こうやって何がしかのことを記しているが、
私の語彙や知識は多寡が知れている。
基本的には義務教育(高等学校を含む)がベースである。
大学は卒業しているが、
大学紛争が盛んな時期であったので、
勉強をした記憶がない。
むしろ卒業後の方が本をよく読んでいる。
でも何と言っても義務教育が土台である。
それがなければ以降の読書にも繋がらなかっただろう。
そこは間違いない。
・・・・・
学校での成績は良い方であった。
未だに平家物語や徒然草、奥の細道などの冒頭部分は覚えている。
数学は比較的得意で、苦手だったのは英語である。
歴史は特にだが、物理・生物などの理系も好きだった。
それはさておき、
基本的な語彙や知識はそこで得たのだが、
それがあるから、
その後いろんな本を読むことができた。
それは勉強の為などではなく、
あくまでも興味本位であった。
若い頃は特にジャンルを決めずに読んだ。
もともと興味のある歴史は勿論、
文系の政治・経済などから理系の自然科学の分野まで、
それに宗教的なものやオカルト的なものも。
何でもありだった。
・・・・・
で「それがどうした」である。
どうもしない。
言いたいのは、
考えるとは言葉を操ることである、
ということだ。
だから考えるには言葉を知っていなければならない。
沢山知っていればいるほど考える手づるが多くなり、
広く深く考えられるようになる。
語彙や知識が必要なわけである。
今にして思うのは、
学校教育でいろんな教科を学び、
多くの語彙を身に付けたが、
それらは独立してあるのではない、
ということだ。
すべてが繋がっている。
こんなもの勉強して何の役に立つのか、
と時に言われるが、そんなことはない。
いつどこで役に立つかは分からないし、
人の心に沁みついて深みを与えるのは、
言うまでもない。
・・・・・
私は学者でもなくジャーナリストでもない。
ただのサラリーマンの成れの果てです。
語彙など多寡が知れている。
でも少しは考えられる。
それは語彙と語彙の間を私なりに埋めるのです。
しかもただ埋めるのではない。
それを言葉にするのです。
それが考えるということ、だと思う。
それにしても、そも私の語彙や知識が正確かどうかは?である。
そこはまさに凡人なのである。
正確さだけなら辞書に勝るものはない。
あやふやさが私自身ではあるのだが、
その間の埋め方にこそ実に私の私たる所以がある。
と謂うことで、
当方の誤解や錯誤、はたまた不見識は無視してやって下さい、
その間の埋め方こそ私なのですから。
ご寛容を!
私の語彙や知識は多寡が知れている。
基本的には義務教育(高等学校を含む)がベースである。
大学は卒業しているが、
大学紛争が盛んな時期であったので、
勉強をした記憶がない。
むしろ卒業後の方が本をよく読んでいる。
でも何と言っても義務教育が土台である。
それがなければ以降の読書にも繋がらなかっただろう。
そこは間違いない。
・・・・・
学校での成績は良い方であった。
未だに平家物語や徒然草、奥の細道などの冒頭部分は覚えている。
数学は比較的得意で、苦手だったのは英語である。
歴史は特にだが、物理・生物などの理系も好きだった。
それはさておき、
基本的な語彙や知識はそこで得たのだが、
それがあるから、
その後いろんな本を読むことができた。
それは勉強の為などではなく、
あくまでも興味本位であった。
若い頃は特にジャンルを決めずに読んだ。
もともと興味のある歴史は勿論、
文系の政治・経済などから理系の自然科学の分野まで、
それに宗教的なものやオカルト的なものも。
何でもありだった。
・・・・・
で「それがどうした」である。
どうもしない。
言いたいのは、
考えるとは言葉を操ることである、
ということだ。
だから考えるには言葉を知っていなければならない。
沢山知っていればいるほど考える手づるが多くなり、
広く深く考えられるようになる。
語彙や知識が必要なわけである。
今にして思うのは、
学校教育でいろんな教科を学び、
多くの語彙を身に付けたが、
それらは独立してあるのではない、
ということだ。
すべてが繋がっている。
こんなもの勉強して何の役に立つのか、
と時に言われるが、そんなことはない。
いつどこで役に立つかは分からないし、
人の心に沁みついて深みを与えるのは、
言うまでもない。
・・・・・
私は学者でもなくジャーナリストでもない。
ただのサラリーマンの成れの果てです。
語彙など多寡が知れている。
でも少しは考えられる。
それは語彙と語彙の間を私なりに埋めるのです。
しかもただ埋めるのではない。
それを言葉にするのです。
それが考えるということ、だと思う。
それにしても、そも私の語彙や知識が正確かどうかは?である。
そこはまさに凡人なのである。
正確さだけなら辞書に勝るものはない。
あやふやさが私自身ではあるのだが、
その間の埋め方にこそ実に私の私たる所以がある。
と謂うことで、
当方の誤解や錯誤、はたまた不見識は無視してやって下さい、
その間の埋め方こそ私なのですから。
ご寛容を!