最近知ったのだが、これはなかなか面白い言葉だ。
意味は「騙されやすい人たち」ということらしい。
アメリカで発行された書籍の表題にもなっている。
というか、その本から発しているようだ。
先の戦前戦中戦後のアメリカで、
共産主義者でもないのに共産党に操られていた人物が相当いたらしく、
その人たちのことを指している。
戦後の日本にも来ていたようで、
現憲法の原案を起草したのは正に彼らである。
なかなかに面白い!
確信的な共産主義者なら当然ですが、
そうでないのに利用されていたなら、
まったくもってのおバカさんである。
面白いのはさらにここからだ。
そんなデュープスが今のアメリカにもたくさんいるのだ。
勿論日本にもわんさか。
これはもう笑うしかない。
はっはっはっ…てか。
・・・・・
今の教育界はデュープスの生産現場になっている。
教科書の採択に顕著に現れており、
東大・京大などのエリート校に生徒をたくさん送りだす、
そんな高校ほど反日の教科書を採択している。
皆が皆それを良しとしているとは思わないが、
そのように仕向けられているのは間違いない。
でなければ、ここまで揃わない。
日本を良しとする教科書はほとんど使われていないのだ。
それどころか、
歴史は一つだといって、
日本史と世界史を一緒にし、
人間の歴史として教えよう、
ともしている。
これは歴史教育の破壊である。
歴史とは人の目で見た人の行動記録(物語)である。
見るとは見る視点があるということです。
そしてそれは先ず自分なのです。
勿論客観性も必要だが、
それは他人の目を借りるということであって、
自分の歴史は所詮自分の目で見たものです。
視点を曖昧にして語るのは歴史ではない。
哺乳類・人科ホモサピエンスの生物学でしかない。
・・・・・
人には人の歴史がある。
私には私の、彼方には彼方の。
私の歴史ではその視点は当然私です。
彼方の歴史ではその視点は彼方です。
同じ事実に遭遇しても、視点が違えば見え方は異なる。
もとより事実を曲げるのは論外である。
それは嘘である。
嘘は百回言っても嘘である。
千年言い続けても嘘である。
だが見え方が異なるのは当然です。
それが歴史です。
人には人の歴史ありです。
人の数だけ歴史はあるのです。
先ず自分史がある。
誰であれ、それが始まりです。
それらを集めたものが皆の歴史といえるだろう。
だがそれだけでは収拾がつかない。
その中心を探り、そこから俯瞰して初めて皆の歴史となる。
歴史とは見る視点なくしては語れないのだ。
なのに、皆の歴史でもって自分を語るとは意味不明?
まさに統合失調症と言うべきか、
病膏肓に入る。
・・・・・
現にシナ・朝鮮などは際立った自分史を持っている。
しかも他人の歴史は無視である。
そんな中で日本だけがそれを捨てるのは、
明らかに日本隠しひいては日本潰しであり、
それこそが戦後体制側の要諦なのだろう。
とは言え、
こんなことが身内からさらっと提案されるのだ、
そんな異様な国それが今の日本です。サンフランシスコ講和条約で独立したとはいえ、
これではとても真に独立しているとは言えない。
こんなデュープスが数限りなくいるのだ。
それも所謂知識人等に多いのです。
教育界はその再生産現場になっている。
そしてメディアや政財官界などの中枢に送り込んでいる。
特に利用されやすいのは、所謂頭の良い人と心優しい人である。
本来良き面であるのに、それを逆手に取られている。
なかなか巧妙なのだ。
私は取り込まれていない?つもりだが、
ということは、
頭が悪くて人も悪いということか、
いやはや面目ないことです!
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます