アメリカでは孔子学院が閉鎖されているという。
シナ共産党の宣伝機関であったらしい。
それは当然に分かっていたとは思う。
酷いことにスパイの巣にもなっていたようなのだ。
そんなこと初めから分かってるのに、
今になって気付くとは…。
・・・・・
孔子先生もとんだとばっちりである。
孔子先生は歴史に名を遺す素晴らしい先生である。
論語という今に残る立派な本がある。
シナには実としては無いかも知れないが。
名跡だけは残ってるとしても。
これは私の一方的な思い込みだが、
シナには無いもの(見失ったもの)がある。
それは祈り(祈る心)である。
シナは孔子先生の教えを国の教えとしてきた。
所謂儒教である。
だがそれは本当に良いと思うからではなく、
支配に都合がいいから利用してきただけだ。
真の教えはそこにはない。
そも孔子先生は祈りを否定していない。
我鬼神を語らず、とは言っている。
それは鬼神(神)を否定してるのではない。
若輩者の私には語るにはまだ手に負えない、
としたうえで、
だから、
人の世は人が為しているのだから、
人の思いを深く極め、
それをもって世を治めようと…。
まさに合理精神である。
近代精神にも通ずる素晴らしい教えなのだ。
・・・・・
立命館大学の名誉教授であった、
白川静先生が言っていたのだが、
孔子先生はシナ中を廻って祭儀を行なっていたとか。
祭りのために廻っていたのだ。
つまり祈る人だったのである。
私の浅薄な知識だから当てにはならないが、
そう考えれば腑に落ちるのです。
孔子先生の本当の姿が。
その孔子先生の教えを、
教えとしては素晴らしいのだが、
祈りの心を欠落したまま、
なお支配に都合よいところだけを利用し、
孔子先生を顧みようとはしない、
まことに不埒な国となってしまったのです。
今のシナは。
それが中華思想の質です。
自分中心で自分の都合のみを考え、
場合によってはどこまでも諂い、
場合によってはどこまでも尊大に振る舞う、
という。
・・・・・
孔子先生の教えはこの日本で生きている。
シナは既に捨ててしまったが。
聞くところによると、
日本にも孔子学院があるらしい。
理解しかねることだ。
シナの道具でしかないのに。
もしである、
孔子先生の教えを本当に伝えたいのなら、
それなら問題はない。
だがそうは思えない。
だからである、
孔子学院という名前は良くない、
孔子先生にまことに失礼である、
うん!
シナ共産党の宣伝機関であったらしい。
それは当然に分かっていたとは思う。
酷いことにスパイの巣にもなっていたようなのだ。
そんなこと初めから分かってるのに、
今になって気付くとは…。
・・・・・
孔子先生もとんだとばっちりである。
孔子先生は歴史に名を遺す素晴らしい先生である。
論語という今に残る立派な本がある。
シナには実としては無いかも知れないが。
名跡だけは残ってるとしても。
これは私の一方的な思い込みだが、
シナには無いもの(見失ったもの)がある。
それは祈り(祈る心)である。
シナは孔子先生の教えを国の教えとしてきた。
所謂儒教である。
だがそれは本当に良いと思うからではなく、
支配に都合がいいから利用してきただけだ。
真の教えはそこにはない。
そも孔子先生は祈りを否定していない。
我鬼神を語らず、とは言っている。
それは鬼神(神)を否定してるのではない。
若輩者の私には語るにはまだ手に負えない、
としたうえで、
だから、
人の世は人が為しているのだから、
人の思いを深く極め、
それをもって世を治めようと…。
まさに合理精神である。
近代精神にも通ずる素晴らしい教えなのだ。
・・・・・
立命館大学の名誉教授であった、
白川静先生が言っていたのだが、
孔子先生はシナ中を廻って祭儀を行なっていたとか。
祭りのために廻っていたのだ。
つまり祈る人だったのである。
私の浅薄な知識だから当てにはならないが、
そう考えれば腑に落ちるのです。
孔子先生の本当の姿が。
その孔子先生の教えを、
教えとしては素晴らしいのだが、
祈りの心を欠落したまま、
なお支配に都合よいところだけを利用し、
孔子先生を顧みようとはしない、
まことに不埒な国となってしまったのです。
今のシナは。
それが中華思想の質です。
自分中心で自分の都合のみを考え、
場合によってはどこまでも諂い、
場合によってはどこまでも尊大に振る舞う、
という。
・・・・・
孔子先生の教えはこの日本で生きている。
シナは既に捨ててしまったが。
聞くところによると、
日本にも孔子学院があるらしい。
理解しかねることだ。
シナの道具でしかないのに。
もしである、
孔子先生の教えを本当に伝えたいのなら、
それなら問題はない。
だがそうは思えない。
だからである、
孔子学院という名前は良くない、
孔子先生にまことに失礼である、
うん!