今日は怖ろしい話しです。
身も心も凍ります。
呪いの藁人形、丑の刻参り、…………。
それは横に置いて、
祈りの対極にあるのが呪いです。
どう違うのか。
ともに神に願うものですが、
祈りは「福」を願うもの、
呪いは「他人の不吉」を願うもの、
です。
ちなみに福は自他を分ける必要はない。
不吉はあくまで他人へのことです。
意味合いも含めてまったく違います。
だから私は対極にあると、
そしてまったく違うものだと、
そう思っている。
・・・・・
ところで、
日本では共に神に願うのですが、
欧米では違うと思うのです。
祈りは神に、呪いは悪魔に、だろうと。
そこは分けている。
とはいえ、
悪魔とは元は神の下にいた天使で、
それが神に反逆して落ちたのだと、
そう言われている。
それを堕天使(ルシファー)と言う。
日本と欧米とでは信仰の在り方が違うが、
その根は一神教と多神教の違いでしょう。
祈りと呪いではそこは逆になる。
日本は神に一本化してるが、
欧米は神と悪魔に二極化している。
内容によって分けるのだ。
善悪を明確にしたがる訳である。
さらに言えば、
ならば日本は一神教だと言えなくもない。
全体を一つと見ればそうなる。
部分である現象に神が宿るのは当然で、
その一つひとつに神を見る。
そして名前を付ける。
それが多神教である。
つまり神は多面的なだけであり、
もとは一つとは無意識の前提か。
なら日本こそ一神教である。
なら欧米は似非一神教であろう。
すなわち神と悪魔の間をさまようばかり。
そして悪魔崇拝が跋扈する。
いつも神の手の中で生きている日本とは、
そこが大きく違う。
まあどうとでも言えるのですが、
私一流の言葉遊びである。
・・・・・
言葉とはすなわち言葉遊びなり。
私はそう思っている。
お化けや幽霊は現実ではなく、
脳の中の幻想だと謂われる。
なら概念もそれに違いない。
身体の細胞の一つひとつが現実に感応して、
それが脳に投影されたものは実と言える。
まんまの実とは言えなくとも、限りなく実である。
それが言葉の基ではありましょう。
だが言葉の本質は概念である。
実から想起される概念である。
それは抽象とも言われる。
これは字義の通りである。
象(つまり現象という実)から抽したものです。
概念とは抽象であり、それは脳内の幻想である。
だからです。
言葉とは所詮言葉遊びだと。
それを真理(を追究できるもの)だと思う人がいる。
それが昨今の混乱の原因です。
真理であるらしい言葉、
例えば、
自由・平等・友愛・人権など、
これらの言葉を大声で連呼し、
言葉の中に現実を閉じ込め、
そこから外れるものは否定する。
つまり、
脳内の幻想を真理とし、
眼前の現実を否定する、
のです。
これ本末転倒なり。
・・・・・
表題に戻る。
日本は祈りの国である。
祈り主のおられる祈りの国である。
国民ひとり一人の幸せを祈られる。
そして世界の平和を祈られる。
そこに呪いはない。
呪いは嫌うのです、徹底的に。
それを知ろう。
欧米にも祈りはある。
そこは同じです。
だがときに呪いにも引き込まれる。
それがこれまでの欧米の歴史です。
祈りと呪いの相克の歴史なのです。
今まさにそれが起きている。
大きな大きな渦として。
なお厄介なのが中韓である。
彼らは祈りを見失っている。
ただ呪いがあるばかり。
まことに難儀な時代である。
身も心も凍ります。
呪いの藁人形、丑の刻参り、…………。
それは横に置いて、
祈りの対極にあるのが呪いです。
どう違うのか。
ともに神に願うものですが、
祈りは「福」を願うもの、
呪いは「他人の不吉」を願うもの、
です。
ちなみに福は自他を分ける必要はない。
不吉はあくまで他人へのことです。
意味合いも含めてまったく違います。
だから私は対極にあると、
そしてまったく違うものだと、
そう思っている。
・・・・・
ところで、
日本では共に神に願うのですが、
欧米では違うと思うのです。
祈りは神に、呪いは悪魔に、だろうと。
そこは分けている。
とはいえ、
悪魔とは元は神の下にいた天使で、
それが神に反逆して落ちたのだと、
そう言われている。
それを堕天使(ルシファー)と言う。
日本と欧米とでは信仰の在り方が違うが、
その根は一神教と多神教の違いでしょう。
祈りと呪いではそこは逆になる。
日本は神に一本化してるが、
欧米は神と悪魔に二極化している。
内容によって分けるのだ。
善悪を明確にしたがる訳である。
さらに言えば、
ならば日本は一神教だと言えなくもない。
全体を一つと見ればそうなる。
部分である現象に神が宿るのは当然で、
その一つひとつに神を見る。
そして名前を付ける。
それが多神教である。
つまり神は多面的なだけであり、
もとは一つとは無意識の前提か。
なら日本こそ一神教である。
なら欧米は似非一神教であろう。
すなわち神と悪魔の間をさまようばかり。
そして悪魔崇拝が跋扈する。
いつも神の手の中で生きている日本とは、
そこが大きく違う。
まあどうとでも言えるのですが、
私一流の言葉遊びである。
・・・・・
言葉とはすなわち言葉遊びなり。
私はそう思っている。
お化けや幽霊は現実ではなく、
脳の中の幻想だと謂われる。
なら概念もそれに違いない。
身体の細胞の一つひとつが現実に感応して、
それが脳に投影されたものは実と言える。
まんまの実とは言えなくとも、限りなく実である。
それが言葉の基ではありましょう。
だが言葉の本質は概念である。
実から想起される概念である。
それは抽象とも言われる。
これは字義の通りである。
象(つまり現象という実)から抽したものです。
概念とは抽象であり、それは脳内の幻想である。
だからです。
言葉とは所詮言葉遊びだと。
それを真理(を追究できるもの)だと思う人がいる。
それが昨今の混乱の原因です。
真理であるらしい言葉、
例えば、
自由・平等・友愛・人権など、
これらの言葉を大声で連呼し、
言葉の中に現実を閉じ込め、
そこから外れるものは否定する。
つまり、
脳内の幻想を真理とし、
眼前の現実を否定する、
のです。
これ本末転倒なり。
・・・・・
表題に戻る。
日本は祈りの国である。
祈り主のおられる祈りの国である。
国民ひとり一人の幸せを祈られる。
そして世界の平和を祈られる。
そこに呪いはない。
呪いは嫌うのです、徹底的に。
それを知ろう。
欧米にも祈りはある。
そこは同じです。
だがときに呪いにも引き込まれる。
それがこれまでの欧米の歴史です。
祈りと呪いの相克の歴史なのです。
今まさにそれが起きている。
大きな大きな渦として。
なお厄介なのが中韓である。
彼らは祈りを見失っている。
ただ呪いがあるばかり。
まことに難儀な時代である。
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