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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

私の流儀

2019-01-14 16:41:52 | 日記・エッセイ・コラム
こうやって何がしかのことを記しているが、
私の語彙や知識は多寡が知れている。
基本的には義務教育(高等学校を含む)がベースである。
大学は卒業しているが、
大学紛争が盛んな時期であったので、
勉強をした記憶がない。
むしろ卒業後の方が本をよく読んでいる。
でも何と言っても義務教育が土台である。
それがなければ以降の読書にも繋がらなかっただろう。
そこは間違いない。
・・・・・
学校での成績は良い方であった。
未だに平家物語や徒然草、奥の細道などの冒頭部分は覚えている。
数学は比較的得意で、苦手だったのは英語である。
歴史は特にだが、物理・生物などの理系も好きだった。
それはさておき、
基本的な語彙や知識はそこで得たのだが、
それがあるから、
その後いろんな本を読むことができた。
それは勉強の為などではなく、
あくまでも興味本位であった。
若い頃は特にジャンルを決めずに読んだ。
もともと興味のある歴史は勿論、
文系の政治・経済などから理系の自然科学の分野まで、
それに宗教的なものやオカルト的なものも。
何でもありだった。
・・・・・
で「それがどうした」である。
どうもしない。
言いたいのは、
考えるとは言葉を操ることである、
ということだ。
だから考えるには言葉を知っていなければならない。
沢山知っていればいるほど考える手づるが多くなり、
広く深く考えられるようになる。
語彙や知識が必要なわけである。
今にして思うのは、
学校教育でいろんな教科を学び、
多くの語彙を身に付けたが、
それらは独立してあるのではない、
ということだ。
すべてが繋がっている。
こんなもの勉強して何の役に立つのか、
と時に言われるが、そんなことはない。
いつどこで役に立つかは分からないし、
人の心に沁みついて深みを与えるのは、
言うまでもない。
・・・・・
私は学者でもなくジャーナリストでもない。
ただのサラリーマンの成れの果てです。
語彙など多寡が知れている。
でも少しは考えられる。
それは語彙と語彙の間を私なりに埋めるのです。
しかもただ埋めるのではない。
それを言葉にするのです。
それが考えるということ、だと思う。
それにしても、そも私の語彙や知識が正確かどうかは?である。
そこはまさに凡人なのである。
正確さだけなら辞書に勝るものはない。
あやふやさが私自身ではあるのだが、
その間の埋め方にこそ実に私の私たる所以がある。
と謂うことで、
当方の誤解や錯誤、はたまた不見識は無視してやって下さい、
その間の埋め方こそ私なのですから。
ご寛容を!