goo blog サービス終了のお知らせ 

ことのは

初めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。と、ヨハネは言う。まことに、言葉とは不可思議なものである。

考える

2019-01-21 12:27:17 | 日記・エッセイ・コラム
人間は考える葦である、
とはフランス人パスカルの言葉だったと思う。
考えるとは言葉を操ることだ。
そしてそれを叡智に扱うのがフランス人だと。
私にはそこがどうも合わない。
どこか嘘くさく感じるのです。
・・・・・
人間以外の生物は考えない。
でも世界(現実)は当然に認識しているだろう。
でなければ行動等(生命の維持)できない。
でも言葉を持たないから明確な認識はなさそうだ。
言葉を持たないとは、
目の前の物事にハッキリとした線を引けないということで、
現実を認識していても、
そこは曖昧だとしか思えない。
その曖昧さは人間にとってはであり、
彼らには自明のことかも知れないが。
私はそれを「思う」と表現している。
それは言葉にできないが認識はしていると…。
人間ではそれを直観とでも謂うのだろうか、
動物ではそれを本能とでも謂うのだろうか、
或いは無意識の意識とでも謂うのだろうか、
まあ言葉の綾です。
・・・・・
私は言葉は世界の中に線を引くものだと思っている。
線を引けば物事が分けられる。
それが分かるということだと。
言葉とは世界に線を引いて分かったような気になること、だと。
言葉を沢山知れば知るほどよりよく分かる、のだと。
だから豊かな語彙(言葉であり知識でもある)を得ようとする。
以前に「考えるとは語彙と語彙の間を埋めること」だと言った。
しかもそれを言葉で埋めるのです。
そしてその埋め方にこそ人の本性があると。
ただ知るだけなら辞典とかわらない。
言葉があるだけなら辞典とかわらないのです。
しかも辞典にかなう訳もない。
言葉を知ってその間を埋めてこそ人間なのです。
なら線を引かない生物は…。
線を引かない生物にとっては世界はひとつなのです。
線を引かないのだから当然だろう。
ひとつのものに間はない。
埋める必要がないのです。
目の前の(ひとつの)世界をあるがままに生きるのです。
私はそう思っている。
・・・・・
人間は言葉を持ってしまった。
だから分かったような気になっているが、
それは世界を分断して隙間を作っている、ということです。
だからなお間を埋めなければならない。
しかし埋めれば埋めるほど間は増える。
終りの無いいたちごっこです。
無限のループです。
だから性に合わない。
嘘くさく感じるのです。
でも考えてしまう。
それが人間です。
人間の本性です。