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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

大いなる勘違い

2019-02-18 12:27:15 | 日記・エッセイ・コラム
この世に勘違いは幾らでもある。
当方にも勿論沢山あるだろうし。
それに普通は気付かないものだ。
しかし以前から気になっていたことがある。
それは世間ではまったく言わないが、
私には大きな勘違いに思えることが。
まったくもって、
・・・・・
聖書は永遠のベストセラーである。
その聖書に曰く。
人間は禁忌を犯し楽園(エデンの園)を追放された、と。
神の怒りに触れたのだ。
しかして追放されたのは人間である。
他の生物が追放されたとは聞かない。
翻ってこの世界を見れば、あらゆる生物が存在している。
彼らが追放されたとは聞かないのに。
なら彼らは未だ楽園にいる筈だ。
その彼らと一緒にいるのなら、人間も楽園にいるというのか。
それはおかしい?
同じ場のように見えて、実は違うのかも…。
そうとしか思えない。
ともかく、
彼らは神の手の中に在り(清いもの)、
人は神の手の外に在る(穢れたもの)、
のだから、
日本でよく言われる「犬畜生にも劣る」や、
ユダヤ人が言う「世界の支配を任された」とかは、
甚だ傲慢な言であり、
大いなる勘違いだと。
・・・・・
同じ場のように見えて、実は違うとは…?
追放されたのだから、違うのは当然だが。
その因は禁断の木の実を食べたことにあるが、
それは何を示唆しているのか。
私はそれを、
言葉を手に入れたこと、
だと思っている。
世界は本来一つである。
見えるがままに一つである。
他の生物はその一つの世界をまんまに生きる。
だが言葉はその世界を区切る。
違いをしって区切る。
かくて世界を切り刻んでしまった。
そして収拾がつかなくなる。
ために再統合しようとするのだが、
それも言葉でもって為そうとする。
それが更に世界を切り刻む。
悪循環である。
かくて脳内の仮想を生きるのみ。
映画「マトリックス」にあった仮想現実のように。
同じ場のように見えて実は違うのはその故である。
これが追放されたということ、
か。
・・・・・
帰る方途はあるのだろうか。
あると信じている。
それはイエスやお釈迦様が示している。
一言で言えば、
現実(本来一つである世界)に向き合えば良いのである、
それだけです。
難しいと言えば難しいが、
簡単と言えば簡単である。