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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

呪い

2021-05-17 09:04:53 | 日記・エッセイ・コラム
今日は怖ろしい話しです。
身も心も凍ります。
呪いの藁人形、丑の刻参り、…………。
それは横に置いて、
祈りの対極にあるのが呪いです。
どう違うのか。
ともに神に願うものですが、
祈りは「福」を願うもの、
呪いは「他人の不吉」を願うもの、
です。
ちなみに福は自他を分ける必要はない。
不吉はあくまで他人へのことです。
意味合いも含めてまったく違います。
だから私は対極にあると、
そしてまったく違うものだと、
そう思っている。
・・・・・
ところで、
日本では共に神に願うのですが、
欧米では違うと思うのです。
祈りは神に、呪いは悪魔に、だろうと。
そこは分けている。
とはいえ、
悪魔とは元は神の下にいた天使で、
それが神に反逆して落ちたのだと、
そう言われている。
それを堕天使(ルシファー)と言う。
日本と欧米とでは信仰の在り方が違うが、
その根は一神教と多神教の違いでしょう。
祈りと呪いではそこは逆になる。
日本は神に一本化してるが、
欧米は神と悪魔に二極化している。
内容によって分けるのだ。
善悪を明確にしたがる訳である。
さらに言えば、
ならば日本は一神教だと言えなくもない。
全体を一つと見ればそうなる。
部分である現象に神が宿るのは当然で、
その一つひとつに神を見る。
そして名前を付ける。
それが多神教である。
つまり神は多面的なだけであり、
もとは一つとは無意識の前提か。
なら日本こそ一神教である。
なら欧米は似非一神教であろう。
すなわち神と悪魔の間をさまようばかり。
そして悪魔崇拝が跋扈する。
いつも神の手の中で生きている日本とは、
そこが大きく違う。
まあどうとでも言えるのですが、
私一流の言葉遊びである。
・・・・・
言葉とはすなわち言葉遊びなり。
私はそう思っている。
お化けや幽霊は現実ではなく、
脳の中の幻想だと謂われる。
なら概念もそれに違いない。
身体の細胞の一つひとつが現実に感応して、
それが脳に投影されたものは実と言える。
まんまの実とは言えなくとも、限りなく実である。
それが言葉の基ではありましょう。
だが言葉の本質は概念である。
実から想起される概念である。
それは抽象とも言われる。
これは字義の通りである。
象(つまり現象という実)から抽したものです。
概念とは抽象であり、それは脳内の幻想である。
だからです。
言葉とは所詮言葉遊びだと。
それを真理(を追究できるもの)だと思う人がいる。
それが昨今の混乱の原因です。
真理であるらしい言葉、
例えば、
自由・平等・友愛・人権など、
これらの言葉を大声で連呼し、
言葉の中に現実を閉じ込め、
そこから外れるものは否定する。
つまり、
脳内の幻想を真理とし、
眼前の現実を否定する、
のです。
これ本末転倒なり。
・・・・・
表題に戻る。
日本は祈りの国である。
祈り主のおられる祈りの国である。
国民ひとり一人の幸せを祈られる。
そして世界の平和を祈られる。
そこに呪いはない。
呪いは嫌うのです、徹底的に。
それを知ろう。
欧米にも祈りはある。
そこは同じです。
だがときに呪いにも引き込まれる。
それがこれまでの欧米の歴史です。
祈りと呪いの相克の歴史なのです。
今まさにそれが起きている。
大きな大きな渦として。
なお厄介なのが中韓である。
彼らは祈りを見失っている。
ただ呪いがあるばかり。
まことに難儀な時代である。

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