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ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

孔子先生

2019-01-08 15:45:09 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカでは孔子学院が閉鎖されているという。
シナ共産党の宣伝機関であったらしい。
それは当然に分かっていたとは思う。
酷いことにスパイの巣にもなっていたようなのだ。
そんなこと初めから分かってるのに、
今になって気付くとは…。
・・・・・
孔子先生もとんだとばっちりである。
孔子先生は歴史に名を遺す素晴らしい先生である。
論語という今に残る立派な本がある。
シナには実としては無いかも知れないが。
名跡だけは残ってるとしても。
これは私の一方的な思い込みだが、
シナには無いもの(見失ったもの)がある。
それは祈り(祈る心)である。
シナは孔子先生の教えを国の教えとしてきた。
所謂儒教である。
だがそれは本当に良いと思うからではなく、
支配に都合がいいから利用してきただけだ。
真の教えはそこにはない。
そも孔子先生は祈りを否定していない。
我鬼神を語らず、とは言っている。
それは鬼神(神)を否定してるのではない。
若輩者の私には語るにはまだ手に負えない、
としたうえで、
だから、
人の世は人が為しているのだから、
人の思いを深く極め、
それをもって世を治めようと…。
まさに合理精神である。
近代精神にも通ずる素晴らしい教えなのだ。
・・・・・
立命館大学の名誉教授であった、
白川静先生が言っていたのだが、
孔子先生はシナ中を廻って祭儀を行なっていたとか。
祭りのために廻っていたのだ。
つまり祈る人だったのである。
私の浅薄な知識だから当てにはならないが、
そう考えれば腑に落ちるのです。
孔子先生の本当の姿が。
その孔子先生の教えを、
教えとしては素晴らしいのだが、
祈りの心を欠落したまま、
なお支配に都合よいところだけを利用し、
孔子先生を顧みようとはしない、
まことに不埒な国となってしまったのです。
今のシナは。
それが中華思想の質です。
自分中心で自分の都合のみを考え、
場合によってはどこまでも諂い、
場合によってはどこまでも尊大に振る舞う、
という。
・・・・・
孔子先生の教えはこの日本で生きている。
シナは既に捨ててしまったが。
聞くところによると、
日本にも孔子学院があるらしい。
理解しかねることだ。
シナの道具でしかないのに。
もしである、
孔子先生の教えを本当に伝えたいのなら、
それなら問題はない。
だがそうは思えない。
だからである、
孔子学院という名前は良くない、
孔子先生にまことに失礼である、
うん!