「もの」と共にある。
そも「もの」が無ければ「こと」もなし。
直観ながらも疑いようなし。
「もの」と「こと」は一体で不可分なのだ。
本来は分けられない。
それを分けるのです。
それが言葉の癖であり言葉の技である。
ここに妙がある。
運動振動は物自体が動くのだが、
波動は物が動いてるとしても、
物そのものの動きではなく、
それは動きの流れであり、
物は媒体としてあると。
だから分けやすい。
だから分けられる。
言葉とは妙の固まりなのです。
でもやはり物なくしては無し。
そこは変わらない。
そこで聖書である。
初めに神は天と地を創られた。
これは「もの」であり、世界の基(場)である。
次に神は言葉によって、
先ず光をそれからそれを端緒に各種の万象を。
ときに「もの」と「こと」が繋げられた。
ここに世界がなり、
それからずっと創り続けられている。
それを私は変化とも言っている。
それは運動振動波動であり、
それをまとめて一言で、
波動と言うのです。
・・・・・
思えば、口から発せられる言葉はそも波動、
その波動が場に流れて「ものごと」が成る。
なら波動とは大本根源の力である。
故にかヨハネは言った、言葉は神そのものだと。
それを日本人は言霊ともいう。
言葉には物事を成す力がある。
言霊信仰である。
これは神の言葉にあるもの、
それが人の言葉にもあると。
確かにあると思う。
それは今の世界が示している。
歴史伝統文化、政治経済社会、宗教哲学科学。
これらはすべて言葉で成っている。
ここにあきらか。
このこと肝に銘じた日本人は、
だから言葉を大切にしてきた。
だから言葉を「こと」の「は」と言い、
だから言葉を「ま」の「こと」とする。
まこと(真言・誠)である。
とくに誠はそのまんまです。
それ「こと」が「なる」と。
それにしても・ふ・と想う。
言葉とは「こと」の「は」なのだが、
言葉とは「もの」の「は」ではない。
さながら一体の一方である「もの」、
それを「もの」の「は」とすればそれは「ものば」、
ここに物場と事端がそろう。
そして天地という物場に言葉という波動が出現して、
光を基とした現象(事端)が現れる。
これが天地創造である。
・・・・・
よくできた話である。
人類の思いの丈ここにあり。
と言うことだが、
これは実に的を射ていると思う。
「こと」は実に流れに違いなし。
それを「波動」と言うもしかり。
想えば「いのち」や「こころ」も同じ。
それは「こと」であり波動なのです。
しかして事は物とともにあるもの。
その物とは当然のこと身体です。
死ぬとはそれらが離れること。
しかれども離れても無くならない。
物が無くならないように事も無くならない。
形を変えた物に乗り移るだけ。
物の事としてあり続けるのだ。
日本人はそれを感得している。
それを踏まえて日本語は成る。
ゆえに波動を伝えようとする。
日本語はだから謡い詠み歌う。
ちなみに波動には隙間はない。
なのに人の言葉は波動から離れる。
そういう癖をもつ。
そして点(デジタル)になる。
それが現実をくっきり見せる。
これはときに有用有効なのだ。
それが今や全盛となっている。
その最たるものがコンピュータです。
まさにデジタルの化身であると。
しかれども実態は穴だらけ。
私はそれを想っている。
だから心配なのだ。
余計なお世話、
だろうな。
・・・・・
そんな私が、
肝に銘じていること、
「神の言葉は真理であり現実である」、
「人の言葉は仮想であり方便である」、
以上。
これにて一件落着、
これにて一切の迷いなし。
てか、
これこそ方便だろう、
うん!
これはこれでちゃんちゃん。
あらためて言うまでもないが、
すべては「ものごと」であると。
世界はこの言葉の一言で表わせる。
それを私は日本語と聖書(創世記)で感得した。
そこにあるのは絶えることのない変化。
でも変化というのはちょっと?かなと。
それを運動振動波動とすればスッキリ。
なおそれを代表して波動とすればなお。
これは今の精神世界辺りとも符合する。
すべては波動にありと。
・・・・・
波動とは「こと」であるが、
これは「もの」と共にある。
そも「もの」が無ければ「こと」もなし。
直観ながらも疑いようなし。
「もの」と「こと」は一体で不可分なのだ。
本来は分けられない。
それを分けるのです。
それが言葉の癖であり言葉の技である。
ここに妙がある。
運動振動は物自体が動くのだが、
波動は物が動いてるとしても、
物そのものの動きではなく、
それは動きの流れであり、
物は媒体としてあると。
だから分けやすい。
だから分けられる。
言葉とは妙の固まりなのです。
でもやはり物なくしては無し。
そこは変わらない。
そこで聖書である。
初めに神は天と地を創られた。
これは「もの」であり、世界の基(場)である。
次に神は言葉によって、
先ず光をそれからそれを端緒に各種の万象を。
ときに「もの」と「こと」が繋げられた。
ここに世界がなり、
それからずっと創り続けられている。
それを私は変化とも言っている。
それは運動振動波動であり、
それをまとめて一言で、
波動と言うのです。
・・・・・
思えば、口から発せられる言葉はそも波動、
その波動が場に流れて「ものごと」が成る。
なら波動とは大本根源の力である。
故にかヨハネは言った、言葉は神そのものだと。
それを日本人は言霊ともいう。
言葉には物事を成す力がある。
言霊信仰である。
これは神の言葉にあるもの、
それが人の言葉にもあると。
確かにあると思う。
それは今の世界が示している。
歴史伝統文化、政治経済社会、宗教哲学科学。
これらはすべて言葉で成っている。
ここにあきらか。
このこと肝に銘じた日本人は、
だから言葉を大切にしてきた。
だから言葉を「こと」の「は」と言い、
だから言葉を「ま」の「こと」とする。
まこと(真言・誠)である。
とくに誠はそのまんまです。
それ「こと」が「なる」と。
それにしても・ふ・と想う。
言葉とは「こと」の「は」なのだが、
言葉とは「もの」の「は」ではない。
さながら一体の一方である「もの」、
それを「もの」の「は」とすればそれは「ものば」、
ここに物場と事端がそろう。
そして天地という物場に言葉という波動が出現して、
光を基とした現象(事端)が現れる。
これが天地創造である。
・・・・・
よくできた話である。
人類の思いの丈ここにあり。
と言うことだが、
これは実に的を射ていると思う。
「こと」は実に流れに違いなし。
それを「波動」と言うもしかり。
想えば「いのち」や「こころ」も同じ。
それは「こと」であり波動なのです。
しかして事は物とともにあるもの。
その物とは当然のこと身体です。
死ぬとはそれらが離れること。
しかれども離れても無くならない。
物が無くならないように事も無くならない。
形を変えた物に乗り移るだけ。
物の事としてあり続けるのだ。
日本人はそれを感得している。
それを踏まえて日本語は成る。
ゆえに波動を伝えようとする。
日本語はだから謡い詠み歌う。
ちなみに波動には隙間はない。
なのに人の言葉は波動から離れる。
そういう癖をもつ。
そして点(デジタル)になる。
それが現実をくっきり見せる。
これはときに有用有効なのだ。
それが今や全盛となっている。
その最たるものがコンピュータです。
まさにデジタルの化身であると。
しかれども実態は穴だらけ。
私はそれを想っている。
だから心配なのだ。
余計なお世話、
だろうな。
・・・・・
そんな私が、
肝に銘じていること、
「神の言葉は真理であり現実である」、
「人の言葉は仮想であり方便である」、
以上。
これにて一件落着、
これにて一切の迷いなし。
てか、
これこそ方便だろう、
うん!