人間は考える葦である、
とはフランス人パスカルの言葉だったと思う。
考えるとは言葉を操ることだ。
そしてそれを叡智に扱うのがフランス人だと。
私にはそこがどうも合わない。
どこか嘘くさく感じるのです。
・・・・・
人間以外の生物は考えない。
でも世界(現実)は当然に認識しているだろう。
でなければ行動等(生命の維持)できない。
でも言葉を持たないから明確な認識はなさそうだ。
言葉を持たないとは、
目の前の物事にハッキリとした線を引けないということで、
現実を認識していても、
そこは曖昧だとしか思えない。
その曖昧さは人間にとってはであり、
彼らには自明のことかも知れないが。
私はそれを「思う」と表現している。
それは言葉にできないが認識はしていると…。
人間ではそれを直観とでも謂うのだろうか、
動物ではそれを本能とでも謂うのだろうか、
或いは無意識の意識とでも謂うのだろうか、
まあ言葉の綾です。
・・・・・
私は言葉は世界の中に線を引くものだと思っている。
線を引けば物事が分けられる。
それが分かるということだと。
言葉とは世界に線を引いて分かったような気になること、だと。
言葉を沢山知れば知るほどよりよく分かる、のだと。
だから豊かな語彙(言葉であり知識でもある)を得ようとする。
以前に「考えるとは語彙と語彙の間を埋めること」だと言った。
しかもそれを言葉で埋めるのです。
そしてその埋め方にこそ人の本性があると。
ただ知るだけなら辞典とかわらない。
言葉があるだけなら辞典とかわらないのです。
しかも辞典にかなう訳もない。
言葉を知ってその間を埋めてこそ人間なのです。
なら線を引かない生物は…。
線を引かない生物にとっては世界はひとつなのです。
線を引かないのだから当然だろう。
ひとつのものに間はない。
埋める必要がないのです。
目の前の(ひとつの)世界をあるがままに生きるのです。
私はそう思っている。
・・・・・
人間は言葉を持ってしまった。
だから分かったような気になっているが、
それは世界を分断して隙間を作っている、ということです。
だからなお間を埋めなければならない。
しかし埋めれば埋めるほど間は増える。
終りの無いいたちごっこです。
無限のループです。
だから性に合わない。
嘘くさく感じるのです。
でも考えてしまう。
それが人間です。
人間の本性です。
とはフランス人パスカルの言葉だったと思う。
考えるとは言葉を操ることだ。
そしてそれを叡智に扱うのがフランス人だと。
私にはそこがどうも合わない。
どこか嘘くさく感じるのです。
・・・・・
人間以外の生物は考えない。
でも世界(現実)は当然に認識しているだろう。
でなければ行動等(生命の維持)できない。
でも言葉を持たないから明確な認識はなさそうだ。
言葉を持たないとは、
目の前の物事にハッキリとした線を引けないということで、
現実を認識していても、
そこは曖昧だとしか思えない。
その曖昧さは人間にとってはであり、
彼らには自明のことかも知れないが。
私はそれを「思う」と表現している。
それは言葉にできないが認識はしていると…。
人間ではそれを直観とでも謂うのだろうか、
動物ではそれを本能とでも謂うのだろうか、
或いは無意識の意識とでも謂うのだろうか、
まあ言葉の綾です。
・・・・・
私は言葉は世界の中に線を引くものだと思っている。
線を引けば物事が分けられる。
それが分かるということだと。
言葉とは世界に線を引いて分かったような気になること、だと。
言葉を沢山知れば知るほどよりよく分かる、のだと。
だから豊かな語彙(言葉であり知識でもある)を得ようとする。
以前に「考えるとは語彙と語彙の間を埋めること」だと言った。
しかもそれを言葉で埋めるのです。
そしてその埋め方にこそ人の本性があると。
ただ知るだけなら辞典とかわらない。
言葉があるだけなら辞典とかわらないのです。
しかも辞典にかなう訳もない。
言葉を知ってその間を埋めてこそ人間なのです。
なら線を引かない生物は…。
線を引かない生物にとっては世界はひとつなのです。
線を引かないのだから当然だろう。
ひとつのものに間はない。
埋める必要がないのです。
目の前の(ひとつの)世界をあるがままに生きるのです。
私はそう思っている。
・・・・・
人間は言葉を持ってしまった。
だから分かったような気になっているが、
それは世界を分断して隙間を作っている、ということです。
だからなお間を埋めなければならない。
しかし埋めれば埋めるほど間は増える。
終りの無いいたちごっこです。
無限のループです。
だから性に合わない。
嘘くさく感じるのです。
でも考えてしまう。
それが人間です。
人間の本性です。