虫の心である、虫の息ではない。
ちょっとの違いで死ぬ場面です。
水の息とは例の鬼滅の刃の炭次郎の息である。
正しくは水の呼吸である。
つまり呼吸法のことです。
その呼吸を通じて次々と技を繰り出す、
そして鬼を退治する、
その「ものがたり」。
・・・・・
表題は私が勝手に付けたものです。
虫の心は、邪心のない澄み切った心を言う。
水の息は、清らかで爽やかな佇まいを言う。
そこから繰り出す技が鬼を退治する。
水が出てくれば、火も出てくる。
あるのです。
炎の呼吸も。
これは今もまだ上映してるアニメに出てくる、
第二の主人公とも言える人物(キャラクター)、
煉獄杏寿郎の呼吸法である。
そもこのアニメに大して興味があった訳ではない。
でも巷では絶大な人気があると知り、
テレビでの放映もあり、
大変気に入ってしまい、
そんなことで封切りを待ちかねて行きました。
期待通りの面白さ。
炎が出てくれば、火もあるのです。
火は日でもある。
これは一番強い呼吸法であるらしい。
最強の技が発揮できるのだ。
それをヒノカミ神楽と言う。
以下又私の勝手解釈。
「ヒ」とは火であり日である。
炎は火の燃えるさま或いはその最も激しい先端を指す。
それはエネルギーそのもので、
まさに力(強さ)の象徴です。
日は言わずもがな太陽です。
これから連想するのは炎ではない、光です。
光には熱(エネルギー)もあるが、
何より明かりであり照らすものである。
それに太陽フレアのように炎的な面もある。
しかしてこれが最強なのです。
そんなことだが、これは呼吸とは言わない。
神楽と言う、ヒノカミ神楽と。
なかなかに面白い。
・・・・・
神楽を別格とすれば基本的に、
呼吸法が技の源になっている。
息である。
漢字の音読みでは分からないが、
訓読みにすれば日本語の根っこに触れられる。
「息」とは「イキ」であり、「生き」である。
つまり命である。
聖書のエゼキエル書にある一節、
枯れた骨が蘇える場面では、
多くの骨が集まり相つらなった。
そして肉ができ皮膚がおおった。
だがそこに息はなかった。
そこで神の予言通りに骨に言った、
あなたがたのうちに息を入れると。
すると彼らは蘇えった。
つまり息は「イキ」であり、「生き」であるのだ。
そう捉えている。
音読みでは分からないが、
訓読みなら分かるのです。
それは先の「ヒ」も同じ。
それは火であり日である。
日本語はそう捉える。
だから以前にも言ったが、
日本語は物事の分断を好まない。
初めに捉えた意でもってそれを使いまわす。
別物に見えても本質は捉えてる。
そして微妙に使い分ける。
時に語尾や韻律を変えて。
・・・・・
なるほど「まこと」の国である。
現実に触れた最初の感性を大事にして、
どこまでもそれとともに在ろうとする。
だから細分化や抽象化は苦手です。
そこは他言語を利用する。
なおである。
先記の日本語とは大和言葉のことである。
あの本居宣長先生が追い求めた。
ところで今や日本語は膨大な語彙を持つ。
日本語だけですべてを賄えてしまうほど。
基は大和言葉の基本語彙と「てにをは」だが、
その上に漢字述語や和製英語等が乗っている。
それがまた幾らでも乗るのです。
まるでブラックホールのように。
なら、その力とは?
まあ理屈は色々ありましょうが、
ひとまず言霊の力としておこう。
ちょっとの違いで死ぬ場面です。
水の息とは例の鬼滅の刃の炭次郎の息である。
正しくは水の呼吸である。
つまり呼吸法のことです。
その呼吸を通じて次々と技を繰り出す、
そして鬼を退治する、
その「ものがたり」。
・・・・・
表題は私が勝手に付けたものです。
虫の心は、邪心のない澄み切った心を言う。
水の息は、清らかで爽やかな佇まいを言う。
そこから繰り出す技が鬼を退治する。
水が出てくれば、火も出てくる。
あるのです。
炎の呼吸も。
これは今もまだ上映してるアニメに出てくる、
第二の主人公とも言える人物(キャラクター)、
煉獄杏寿郎の呼吸法である。
そもこのアニメに大して興味があった訳ではない。
でも巷では絶大な人気があると知り、
テレビでの放映もあり、
大変気に入ってしまい、
そんなことで封切りを待ちかねて行きました。
期待通りの面白さ。
炎が出てくれば、火もあるのです。
火は日でもある。
これは一番強い呼吸法であるらしい。
最強の技が発揮できるのだ。
それをヒノカミ神楽と言う。
以下又私の勝手解釈。
「ヒ」とは火であり日である。
炎は火の燃えるさま或いはその最も激しい先端を指す。
それはエネルギーそのもので、
まさに力(強さ)の象徴です。
日は言わずもがな太陽です。
これから連想するのは炎ではない、光です。
光には熱(エネルギー)もあるが、
何より明かりであり照らすものである。
それに太陽フレアのように炎的な面もある。
しかしてこれが最強なのです。
そんなことだが、これは呼吸とは言わない。
神楽と言う、ヒノカミ神楽と。
なかなかに面白い。
・・・・・
神楽を別格とすれば基本的に、
呼吸法が技の源になっている。
息である。
漢字の音読みでは分からないが、
訓読みにすれば日本語の根っこに触れられる。
「息」とは「イキ」であり、「生き」である。
つまり命である。
聖書のエゼキエル書にある一節、
枯れた骨が蘇える場面では、
多くの骨が集まり相つらなった。
そして肉ができ皮膚がおおった。
だがそこに息はなかった。
そこで神の予言通りに骨に言った、
あなたがたのうちに息を入れると。
すると彼らは蘇えった。
つまり息は「イキ」であり、「生き」であるのだ。
そう捉えている。
音読みでは分からないが、
訓読みなら分かるのです。
それは先の「ヒ」も同じ。
それは火であり日である。
日本語はそう捉える。
だから以前にも言ったが、
日本語は物事の分断を好まない。
初めに捉えた意でもってそれを使いまわす。
別物に見えても本質は捉えてる。
そして微妙に使い分ける。
時に語尾や韻律を変えて。
・・・・・
なるほど「まこと」の国である。
現実に触れた最初の感性を大事にして、
どこまでもそれとともに在ろうとする。
だから細分化や抽象化は苦手です。
そこは他言語を利用する。
なおである。
先記の日本語とは大和言葉のことである。
あの本居宣長先生が追い求めた。
ところで今や日本語は膨大な語彙を持つ。
日本語だけですべてを賄えてしまうほど。
基は大和言葉の基本語彙と「てにをは」だが、
その上に漢字述語や和製英語等が乗っている。
それがまた幾らでも乗るのです。
まるでブラックホールのように。
なら、その力とは?
まあ理屈は色々ありましょうが、
ひとまず言霊の力としておこう。