ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

ものがたり2

2021-02-15 09:02:40 | 日記・エッセイ・コラム
我には我の物語がある。
それを自分史という。
日本には沢山の人間がいる。
その人間のすべての自分史を集めれば、
日本史になるか。
ならない。
なら日本史とは?
日本の中心の事績であり、
その事績に対する人々の思い、
その系譜が日本史である、
としか言えない。
日本ではその中心に天皇がある。
だから天皇を語れば概ね日本を語れる。
極論すれば天皇史が日本史である。
ちなみに日本は国史を語りやすい。
場所と人の入れ替わりがないのだ。
稀有なことです。
・・・・・
ところで世界史であるが、
これは先の論法でいけば、
世界の中心の物語を語ればいいことになる。
でもそれが難しい。
それなりに中心はありそうだが、
時代によって結構動くのである。
しかも一つとは限らない。
でもそれを語れば何とか世界史になる。
でも思いの系譜が表現しにくい。
それこそが大事なのに。
これはどうしても個的核が必要なのだ。
だから各国史とならざるを得ない、
と思うのです。
つまり歴史とは各国史(民族史)であり、
それを網の目のように繋げば、
それが世界史となる。
今はどうかは知らないが、
今もそうかも知れないが、
世界史の中に日本史があるから、
世界史さえあれば日本史はいらないと、
そう言う人がいた。
だから学校の教科から日本史をなくそうと。
まったく馬鹿な話である。
本末転倒、主客転倒。
まことに、まことに、
歴史を盗もうとする輩がいるのだ。
情けないことに。
・・・・・
戦後教育では偉人伝が消されている。
素晴らしい業績を残して、社会に貢献した人の物語、
それをどんどん消している。
人を美化するのは良くないと言って。
それはその人の実像ではないと。
言っておく。
事実の羅列だけでは意味がない。
事実は見る位置や方向で見え方が異なる。
光の加減も影響するだろう。
目の良し悪しにもよるのだ。
そも同じではない。
何より、よって立つ思いに左右される。
事実は人の数だけあるのだ。
でも事実ならそこに大きな齟齬はないだろう。
そこは押さえておきたい。
嘘がダメなのは当然です。
偉人伝とはその人の為した良きところを伝える。
そこに焦点をあわせて表現する。
それを先を照らす灯かりとする。
それが人々を鼓舞するのである。
そういうものです。
それを美化というなら、
それはそうしているのであり、
そこに意味があるのだ。
戦後教育で学校が大きく乱れたときがある。
これは私の憶測だが、
先のような偉人伝の抹消が大々的に為されたからだ。
子供たちには抽象的概念の押し付けは余り良くない。
むしろ弊害が大きい。
一つ、決定的に思い当たる節がある。
私が高校生ぐらいのときだろうか、
小学校の校庭から銅像が撤去されたのだ。
薪を背負い歩きながら本を読む、二宮金次郎の銅像だ。
今や残っているのは稀だろう。
これでは子供たちに未来を示せない。
抽象的言辞だけでは迷路に入るだけ。
その結果は絶大だった。
学級崩壊が相次いで社会問題になった。
それが今に続く。
とくに歴史学会に広く及んでおり、
教科書検定にも影響を与えている。
なかなかに手強いのだ。
・・・・・
歴史は大事である。
歴史は物語である。
心に響くものです。
魂に響くものです。
それは人間の核である。
言葉を持ってしまった人間の核である。
でもそれを壊そうとする輩がいる。
彼らが今世界を支配しようとしている。
為に彼らはお金を支配している。
そして言葉を支配しようとする。
そして歴史を盗もうとしている。
着々と実行している。
どこかで歯止めを掛けねば。
トランプを待たねばならないのか。
何とか花札で勝負してほしい。
う~ん、